林田 健二
「じゃあ企画書、こことここを直しておいてね。明日の朝、またチェックするから。お疲れ」
テキパキと指示を出すと、初音はさっさとタイムカードを押して、ちゃっちゃと帰ってしまった。
「最近、店長は彼氏でも出来たのかな」
「そうですねぇ~」
林田健二の横で美園明美が間延びした声を出した。
早番だろうが、遅番だろうが、結局開店から閉店まで残っていることの多い初音は近頃、時間通りに帰宅する。それも猛ダッシュで。
「猫でも飼い始めたんじゃないですかねぇ」
「ああ、成程…」
あっさり納得した健二を、ちらりと明美が見上げた。
健二はリスペクトする人物の一人に初音を上げている。
本社と現場の板挟みの中、崖っぷちで必死に立ち続けているその姿は尊敬に値したし、初音の言った一言に感銘を受けたこともある。
「あのね、林田君」
現状の不条理をなじった時だ。同意されると思っていた。
「会社は会社なりの道理があって、世界はそれで動いている。あたしたちが貰うお給料はその我慢代金も含まれているの」
まるで自分に言い聞かせているようだった。
「楽な仕事なんてないんだから」
「店長ってかっこいいよな」
「ですよね~」
健二の横で明美が甘えた声を出した。今年四月に入ってきた新入社員は感嘆するように続ける。
「あたしもあんな風になりたいな」
若い彼女でさえそう思うのだ。健二はちょっと誇らしげな気持ちになった。
「ちょっと三番。帰ってきたら企画書見なおすから」
ついでに喫煙タイムも含まれていることを明美も知っている。
「はあい、早く帰ってきてくださいね」
新妻が出勤する夫を見送るような風情で、可愛い笑顔でヒラヒラと手を振った。
喫煙所は閑散としていて、男が一人、静かに煙草を吸っていた。
「あ、マネージャー。お疲れ様です」
「よお」
健二が声をかけると、柏木は唇の端を持ち上げるようにして笑った。
美術部のマネージャーである彼は四十前半で渋みのある男前で、新人女子からおばちゃん連中にまで壮絶な人気がある。
どちらにせよ、停留所(定年間近のおっさんどもの在留場所)ポジション同様の美術部マネに昇格した男は、企画と改新を繰り返し前年比250パーセントの数字を叩きだしたやり手である。
健二らが属する会社もその恩恵を受け、三年前にこの有名老舗百貨店に売り場をオープンすることとなった。
新人店長の初音を気にかけていたのか、オープン当初、柏木はよく売り場に顔を出した。
まだ社会人になりたてだった健二は、マネージャーと店長が仲良く話している姿を見て、早く自分もあの中に加わりたいと切望したものである。
その雰囲気が、ただのマネージャーと店長の間に流れるようなものではないことも気が付いていた。今では全く感じられない密な雰囲気。
「お疲れ。どうだ、調子は」
「何とかボウズ《売上ゼロ》はまぬがれました」
「厳しいよなあ、どこも」
柏木の横に座り、煙草に火をつける。
「お宅の店長、元気?」
「最近、ペットを飼い始めたみたいです」
「へえ、ペットねぇ」
男なんじゃないのか、と言外に含めたような言い方に、健二は若干ムッとする。
「女なんて、結局は一緒さ」
空気が伝わったのだろうか、柏木はクツクツとおかしそうに笑い、煙草を灰皿に押し付けた。じゅ、と煙がよがる。
「あんまり、幻想を持たない方がいいぞ。あいつらは夢と打算で生きている」
「じゃあ、なんで柏木さんは結婚したんですか」
その左薬指に光る指輪を見て、健二が聞いた。皮肉のつもりだった。
「決まっているだろう。処世術さ」
大人の男というものは。
手を上げて喫煙所の扉の向こうに去ってゆく柏木の広い背中を見ながら、健二は思った。
大人の男というものは、何かを失って、何かを誤魔化しながら生きているものなのかもしれない。