彼方からの
季節は移ろい、太陽が主張し始める時期に差し掛かった。
林田博は研究室でダラダラと、友人らとくだらない馬鹿話をしている。
「このご時世にクーラーない部屋なんてありえへんよな」
「扇風機だけは四台もあんのになあ」
「熱風しかこんぞ、誰か自治体に掛けあえや」
「あれ、本当に存在してるんスかね。秘密結社だったりして」
「梅木が……」
だらしなくもたれた椅子(古くてきしむ)から、身を乗り出した時、ケータイが鳴った。
「あ、木村さん」
こんにちは、とケータイの向こうで声がした。
「お久しぶりですね。新しい職場には慣れました?」
弟から売り場が日本橋山中屋から撤退したことは聞いている。今は健二は名古屋におり、木村初音は銀座の店舗で働いている。
「おかげさまで。バタバタしていて、お礼が遅くなってすみません」
林田さんさえよければ、ちゃんとあって改めて礼が言いたい、と初音は続けた。ついでに滋賀に行くとも。
「直隆の命日に、姉川へ行こうと思うんです」
「よければ同行さしてもらえませんか。あそこは車で行かんと結構不便ですよ」
もう一つ。直隆ゆかりの恩念寺に連れて行きたかった。引っ掛かりは今でも胸の内でくすぶっている。だが断れれば、もう関与しないつもりだった。
「参ります」
初音は即答した。
「じゃあ……三十日の十二時にJR京都駅で……。はい、はい、……失礼します。……なんやのお前ら」
最後は友人らに向かって発せられた言葉である。
じーっと博の会話を聞いていた彼らは、
「んま、聞きました? 奥さま」
「女と電話してましたざますよ」
「アタシたちを敵に回したわね」
「公開処刑にいたしましょうか」
恨みと妬みを込めて、ひそひそと不穏な相談を始めた。
いや、それよりも梅木だ。
「君の瞳は百万ボルト」
といってやりたいほどランランと目を輝かせて博を見つめていたのだった。
「最低」
正晴はオフィスの窓辺から街を見下ろしながら、悪態をついた。
ジョージア州首都アトランタは緑の中に高層ビルが点在する。ここから見える景色を正晴は気に入っていた。
「だから言ったじゃないか。未来の見えない相手はやめとけって」
久しぶりに初音に電話をした。例の恋人を聞いたところ、「帰るべき所に帰ったの。でもあたしは大丈夫だから」とさらりとした返答がきた。
「未来は見えなくても、続いていくものでしょう」
その声には暗さの微塵もない。
「姉ちゃん、実はつらいくせに」
つらい時ほど「大丈夫」を繰り返すことを、初音は気が付いているんだろうか。
だけど、受話器の向こうから聞こえる声は、本当に「大丈夫」そうで何だか安心するような、信頼に足るようにも感じた。
「つらくないといったら嘘になるけどね」
声のトーンは変わらない。
ああ、そうか。
あの男は姉を強い、と言った。そこが堪らなく愛らしいと。
初音は強い。
身を纏う鎧が消えても、凛としてそこに立ち続ける。
理不尽な現実に打ちのめされても、必ず起き上がる。
「ね、正晴」
姉の声は遠く海の彼方から電波に乗って、正晴の耳に届く。
柔らかく、それでいて揺るぎない声。
「あの人は最後に最高のものをくれたの」