表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/31

居酒屋にて

それからの日々を初音はよくは覚えていない。

仕事を休むような真似はさすがにしなかったが、身が入ってなかったのも事実だった。

売り場にいるときは、とにかく早く帰りたくて帰りたくて、苦しかった。

駆けるように家に戻ると、今度は直隆と二人でいるのが苦痛を感じてしまう。

そして、縋るように逃げるように、体を重ねる。

焦燥と狂気を伴って。

何もかもどうでもよかった。ただ、暗闇に中を彷徨っているような、そのくせ何を求めているのかも分からない。

林田と明美の戸惑いも目に入らなかった。

そんな初音に活を入れたのは船橋である。

かつての上司は、ある日突然売り場にやってきて、

「お宅の店長、借りてくぜ」

と問答無用で初音を居酒屋に拉致したのだった。


「あの船橋さん。あたし、こんな所でこんな時間から、あなたと飲んでいる場合じゃないんですけど」

「悲しいことをいうじゃねえか、おい」

おしぼりで手と顔と、ついでに脇までふいた船橋は構うことなくビールを二つ注文した。

「林田からSOSがあって行ってみりゃ、なーんだ、そのツラは。やりすぎなんじゃねえの」

思わず初音は顔を撫でる。

これだから女は、と船橋は息を吐いた。

「店長の様子がおかしいんです。この前は慶事用の包装紙を巻いてお客さんに渡そうとしていました。僕が気付いたから良かったものの、本当に最近おかしいんですってほとんど泣きそうな声で電話があったぞ。大方、男と悶着でもあったんだろうが、しっかりせんか、この馬鹿者」

「すみません……」

「人間だからしょうがねえとは思うがな。仕事にプライベートは持ち込むな。俺たちは働いて会社の利益を上げる。会社は見返りに俺たちに給料を払う。しかもお前は責任者だ、部下に心配かけてどうする」

「はい……」

ふん、と鼻を鳴らすと船橋は注文したつまみをずずいと初音に押しやった。

「食え。とにかく食え。お前、まともに食っとらんだろう」

「はい」

食欲はさっぱりなかったが、あえて箸を取る。

「なあ、木村」

「なんですか」

ししゃもをほおばっていた船橋が顔を上げた。

「俺はな、今までずっと女が男の土俵に上がってくるんじゃねえって思っていたよ」

「はあ」

「中途半端に三、四年仕事をして、やっと使いもんになれたところで、結婚だ、自分探しだ、留学だとかいって辞めていく。女は気楽でいいね、逃げる場所があって。結局は親や旦那に依存して生きていけるもんな」

「それは」

「まあ、聞け。それが幸せってもんなんだろう。時代が変わったからって世間はそうそう変わらねえ。お前も親に仕事辞めろ、結婚して早く孫の顔を見せろとせっつかれているクチだろう」

「はあ、まあ」

「お前はよくやっているよ。逃げずにあの日本橋山中屋で頑張っているよ。本社も評価している。だからな、木村」

ししゃもはきれいになくなり、船橋は今度はから揚げに箸を伸ばした。

「あそこが無くなっても、本社はお前を離さねえよ。多分、またどこかの売り場に配属になるだろうさ。そして、お前ならどこにいっても成果を出してくれると期待しとるんだ。その期待にこたえるのが、お前の役目だ」

「……」

「もし、うちが潰れてもお前ならどこでもやっていけるさ。人間、一番大事なのは根性だからな」

「船橋さん」

「ああ?」

「ありがとうございます。……わたし、甘えていました」

初音は涙が出てきそうになり、身を震わせた。

心配してくれる人がいる。必要としてくれる仕事がある。

店長会で会う以外、連絡もとっていない船橋が、わざわざ初音を連れ出してくれた。

説教をしてくれた。

あたしは、酔っていただけではないのか。

大切な人が死ぬ、もうすぐ目の前から消える。そんな不幸にただ酔って、自分がなすべきことを放棄していたのではないか。


あたしはそんな女が腐ったような女じゃない。


一息ついて、初音は顔を上げた。

「まあ、食えよ。言っとくがおごりじゃねえぞ、次は倍返しで出してもらうからな」

「はい」

照れくさそうに船橋はそっぽを向いた。初音は冷奴に箸を伸ばす。


直隆は大事。でも仕事も大事。

やるべきことはしっかり果たして、これからの直隆との僅かな時間も大切にしよう。




だが、別れはあっけなく来た。

思ったよりも早く。

帰宅した初音を待っていたのは、無人の室内だった。


覚悟をしていたものの、喪失は思ったよりもひどかった。


さようならくらい、言いたかったよ。


誰もいない部屋の真ん中で、初音は声を上げて泣いた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ