ストーカー
「ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ」
九十度のきれいなお辞儀をして、客を見送る。その姿が消えた瞬間、初音と林田健二は同時にストックに飛び込んだ。
「やったぁ! ついにペルーノがお嫁入り!」
「店長、かっこいいです! かっこよすぎです! 惚れてしまいしまいそうです!」
手に手を取って、キャアキャアはしゃいだ後、万歳三唱を繰り返す。
この半年間、右にも左にも動かず見向きさえされなかった渦巻ペルーノがついに売れた。
ツキ、というものを初音は信じている。
今日はいい客に当たる日だとか、なぜか直前で逃げられてばかりだとか。販売に置いてツキに左右される場合は良くあることだ。
勿論、それだけが全てではない。
客は無意識に販売員に信用を求めるし、その為にスキルが必要な時は大いにある。
それにしても、初音はここ最近ツイている。
今まで石のごとく動かなかった十万、二十万の絵画たちが羽でも生えたようにポンポン売れていくのだ。
勢いに乗った初音に続けとばかりに、健二もガンガン売ってゆく。
今月予算は軽くクリアしてしまったし、本社からお褒めの電話まで頂戴した。
「ああ、今月の店長会は肩身の狭い思いをしないで済むわ」
満足げな溜息をつきながら、ストックの扉を開けた。
初音の勤める会社は、北は北海道から南は福岡まで全国二十店舗の売り場を持っている。営業スタンスとして全て百貨店に店子として入っており、月一度の店長会では全国の店長が本社にて集い、会議が行われる。
「金曜ですよね。頑張ってきてください」
「うん。気張ってくるわ。あ、林田君、そっち持って」
配送予定のペルーノをこれから梱包しなければならない。
「林田さん」
早番の初音が上がった後、日計表を書いていた健二に美園明美が声をかけた。
「なに?」
顔を上げると明美は言いにくそうにもじもじしている。
「どうしたの?」
「実は……」
日本橋山中屋の従業員出入り口は一つしかない。そこで森田譲司の姿を最近、しょっちゅう見かけるという。
「店長に電話番号わたしていた迷惑男です」
まるで誰かを待っているように、レールにもたれて出入りする人々をじっとみていたらしい。
「なにそれ」
さすがに健二は声を上げた。もしかしてそれは
「ストーカー?」
「店長は全然気が付いていないみたいだし、どういったらいいか分からなくて」
「いや、それは早く言わなきゃだろう」
健二もまったく気が付かなかった。多分、毛嫌いしている明美だからこそ気が付いたのだろう。
「電話する」
会社の子機から初音の携帯番号を検索する。だが、受話器の向こうから聞こえたのは「ただいま電波の届かないところにいるか……」無機質なアナウンスが流れるばかりだった。
「きっと、電車だからですよ。メールしてきます」
不安そうに明美は言って、自分の携帯を持ってストックに消えた。
そうだといいんだけど。
なんだか嫌な予感がする。健二は無意識に左腕をさすった。極寒地域にいるみたいに鳥肌が立っていた。
ゆれる電車の中、初音は携帯を開いて電源が切れていることに気が付いた。
朝、充電するのを忘れていたらしい。まあ、そんなにしょっちゅう鳴るものでもないし、と呑気に夕飯の献立に頭を切り替える。
今日はカレーにしよう。直隆の好物だ。カレーとかハンバーグとか、子供みたいなものが好きなんだから、と苦笑しながら玄関を空けた瞬間だった。いきなり後ろから羽交い絞めにされて、ものすごい勢いで玄関横の台所に押し倒された。
「きっ……!」
口を大きな手で塞がれる。恐怖が脳天を貫いた。
直隆、直隆、助けて、怖い!!
ドスドスドスという音の後に、のしかかっていた力が緩まる。
「ぐげっ!」
男が悲鳴を上げた。直隆がその頭を蹴り上げたからだ。腰が抜けている初音を引き離すと、台所にあった包丁を直隆は取った。よどみの無いその行動に、今度は初音が悲鳴を上げる。
「だめ! 直隆!」
「警察、呼びました!」
ドアが開けっ放しになっていた。騒ぎは階内に筒抜けで、数件がドア越しに様子を伺っている。その内の誰かが通報してくれたらしい。
男は呻きながら直隆を睨み付けていたが、警察の言葉に身を翻して逃げて行った。
「怪我はないか」
「あ……うん……」
立ち上がろうとしても、体に力が入らない。
「無理をするな。わしがここにおる故」
今は、あなたが怖い。ショックの抜けない体で、初音は小さく震えている。
警察を呼んだという声がなければ、あのままいっていれば、直隆は間違いなくあの男、森田譲司を殺していた。ためらいの欠片も無く。
だって、直隆は戦国に生きていた。戦が当たり前にある時代、人を当たり前に殺す時代に生きていた。
落ち着かせるためか、直隆は初音の頭を撫でている。その顔は心底心配そうで、迷子になった子供のように頼りない。
ああ、でも。初音の頬を涙がボロボロと伝ってゆく。
あたしはこの人が大好きだ。理屈とか能書きとか全てを抜きにして。
「直隆」
その肩に頭をもたせ掛けると、大きな腕が回った。
「守ってくれてありがとう」
「わしは初音の内藤であるからの」
騎士といいたかったらしい。初音は少しだけ笑って目を閉じた。
あっさり警察に捕まった森田譲司は、脳内で夢の青写真を描いていたそうだ。
「東京のど真ん中で、運命の再会を果たしたもんだから、もう結婚する気でいたんですって。仕事もうまく行ってなかったみたいだし、変な方向に現実逃避しちゃったんでしょうね」
担当した婦人警官はそういった。
「自分の都合しか考えないで、それを他人に強制する。叶わなければ実力行使にでる、もしくは世間や人のせいにする。変な大人が増えてやんなっちゃうわ」
人のことは言えない、と初音は内心呟いた。自分だって多かれ少なかれ、そう思っている。