桜散るころ
直隆が普通サイズになってしまい、初音の日常のリズムは大きく変わった。
まず、裸同然でウロウロするのが恥ずかしくなってしまった。
ブラを脱いで挑発など考えられない、そんなことしたら、頭からペロリと食べられてしまう。
次に、食費の負担が大きくなった。これは致し方ない。それにしても、良く食う。
直隆は初音が仕事に言っている間、外を歩き回っているらしい。
テレビ三昧の生活よりも健全だと思わないでもないが、迷子になったらどうする。ろくに住所も言えない男なのだ。
「心配するな」
あっけらかんと直隆は言った。
「駅にさえ辿り着ければ、後は分かる。子供扱いするな」
「変な人に声かけられても、付いて行っちゃ駄目だからね。危ない人たちに絡まれたら、一目散に逃げてね」
「絡まれると言えば」
思い出したように直隆は、空を見た。
「渋谷というところでちーまーなる人種に絡まれたことがある。あれは一種の物乞いか?」
「……あんた、歩いて渋谷まで行ったの?」
何時間歩いたんだ。
「うむ。金など持ってないと言ったら、初めは疑っておったが、本当に持ってないと分かると、逆に同情されて、これをくれた」
ぺらりと見せられたのは、千円札だった。
直隆は直隆なりに逞しく日々を過ごしているらしい。
テレビのおかげか情報も豊富だ。若干、偏りもあるが。
また、直隆は台所に立つことを極端に嫌った。
武士のする事ではないという。おかげで「お家に帰ったら温かいご飯が待っている、さあ直隆を教育しようプロジェクト」は夢と潰えてしまった。
生活は大きく変わった。
わずらわしいことだけではない。
自分の存在を認めてくれる人がいること。
自分を求めてくれる人がいること。
その人と一緒に過ごせること。
逞しい腕の中で、初音はうっとりとため息をつく。
色が付いていたらきっとバラ色だったろう、幸福のため息だった。
****
この世界は、色で溢れている。
いつかの丘の上の公園で、コーヒーを飲みながら直隆は町を見下ろしている。
都心に出れば、どこから湧いて出たのかと思うほどの大勢の人がいたし(最初、直隆は合戦でもあるのかと思った)、髪の色すら取り取りだ。
初音が仕事に行くと、直隆は外を歩く。
近所をおおかた征服したあとは、テレビでよく言われる地名の場所に行きたくなった。
電車には乗らない。
人間、足という便利な物があるではないか。
勿論、最初の内は戸惑った。
道を尋ねても逃げられてしまったり、逆にどこぞの家に連れ込まれそうになったり(いい年した親父だった)。
喉が渇いたので民家に茶か水を所望しようと思ったら、大騒ぎになってしまい警察を呼ばれそうになったり。
そしてなにより平和の恩恵を受けていることだ。食うに困ることは無いほどの食料がある、過剰なほどだ。だからなのだろうか、直隆は「大男」と呼ばれるほどに背が高かったが、ここではむしろ標準らしい。道行く人々も体の骨格からして違う。
直隆は一つ一つ、学習していっている。
この時代に来た当初の苛立ちや違和感は少しずつ薄れてきていた。
うららかな青空の下、町の隙間をぬって電車が走る。
民家の屋根は日に反射してきらきらと輝く。
少年と少女が手を繋いで直隆の後を通り過ぎて行った。
あの手を繋ぐという行為。
どうも気恥ずかしいが、今度初音にしてやろう。
きっと、嫌がるふりをしつつも、頬を染めて喜ぶだろう。
満開の桜が、葉桜へとなり始めたころ、初音と直隆はお花見へと出かけた。
「名所といえば六義園でも浜離宮でも代々木でもあろうに…」
「いいの!」
というわけで上野公園に来ている。
ピークは過ぎたのか、それでもまだまだ桜を愛でつつもそぞろ歩きをする人は多い。
花見といえば上野、という初音の思考回路は、多分、小さな頃の記憶だろう。
まだいくつかも覚えていない少女時代、家族と共になんども来た。
パンダと絶え間なく降り注ぐ桜の花びらだけが記憶の底に留まった。
大きくなったら大好きな人とここに来るんだ。
幼心の小さな決意はいつしか消えて、初音は大人になった。
そして知ってか知らずか、男と二人、桜吹雪の中にいる。
「初音」
「ん?」
ふと手を絡められ、初音は口から心臓が出そうになった。
直隆を見やると、赤い顔してそっぽを向いている。
そのくせ手は離さない。
やだなあ、もう。手を繋ぐだけで、こんなに嬉しいなんて、あたしは中学生か。
大人の恋愛というものは、色々な物が付属してくる。
純粋や素直が美徳になるほど生易しくはないお年頃。
保身、将来を見据えた駆け引き、いかに自分の値を釣り上げるか。
それが楽しくもあり、煩わしい時もある。
だから、不意打ちに弱いのだ。
心の中で言い訳をして、大きな手を握り返した。
風が吹いて、花びらが舞う。
「美しいのう」
感嘆したように直隆が言った。
「なあ、初音。知っておるか? 美しい、はえーごでびゅーちふると言うのじゃぞ」
知っているよ、そんなこと。
苦笑と共に出そうになった言葉を、慌てて飲み込んだ。あまりにも直隆の顔が得意げだったもので。
「へえ、知らなかった。直隆は物知りだね」
「全く、この世はびゅーちふるじゃ」
横にいる恋しい男は目を細めて、嬉しそうに微笑んだ。
あなたが横にいるだけで、世界は美しく輝いてしまう。
思春期の熱に浮かされたような気持ちで初音は思う。




