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時計仕掛けの男

掲載日:2026/05/22

ショートショートです。

 廊下の扉を開けると、彼はただそこにいた。

私は作業着の袖のゴムに引っかかる腕時計を気にしながら、彼の近くに座り込む。どこからともなく飛んできたハエが彼の瞳にとまった。彼の半分開いた目は「それが当然だ」とでも言いたそうに虚空を見つめていた。

 1分もしないうちに救急隊と警察官らが歩いて現れた。

救急隊らは無言で蘇生の手順を数回繰り返し、また1分ほど遅れてきた医師が表情を一つも変えずに死亡判定を下す。そして速やかに遺体の搬出に移行した。

私はそれらのオペレーションを気にせず、無言で廊下に横たわる赤い水たまりを目でなぞりながら、飛沫痕を探していた。慣れた手つきで遺体の搬出が終わり、警察官の一人が抑揚のない声で、

「以上です」

とだけ言い放つ。顔も合わせずにうんとうなずく。窓から見える鼠色の空は今日も霧雨を振りまいている。いつもと変わらぬ光景に安心感を抱く。

警察も撤収し、あとに残されたのは血だまりのみとなった。私の仕事はこれらを元通りにすることだ。私はモップで血だまりを回収した。この仕事は何度目だろう。少し間が開いたが慣れたものだった。床の血をすべてふき取った後は、専用のアルカリ性洗剤を用いてシミをふき取る。すると下から血だまりと同じ形のいつもの黒い痕が出てくる。懐にしまっていた写真と見比べて、同じ色なことを確認すると、私の今日の仕事は終了だ。


 掃除は見積もり通りの時間で終了し"廃棄物"の処理を済ませると、私は帰路に就いた。初老の体には少々こたえるものがある。霧雨に濡れる作業着はほのかに鉄の匂いを立ち上らせてくる。自宅には、現場から数分もしないうちに着く。コンクリートの鼠色が空に溶け込んで一体になっている。ポケットから鍵の束を取り出す。同じ意匠の並んだ中から一発で自宅の鍵を探し当て、手元も見ずに開錠した。すぐにシャワーで血の香りを落とし、冷蔵庫から作り置きの皿を取り出す。今日は鶏肉の日だ。電子レンジに放り込み、3分。

 待っている間に一息つく。ああ、いつも通りだ。すべて順調だ。ふいに机の腕時計に目をやる。私は極力、ルーティンから外れた行動をしないようにしている。突発的な行動は未来を不正確にする。バタフライエフェクトを知っているだろうか。一匹の蝶の羽ばたきが、地球の裏側で竜巻を引き起こすかもしれないというものだ。未来というものは予測するには複雑すぎる。だから無駄な買い物や外出は控えているのだ。だが、私の行動ですべてがコントロールできるわけではない。先日、いつもの帰り道に見知らぬ露天商がいた。すべて想定の上で生きてきた私は、その未知に恐怖した。だが同時に、危険な好奇心に駆られてしまった。その露天商の手に携えられた銀色の輝きに、惹かれてしまったのだ。私は初めて、葛藤を覚えた。ここで時計を手に入れることは、カオスを生み出すかもしれない。そんな不必要な、非合理的な行動は誰もしないだろう。だが、不思議とその時計を手に入れるべきだと強く感じていた。結果として、私は、ほんの少しの不条理を許容してしまった。

 時計は安心する。いくつもの歯車がかみ合い、わずかなずれもなく進んでいく。それは、私の人生において、苦悩や葛藤などないと保証してくれているようだった。だが、この腕時計を見るときは少し違っていた。ラグの見事な輝きは、未来を照らし続ける光に思えた。また、精度はよくないようで、秒針がたまにズレてしまう。なぜだかそれが、「良いものだ」と感じる気がするのだ。未来には何秒ズレているか分からないのに懸命に進む秒針は、私を鼓舞してくれているようだった。ふと気づくと、ラグ部分に血がついてしまっている。ああ、なんてことだ。私は大急ぎで掃除用薬剤を薄め、やさしく拭いてやった。よかった。シミにはなっていない。平常心を取り戻した私は、とっくに冷めてしまった鶏肉を胃に放り込み、10時には床に就いた。

 

 起床してすぐ、今日の準備に取り掛かる。クローゼットには茶色のトレンチコートだけが掛けてある。長いことしまい込んでおり、着るのは今日が初だ。コートの右すそに付いた小さな折り目をアイロンで伸ばしながら、机に置いた腕時計を見ていた。拭き残しは無いようだ。ほっと胸をなでおろした。不思議な感覚だった。私は不安を楽しんでいるのか?それは不条理だ。未来におびえるなど、不確定な未来に期待するなど、そんなもの無いほうが平穏なのだ。自分がどのように生きるのか。どのような最期を迎えるのか。すべては規格化されてしかるべきだ。それが幸せであり、我々はそうして生きてきたのだ。現に皆そのように生きている。不意に、電話が鳴った。予定通りの着信だったが、腕時計に気をとられていた私は少し飛び上がってしまった。電話のベルが3度なったことを確認し、受話器を持ちあげる。

「Kだ」

そう名乗った。Kは私のコードネームだ。といっても使うのはこれが初めてだ。

今日の電話にはそう言うことになっていた。何も疑問には思わなかった。

電話越しの人物は、聞いたことのない声で、何度も耳にしたセリフを吐いた。

「ある男を殺害してほしい」

お互いぶっきらぼうに、半ばうわの空で会話のようなものを交わした。

「以上だ。何か不明な点はあるか」

「いや、十分だ」

電話の人物はそれ以上何も言わず、通話を終了した。トレンチコートを羽織り、黒い山高帽をかぶり、ティアドロップ型のサングラスをかけて準備は完了だ。耳にはインカムを、懐には拳銃を仕込んでいる。

先日使い終えた作業着の入ったゴミ袋を持ち、そのまま家を後にする。鍵は閉めなかった。


 今日は昨日と同じ現場だ。霧雨は風に揺られ、いつのまにか私のコートの左側をじわじわと濡らしていた。私はなぜかとっさに傘を持つ手を入れ替えていた。


 現場は静まり返っていた。だが、ターゲットがここにいることは確定している。そして場所も分かっている。それは向こうも同じことだ。音をたてないように目的の位置まで向かう。といっても互いに、義務的に気配を消しているだけではあるが。ゆっくりと、決まった動きで壁際まで足を運ぶ。お互いに次の動作は確定しており、ただ時間を待つだけだった。作業なのだ。これが終われば今日の役目は終わりだ。インカムからの指示に従ってそのまま足を動かせばいい。簡単な作業だ。これで終わりなのだ。私はこの仕事を前から知っていたし、今日の予定は決まっていた。ちょうど床の黒いシミが目に入る。昨日の作業を思い出し、少し足を遅らせてしまった。

「パン!」

銃声がこだました。銃弾はそのまま壁にめり込んだ。やってしまった。私はなんてことをしてしまったのだろうか。ターゲットの男はきょとんとした顔でこちらを見ている。

「すまない、続けてくれ」

私がそう言うと、男は先ほどまでとはうって変わり、集中して銃を構える。私はここで撃たれる。それが今日の役目だ。場所も時間も指定されている。そして倒れる向きも、形も。すべて決められている。それが、世界の平穏な日常を、何事もない毎日を続けるために必要なのだ。そのとき、はっとしたように腕時計に目をやる。これが本当に答えなのだろうか。私は今ここで何も抵抗せずに、同じ毎日を繰り返すためだけに死ぬべきなのだろうか。そんなことを考えているうちにまた、

「パン!」

 今度は外さなかった。胸から腹へ、生温かい感覚が広がっていく。私はふらふらとよろけると、棚に足をぶつけそのまま仰向けに倒れた。ターゲットの男は走り去る。一瞬見えた男の顔には少しの焦りが感じられた。彼の行先は知っている。かつて私は、彼と同じ役割の男を銃殺した。彼もまた自分の役目を全うしているだけだ。だが、どうだろうか。彼は「決められた場所」に向かうだろうか。

 廊下には私の浅い息のみがこだまする。広がる血は、床の黒いシミを過不足なく綺麗に染めていく。何も問題はないはずなのだ。私の替えなどいくらでもいるはずなのだ。明日には、代理の役の者が彼を追い、銃殺することになっている。だが、そうは上手くはいかない気がした。いや、そうなってほしかった。この思いは平和に対する反逆であるだろうか。世界を混沌に陥れる危険な想像だろうか。私は模範的な市民であったし、この世界がずっと続くことを願っていた。だが今は、この感情を少し楽しんでいた。


 失血で意識が薄れていく中、雲の切れ間から一筋の光が漏れ、天窓を貫き私の頬を撫でた。細い光だったが、だんだんと冷たくなる私からしてみればとても暖かかった。ふと左手の腕時計が気になった。ほとんど感覚の残っていない左手をやっとのこと視界に入れる。ああ、なんて美しい輝きだ。時計の針は止まっているようだった。倒れた拍子に壊れたのだろう。そして、私の余力もここまでのようだ。

 弱弱しく掲げられた腕は重力に従って床の血だまりを叩くいた。ぴしゃっと小さな音を立てて、真っ白な壁に赤を添えた。

「ああ、明日はどんな日になるんだろうか」

薄れゆく意識の中、私は笑いながら、迎えることのない明日に思いをはせた。


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