第三話 互いの立ち位置
放課後のチャイムが鳴ったとき、私はすぐには立ち上がれなかった。
椅子の脚が床を擦る音。
誰かの笑い声。
部活へ急ぐ足音。
全部昨日と同じはずなのに、どこか遠い。
窓の外ではサッカー部が練習を始めていた。
ボールを蹴る乾いた音が、規則正しく校庭に響く。
反射的に視線を向けそうになって、やめた。
見なくても分かる。
あの中に陽向がいることくらい。
陽向はサッカー部だから、きっと今もあの中に混ざって一生懸命練習をしているのだろう。
私は鞄を持ち、誰にも気づかれないように教室を出た。廊下の窓から差し込む光は、もう夕方の色をしている。
長く伸びた影が足元にまとわりつく。
帰ればいい。
まっすぐ家に。
頭では分かっているのに……
足は電車に乗ったあと、昨日と同じようにひと駅前で降りた。
川沿いへ続く道。
昨日と同じ道。
自分でも呆れるくらい単純だと思う。
傷ついた場所をもう一度なぞるみたいに。
それでも、確かめたかった。
あれは夢じゃないと。
ちゃんと現実だったと。
いや、違う。
結局は信じたくないだけなのだ。受け入れられずに、こうやって昨日を辿っているだけ。
川の匂いが近づく。
少し湿った空気が、頬に触れる。
堤防へ降りる階段をゆっくりと下りた。
昨日よりも、空は淡い。
オレンジと紫が混ざりきらないまま曖昧な色をしている。
ベンチは空いていた
……と思った。
視界の端に黒い影が映る。
木のそば。
昨日、鈍い音が響いた場所。
幹の表面が、少しだけ抉れている。
よく見なければ気づかない程度の傷。
その前に、立っている背中。
制服。
見覚えのある、少し癖のある髪。
心臓がひとつ小さく跳ねた。
昨日の、人……?
昨日は特に何かをしたわけじゃなかった。
お互いを互いに察しただけ。
私は足を止めたまま、私は動けずにいた。
しかし、枝を踏んでしまい僅かに響く小さな音。
その瞬間、彼の肩がわずかに揺れた。
ゆっくりと彼が振り向く。
警戒、ではない。
驚き、でもない。
ただ、“あぁ”と納得するみたいな目だった。
昨日のあの子か。
声には出さないけれど、そう言われた気がした。
数秒。
風が、間を埋める。
川面がきらりと光る。
私は喉を鳴らした。
言うつもりはなかったのに、
気づけば口が動いていた。
「……見なきゃよかったのに」
昨日と同じ言葉。
未だに自分に向けたのか、
彼に向けたのか、分からないまま。
彼は一瞬だけ目を伏せ、
それから、ほんのわずかに笑った。
笑ったというよりも、息を吐いたに近い。
「ほんと、そうだよな」
低い声。
昨日の舌打ちとは違う、少しだけ力の抜けた声。
それだけで、分かってしまう。
この人も同じなのだと。
誰かを責めたいわけじゃない。
でも、どこにもぶつけられない痛みを抱えている。
沈黙は続く。
不思議と、居心地は悪くなかった。
私は彼の手に目をやる。
「痛くないの」
聞くつもりはなかった。
でも、気づけば口にしていた。
彼は自分の右手を見下ろす。
赤みは引いている。
でも、関節のあたりが少し腫れていた。
「…別に」
強がり。
それくらいすぐに分かる。
「……ばかみたい」
ぽつりと零すと、彼は少しだけ眉を上げた。
「お互い様だろ」
返ってきた言葉に、思わず小さく笑いそうになる。
笑えないけれど。
風が少し強くなった。
制服の袖が揺れる。
昨日はここで何かが壊れた。
今日は、まだ壊れたままだけれど隣に同じ傷を持つ人がいる。
それだけで少しだけ心のモヤモヤが晴れたような気がした。
「……あの二人、気づいてなかったね」
言ってから後悔する。
分かりきったことなのに、いざ言葉にすると辛かった。
でも、彼は頷いた。
「見えてねぇよ。俺らのことなんて」
淡々としている。
しかし、そこに責める響きはない。
それが、余計に苦しい。どこにも当てることの出来ないからこそ、自分の心の内で動き回って、頭の中を埋め尽くすのだから。
私は川のほうを見る。
夕暮れは、昨日よりもやさしい。
やさしすぎて、残酷だ。
「私、友達だったの」
唐突にこぼれる。
止められなかった。
「ずっと隣にいるつもりだった」
彼は何も言わない。
でも、聞いている。
「でもそれは、私が望んでいたものじゃなくて。彼にとっては、本当に友達以上でも以下でもなかったの」
声が、少し震える。
泣くつもりはない。
昨日、もう十分泣いた。
彼はしばらく黙ってから言った。
「俺は、最初から隣じゃなかった」
その言葉は、驚くほど静かだった。
私もハッと顔を上げた。
「いつだってずっと後ろ。応援席」
自嘲気味に笑う。
その横顔が、昨日よりも弱く見えた。
「どう頑張ったって、隣にすら立てない」
私は、初めてちゃんと彼を見た。
強くて乱暴そうに見えた背中は思っていたよりも細くて弱々しい。
「……名前、聞いてもいい?」
言ってから、少し緊張する。
彼は一瞬だけ考えてから、
「神崎」
短く名乗った。
名字だけだったけれど、それくらいの距離感が私たちにはちょうど良かった。
「お前は?」
私も頷く。
「白石」
それだけで、十分だった。
夕日がゆっくりと沈み始める。
影が伸びる。
昨日と同じ場所。
でも、違う。
昨日は一人で崩れた。
今日は、崩れたまま立っている。
隣に、同じ夕暮れを見た人がいる。
それだけで、
ほんの少しだけ、呼吸がしやすかった。




