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君があの人を好きだとしても  作者: 玉子雑炊
第一章

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第二話 本当の距離

─────鈍い音の正体はすぐに分かった。


振り向いた先で見知らぬ男子が木に拳を打ちつけていた。


たった一回。

されど一回。


それでも、痛みは十分に伝わってきた。

その肩がわずかに震えていたから。


指先が赤い。

木の幹に触れたままの手が、じんわりと熱を持っているみたいだった。


関係ない。

何も知らない。

ただの他人。


しかし、この状況を見るに彼が木に八つ当たりした理由はひとつしか浮かばなかった。


きっと、私と同じなのだと言葉を交わさなくても察せたのだ。



苦しさで血が出るほど拳を握りしめるのなら、

深い傷を負ってしまうことが分かっていたのなら、


「……見なきゃよかったのに」


言うつもりのなかった言葉。

自分に向けて言ったのか、彼に向けて言ったのかは定かではない。しかし、声に出した瞬間、彼の肩がわずかに揺れた。


ゆっくりと、彼の顔が上がる。


目が合った。

ほんの一瞬だけ。


暗くてはっきりとは見えない。

しかし、離された視線は私を通り過ぎてその先を映す。


それでも、そこにあった色を私は知っている気がした。何も言わないまま彼は力なく手を下ろす。

まるで、全てを諦めたかのように。


ふと、私も陽向達に視線を移した。

二人は私たちのことなんか気づいてもいない。こちらを見ることすら頭にないだろう。それが痛いほど伝わって、心の臓を鷲掴みされたように苦しく感じられた。


後ろにいた彼は小さく舌打ちを落とし、その場を去った。その後ろ姿は痛々しいほど弱々しくて…。


私も、それ以上は踏み込めなかった。



結局彼らの尾行は消えないくらいの深い傷を負っただけだった。





翌日、教室はいつも通りの音で満ちていた。

昨日のことなんてどこにも残っていないみたいに。

自分の席に座ると、陽向が話しかけて来た。


「澪、昨日ありがとな。プレゼント、あれにした」


そう言って、陽向は少しだけ照れた顔をする。

窓の外から入る風で、前髪が揺れた。

私を真っ直ぐ見るその顔を、どうしても比べてしまう。


─────あの子に向ける顔と。



そんなの比べるまでもないことは分かってる。分かってたけれど、実際目の当たりにするとこんなにも苦しいものなのか。


「そっか、良かったよ」


ちゃんと笑えていたと思う、きっと。


「澪のおかげだわ。マジ助かった」


いつもみたいに軽く頭をぽん、と叩かれる。

その手のひらが触れた瞬間、昨日の夕暮れが一瞬だけよぎった。


このあったかい手は、昨日、別の誰かの背中に回った手。私だけのものじゃない。


「…デート、どうだった?」


何気ない声。

何気ないふり。


「……うん。夢なんじゃないかってくらい、楽しかった」


軽く頬をかいて躊躇いながらも、迷いのない答え。


私の知らない時間の話。

私のいない場所の話。


それでも、ちゃんと聞いている自分がいる。


「彼女が段差で転びそうになってさ」


───知ってる。


「そん時、あぁ、俺がちゃんと見ててやらねぇとなって思ったんだよ。ははっ、俺らしくないか!」



それを、私は知っている。

でも、知らないふりをする……するしかないじゃないか。


見るなら私を見てよ、なんてそんなこと、こんな顔の陽向に言えるわけも無いし。


「へえ、危ないじゃん。次は目を離さないようにしなきゃね」


陽向の言葉がどれほど自分を傷つけているか、陽向は知るはずもない。きっと、これからも気づかないのだろう。


「澪も今度どっか行こうぜ。テスト終わったらさ」


変わらない距離で、

変わらない笑顔で。


────ずるい。


何も知らないまま、いつも通りでいられることが。


「……うん」


返事はした。

けれど、視線は机の上から上がらなかった。


「どうした?」

「別に」


ほんの少しだけ、間があった。

それだけなのに何かが噛み合わない感覚が残る。


「今日なんか静かじゃね?」


軽い調子。

なのに、ほんの少しだけ探るような目。

あぁ、やっぱり彼は優しい。


私はそれに気付かないふりをした。





休み時間。

いつもなら、何も考えずに陽向の隣に座るのに。

今日だけは少しだけ距離を空けた。


「あれ、こっち来ないの?」


さも私が隣にくるのが当たり前かのように彼は尋ねる。


「ん、たまにはそんな日もあっていいんじゃない?」


適当な言い訳。いや、もはや言い訳ですらない。


本当は────近づいたら、あの夕暮れが浮かぶから。


「詩織」


その名前を呼ぶ陽向の声が、何度も頭の中で再生される。


やわらかい声。

あんなふうに呼ばれたこと、あったっけ。


いや、ある。

……あるはず。


でも、違うのだ。

きっと、違う。


目の前にいるのは陽向なのに、

どうしても別の誰かの影が重なる。


さっき頭を撫でられた手が、

昨日はあの子の背中に回っていた。


その事実が、何度も、何度も、頭の中で巻き戻る。

苦しいのは陽向が悪いからじゃない。


私が勝手に、

勝手に勘違いして、

勝手に期待して、

勝手に場所を決めつけていただけだ。


それなのに。

どうして、こんなに息が詰まるんだろう。


笑えない。

目が合わせられない。

でも、離れたくもない。

近くにいたい。

でも、近いと壊れてしまいそうになる。


──どうしたらいいの。



ねえ。

私は、どこにいればいい?



ぐるぐる、ぐるぐる

同じところを回っている。


「澪?」


名前を呼ばれた気がした。

でも、うまく返事ができない。


陽向が何か言っている。

がやがやと周りも煩い。


ぜんぶ、遠い。



それからの先生の声も、

チョークが黒板を擦る音も、

文字も、

何も、頭に入ってこなかった。


全てが煩わしくて、何もかもから逃れたい衝動に駆られた。




胸の奥がうるさい。


みんなはちゃんと進んでいるのに、

私だけただ一人、取り残されたような心地がした。

今回は短めでした。あまり物語を大きく動かすことができないでおりますが、澪の繊細な心情描写を書くことに重点を置いて書き進めていこうと思っております。

どうぞ引き続きよろしくお願いいたします。

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