第一話 彼の見つめる先
【序章】
目を逸らせばよかった。
夕暮れはやけにやさしくて、街灯はまだ点かない。
川沿いの風が、制服の袖を揺らす。
少し離れたベンチで、陽向が笑った。
その隣で、彼女も。
——突然、鈍い音が空気を裂いた。
反射的に振り向く。
木の幹に打ちつけられた拳。
赤く滲む手の甲。荒い息。
目が、合う。
その視線は、責めてはいなかった。
ただ、同じものを見てしまった人の目。
逃げるように背を向ける。
砂利を踏む音。
足音が、ひとつ増えた。
【第一章】第一話 彼の見つめる先
陽向に彼女ができたと知ったのは、春の終わりだった。
噂じゃない。
本人の口からだ。
「澪さ、ちょっと相談いい?」
放課後の教室。
窓から入る風で、カーテンが揺れていた。
机に肘をついたまま、陽向は少しだけ照れた顔をする。淡い期待を胸に返事をすると、彼は少し目を逸らした。
しかし、そんな期待はすぐに裏切られた。
「なんていうか……その。彼女にさ、何あげたらいいと思う?」
一瞬、意味が分からなかった。
彼女。
その単語だけが、やけに脳内にゆっくりと落ちてくる。
「……え、彼女?」
「あー、うん。最近付き合い始めてさ」
そう言う陽向は、少し嬉しそうで。
その顔を私はたぶん、誰よりも知っていた——はずだった。
「澪なら分かるかなって思って」
その一言が苦しいくらい痛かった。
信頼されている。
特別だと思われている。
でもそれは、
“好きな相手”としてじゃない。
「今度、デートでさ!」
口先をすぼめ、軽く茶化したように言うけれど、陽向をずっと見てきた私にはその緊張が針を刺すように伝わっていた。
どんな子?
どこ行くの?
心にもない質問。
聞きたくもない返事。
メモなんてとっていないのに、私は嫌になるくらい場所も時間も正確に覚えていた。
三日後の放課後
午後5時
待ち合わせは駅前の噴水
「映画に行くんだよ」
そう言いながら耳を赤くする陽向に向けて、私はちゃんと笑っていたと思う。「へえ、いいじゃん」って。
プレゼントの相談にもちゃんと乗った。
よく聞けば付き合って1ヶ月の記念だったらしい。
もうそんな長く付き合ってたんだ。
そんな言葉が頭をよぎる。しかし、グッとこらえて彼女について聞いていた。
似合いそうな色とか、
あの子は甘いものが好きそうだとか。
——あの子。
名前も知らないのに、もう私たちの会話の中に入り込んでいる。
それが、少し妬ましかった。
それ以上に、陽向のあの子に向ける視線を独占したいと願わずにはいられなかった。
当日
別に、行くつもりはなかった。
ちゃんと家に帰るつもりだった。
でも、気がつけば私は電車に乗っていて、いつもよりひとつ手前の駅で降りた。
…偶然なんかじゃない。自分でここに来たのだ。
私は陽向を奪われたわけじゃない。
告白もしていないし、私は彼の友達でそれ以上でもそれ以下でもない。
それでも
彼の隣は自分の場所だと思っていた。
コンビニで半分こしたアイスも、
テスト前の夜更かしも、
当たり前みたいに頭を撫でられたことも、
それは全部二人だけの時間だと勝手に思っていた。
だから────
本当にそこに別の誰かが立つのかをこの目で確かめたかった。ずるいって分かっていたけれど、
それでも、足は止まらなかった。
噴水の前で、陽向はひとりだった。
スマホを見て、髪を触って、
何度も時間を確かめる。
──そんな顔も、知っている。
少し遅れて、駅の改札の向こうから女の人が駆け寄ってきた。
白いブラウス。
揺れる長い髪。
息を弾ませながら、手を振る。
その瞬間
陽向の表情が変わった。
ぱっと、光が差したみたいに。
「詩織」
そう呼びかける声は、
私に向けられるものよりずっとやわらかくて。
迎えに行くみたいに彼は一歩、前に出た。
─────ああ。こんな顔、知らない。
胸の奥がひどく静かになる。
これは私の知らない陽向だ。
私の知らない声。
私の知らない距離。
そして────私の場所じゃない。
「ごめん、待った?」
少し息を弾ませながら、詩織と呼ばれた女が笑う。
「いや、今来たとこ」
陽向も笑う。
さっきまでの落ち着かない顔は、もうどこにもない。
二人は並んで歩き出す。
肩と肩が時々触れる距離。
私は一定の間隔を保ったまま、その後ろを歩いた。
改札を抜けると、週末の駅前は思った以上に混んでいた。人の波は途切れることを知らない。
目を離せばすぐに見失ってしまいそうで、私は必死に二人の背中を追う。
そのとき、詩織の足が段差に引っかかった。
「……あっ!」
ほんの小さな声。
でも、陽向はすぐに反応した。
伸びる腕。
迷いのない動き。
指先が彼女の手首を掴む。
彼女の体が傾きかけたその瞬間、ぐっと引き寄せる。
詩織の体が陽向の胸にぶつかる。
シャツ越しに重なる距離。
陽向の腕が自然と彼女の背中に回った。
「大丈夫?」
低くて、近い声。
ほとんど囁きみたいな距離で。
人混みのざわめきの中でそこだけ音が遠くなる。
詩織は驚いた顔のまま少し遅れて笑った。
「うん、ありがと」
そのとき、陽向はまだ彼女を離していなかった。
離れると思っていた。でも予想は裏切られ、陽向はそのまま詩織の手をぎゅっと力強く握った。
「危ないから、繋いどく」
そう言って指を絡める。
いとも自然な動きだった。
迷いもなく、当たり前みたいに。
─────私は、あの距離に入ったことがない。
転びそうになったこともある。
ふざけて押されたこともある。
でも、あんなふうに掴まれたことは一度もなかった。
胸が痛いのに、目を逸らせない。
帰ればいい。
今ならまだ、軽い傷だけで済む。でも、指を絡めたまま歩く二人の背中が遠ざかるのが怖かった。
気づけば、私はまた距離を詰めていた。
二人が歩き出す。笑いながら、肩が触れる。
さっきまで陽向が少し前を歩いていたのに、今では二人、彼女の歩幅に合わせて横に並んで歩いている。
そんな些細な気遣いさえ、私は知らなかった。
─────知らない顔が、増えていく。
もう二人を見たくはない。
それなのに、後を追う足を止めはしない。
自分でも分からない。
それでも目を離した瞬間に何もかも奪われる気がした。
人混みの隙間から、二人の背中を必死に追う。
何度も視界を遮られて、そのたびに胸がざわつく。
ふと、視線を感じた。
振り向くほどではない。
ただ、背中のどこかがひやりとする。
私と同じ方向を見ている、もうひとつの気配。
けれど、確かめる余裕はなかった。
目を逸らせば、
二人を見失ってしまうから。
それから映画館に入って、出てきて、カフェに寄って……そのどれもが楽しそうだった。
詩織が笑うたび陽向は少しだけ目を細める。
私の知らない陽向がまたひとつ増える。
そして夕暮れ。
川沿いのベンチに二人は並んで座っていた。
距離はさっきより近い。
表情で分かる。大事な時間なんだと。
陽向が名前を呼ぶ。
「詩織。」
優しさの中に、期待と不安を孕んだ声だった。
彼女の肩にそっと手が触れる。逃げ場はもうない。
詩織は、ほんの少しだけ目を伏せた。
逃げるわけでもなく、拒むわけでもなく。
夕暮れが、二人をやわらかく包む。
目を逸らせばよかった。
そう思ったのは
唇が触れ合う、ほんの一瞬前だった。
私の知らない陽向の表情。
優しくて、真剣で、
迷いがない。
逸らせなかった。
触れ合う影が重なる。
何かが、胸の奥で静かに崩れた。
──────その時、目を覚まさせるかのように、鈍い音が空気を裂いた。
反射でびくりと肩が揺れる。
夕暮れの静けさを無理やり叩き割るみたいな音。
けれど、二人には届かない。
夕暮れも何事もなかったように流れている。
私だけが、遅れて振り向いた。
はじめまして、玉子雑炊と申します。
この度はこの作品をお読みいただきありがとうございます。
初のオリジナル小説ということで悪戦苦闘しながらも完結に向けて頑張っていこうと思います。
あまり機能についてはまだ把握していないのですが、ブクマや感想など、いつでもお待ちしております。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




