王子様との会話
帰り着くと、ヴィンセントは切羽詰まった表情で私たちを出迎えた。
ゼノは私を探すのに力を使い過ぎたようで「…寝る」とだけ言い残して倒れてしまった。
死神の掟を破った罰として、彼の能力は制限がかかっているようで力を使えば定期的に休憩しないといけないそうだ。
彼が随分と前にそう私に言った。
ヴィンセントにお願いして彼を寝室まで運んでもらうと、彼をベッドに投げ捨ててきたヴィンセントが優雅な手つきで紅茶を注ぎ、私の前に置いた。
彼が誰かをあそこまでぞんざいに扱うところはゼノ以外では見たことがない。
過去に何があったのだろうか。
今日はなんだかやたらと疑問が浮かぶ。
「お疲れでしょう?疲れたときこそ甘いものですよ。今日は特別に風の精霊イチオシの蜂蜜をお入れしました。…さあ、どうぞ」
「ありがとう、ヴィン」
すーっと甘酸っぱい柑橘の香りの中にふんわり甘い蜂蜜の香りがする。
汚れ一つ許さないかのように磨き上げられたお洒落なティーカップに澄んだ琥珀色の液体がゆらゆら揺れながら私の表情を映す。
それは本日の森での出来事を彷彿とさせた。
私の表情の変化に気付いたのか、ヴィンセントはおずおずと尋ねた。
「…あの男が心配ですか?」
私は顔を上げた。
ヴィンセントは物憂げな表情をしていた。
「あの男って…誰のこと?」
「ゼノ様に決まっています」
私はきょとんとした。
確かにゼノのことは心配だが、こうやって眠るのはいつものことだ。
特に今回も心配はしていない。
「どうして?」
「…ゼノ様はアイリス様にとって特別な方だからです」
私は首を傾げた。
確かにゼノのことは特別である。
記憶喪失になった私を気にかけて親切にしてくれる人。
しかし、それはヴィンセントも例外ではない。
それを言うなら、こんな私に仕事を与えて落ち込んでいたら励ましてくれるレンだって、私には特別だ。
誰かにだけ特に思い入れがあるわけではない。
それとも、ヴィンセントがゼノを心配しているから私も心配していると思っているのだろうか。
私には分からなかっただけで、何かしら通じ合うヴィンセントはゼノの不調に気付いていたのだとしたら?
…なんだかだんだんと心配になってきた。
「ヴィンがそんなことを言うなんて、ゼノの体調はそんなに良くないの?」
「いえ、そのようなことはないと思いますが…アイリス様が気に病む必要はございません」
「…そう」
…特に心配もなさそうだ。
だったら、先程の質問は何だったんだろう。
私が更に不思議そうにしていると、ヴィンはそんな私の様子にどこかほっとした様子だった。
「ゼノのことも大切だけど、ヴィンのことも大切に思っているよ」
私がヴィンセントにそう伝えると、彼はきょとんとした。
そして、首を振る。
「いえ、私への気持ちとゼノ様への気持ちはきっと違うはずです」
「どうしてそんなこと…」
「他人の方が貴女よりも貴女のことを分かるときもあるものですよ…それ程、私は貴女のことを誰よりも側で見守ってきましたから…」
ヴィンセントは私の肩にそっと手を添える。
手袋越しでも感じる彼の体温は本当に心地良い。
そして、心強い。
私は彼の体温を、感触を、どうしてこんなに知っているのだろうか。
ゼノと繋いだ手はどこまでもぎこちなく初々しさすら感じさせる見知らぬ体温と感触だったというのに。
私は思った。
きっと随分と長い間、私はずっと“彼”を頼りにしてきたのだと。
それこそ“彼”はずっと私の味方だった。
記憶を失ってからも、記憶を失う前もーーーーー
「アイリス様…許されるなら、貴女の特別は私だけであってほしいと思うのは烏滸がましい願いでしょうか」
ヴィンセントは私をうっとりと瞳に映して見つめながら、甘く囁きかける。
彼の言動はどこまでも甘く、まるで蜂蜜のように蕩けるような声や表情がくすぐったい。
不意に彼の手袋の縫い目が視界に入る。
違和感のある手袋の縫い目。
どうしてだろう。
今日はとても見覚えがある。
「……ねえ、ヴィン。今、一つだけ思い出したんだ。私、記憶を失う前、とても大切にしていたものがあったよ」
「…それは驚きました。何でしょう?」
私は肩に添えられた手に自分の手を重ねる。
そして、縫い目を指でなぞった。
「ぬいぐるみ。すごくお気に入りで肌見放さず持ち歩いていたの…」
不思議と今まで少しも思い出さなかったそのぬいぐるみことが今日ははっきりと思い出せる。
王冠を被った白いウサギのぬいぐるみ。
その子だけが、ずっと私の味方だった。
「…そうなんですか」
「あんなに大事にしていたのに…どこにいっちゃったんだろう。忘れちゃうなんて…私のこと、怒ってないかな…」
とても優しい子だから、きっとまだ私の帰りを待っているだろうか。
いや、あの子にだけは待っていてほしい。
私はふわふわの手触りを思い出しながら、不意に強い眠気を感じた。
とても抗えない。
だんだんと瞼が重くなり、意識が遠のく。
ヴィンセントは重心を崩した私をそっと支えた。
閉じきる瞼の前には珍しく手袋を拭ぐヴィンセントの姿。
そして、ふわっと身体が浮く感覚。
あーーーーー
懐かしい香り。
力が抜けてだらんとした手に触れるふわふわな綿が詰まった柔らかな布地。
ああ、もう大丈夫。
そう。この子が側にいれば私は何でも耐えられる。
意識を手放す前に声が聞こえた。
「…きっと見つかります。貴女の側が“その子”の居場所ですから」




