螺旋を歩く猫
これは、何かが起きた話ではない。
起きなかったこと、変わらなかったこと、
そして、気づかなかったことについての記録だ。
天恵のような晴れ間が広がり、例年より二十日も早く梅雨明けが宣言された日だった。
蝉の声は近いはずなのに、まるで遠くの合唱のように、薄い膜を隔てて響いている。その午後、妻はクイーンの『オペラ座の夜』の中古レコードと、大きなスイカを一玉抱えて帰ってきた。
「見て、掘り出し物」
赤と白のビニール紐で吊るされた、まんまるのスイカ。
それと、少しカビ臭いくたびれた、帯付きのレコード。
ジャケットには、誰かが書き残したらしい、読めそうで読めない歪な文字があった。妻は確かめるように、震える指先でその線をなぞった。
「……なんで『オペラ座の夜』?」 「なんか、呼ばれた気がしたの。預言者の歌に」
冗談なのか、本気なのか。
冷房が必死に冷まそうとする午後の熱気の中で、その声だけが妙に浮いていた。
スイカを半分に切ると、「パカリッ」という乾いた音がして、赤ではない果肉が割れた。
鮮やかなオレンジ色だった。
「サマーオレンジ。幻のスイカと呼ばれているそうよ」
“幻”という言葉に、彼女はわずかな執着を滲ませ、一瞬だけ息を止めた。
猫が果肉に顔を突っ込み、「シャクッ、シャクッ」と鼻に皺を寄せながら前歯を鳴らす。その音が、午後の時間を少しずつ削り取っていく。
針をB面に落とし、長い無音ののち、『預言者の歌』が始まった。
「この曲ね、作者が病気から回復している時に見た夢の話なんだって」
妻は囁く。彼女の話では、歌の中の預言者は、繰り返し警告を発しているのだという。
『気をつけろ、未来はないぞ。』
蝉の声が途切れた。
気づくと、窓の外は土砂降りの雨に変わっていた。針が跳ね、同じ場所を何度もなぞり始める。
――Listen to the madman。
それがレコードの声なのか、自分の思考なのか、もう分からない。
「……神託は、また降りる」
その言葉を境に、意識が静かに沈んでいった。
妻が帰り、スイカを切り、レコードが鳴る。
先の展開をすべて知っているからこそ、安心して身を委ねられる、安らかな夢。
「僕だけ」がその繰り返しが永遠に続くものだと、疑いもしなかった。
その夜、
「ガリッ、ガリッ、ガリッ」
夜明け前の薄光の中で、黄金の瞳が光っていた。
猫がレコードの上に乗り、溝に向かって何度も爪を立てている。まるで、同じところを回り続ける円環そのものを、無理やり引き裂こうとしているようだった。
物音に気づいた妻が駆けつけ、跪いた。
それは祈りというより、すでに決まってしまった「この場所の終わり」を、静かに受け取っている姿だった。
妻は傷ついたレコードを抱え、猫を胸に押し当て呟いた。
「あなたにも神託が下りますように」
その時は言葉の意味が理解できなかった。彼女は玄関へ向かった。差し込む朝日が舞い上がった猫の毛を照らし、彼女をどこか遠くへ閉じ込めていく。
扉が閉まる音と同時に、僕の意識は再び闇に倒れ込んだ。
次に目を開けた時、天井は白かった。
そこは病室だった。
それから、今日とよく似た明日を繰り返し、いくつもの夏を見送った。
髪には白髪が混ざり、体は枯れ枝のように細くなった。
ようやく許された一時帰宅の日。
玄関を開けると、部屋は記憶よりもずっと色褪せ、くすんで見えた。
妻も、猫も、いない。
だが、ドアノブに紙袋がひとつ掛かっていた。
中には、あの『オペラ座の夜』。
ジャケットの文字を妻を真似てなぞってみたが、何度なぞってもその文字の意味がわかることはなかった。
分厚い埃の積もったプレーヤーで、レコードに針を落とす。
「カサリッ」
音楽が始まるまでの無音のあいだ、スイカの甘い匂いが漂い、「シャクッ」という音が聞こえた気がした。
だが、鏡には天井のシミの様な男が映っているだけだった。
レコードはもう歌わない。
深く刻まれた爪痕が、旋律を完全に断ち切っている。
針が跳ぶたびに生まれる、小さな空白。
その沈黙の中で、ようやく分かった。
狂っていたのは、彼女ではなかった。
同じ光景が繰り返されることに安堵し、昨日と同じ今日が続くことを切望し、彼女の警告を、どこかで理解しながら見ないふりをしていたのは――僕だったのだ。
錆びついた部屋で、同じところを回り続けるレコードを見つめながら、僕はまだ神託を求めていた。
変化を拒んだ者だとしても、
同じ時間を永遠に続けることは出来ない。
変わらない事、忘れずにいる事は思ったよりも難しい。




