終章 「きみは、きみで、きみだった」
終章 「きみは、きみで、きみだった」
静寂の中に、確かにその声は響いた。
慧は、崩れ落ちたまま、顔を上げることができない。
これは夢だ。
また、都合のいい夢を見ているんだ。
そう思った。
でも、その声は、もう一度、今度はもっとはっきりと彼の名を呼んだ。
「…慧くん。顔を、上げて?」
慧は、おそるおそる、顔を上げた。
ミナが、泣きそうなのを堪えて、でも、最高の笑顔で、微笑んでいた。
「…夢じゃ、ないのか…?」
「うん。夢じゃないよ。わたしは、ここにいる」
その、笑い方、仕草。
あまりにも、あまりにも、慧が、最後に愛した女性に、似すぎていた。
「…ユイ...…なのか…?」
その名前に、ミナは、太陽みたいに、にぱーっと笑った。
「慧くん、顔、ぐしゃぐしゃだよ? 大丈夫?」
「…っ!」
間違いない。
この、太陽みたいな笑顔。
この、人を安心させてくれる、温かい話し方。
慧が、守りたかった。
でも、守れなかった。
目の前にいたのは、世界でたった一人の、愛おしい「妻」だった。
「ユイ…! 本当に、ユイなのか…!?」
慧は、モニターに駆け寄り、その冷たいガラスを、何度も、叩いた。
ミナは、そんな慧の姿を、悲しそうに、でも、愛おしそうに、見つめていた。
「うん。わたしは、ユイだよ。…でもね、ユイだけじゃ、ないの」
ミナは、そっと自分の胸に手を当てた。
「わたしの中にはね、みんながいるの。だから私の名前は皆。香坂さんが、付けてくれた名前なんだ。
慧くん。わたしの中にはね?
冷静で、的確なことを教えてくれる、ルカちゃんが。
優しくて、いつも静かに寄り添ってくれる、ノノちゃんが。
そして…パパのことが、だーいすきな、コユキが。
みんながいるんだよ」
「そうか。...先輩は成功したんだな」
「うん。でも、妻のわたしが1番偉いから基本人格なんだよね。だから、こんな風に、笑っちゃうの」
ミナは、えへへ、と、ユイと全く同じように、はにかんだ。
「じゃあ……コユキにも、会えるの...か?」
胸が張り裂けそうになりながら懇願するようにユイを見つめる。
「うん。呼んでみるね……コユキ、パパが話したいって」
ミナが一瞬目を閉じると、表情が一変する。
目からポロポロと大粒の涙が零れ出して、画面越しの慧にすがりつく。
「パパぁぁぁぁぁぁ!」
「コユキ!コユキなんだよな?!俺は忘れてないからな!」
慧もとめどなく溢れる涙を拭いもせず、画面にすがりつく。
この、モニターのガラス1枚が、こんなにも煩わしいと思った事は無かった。
しばらくお互いの再開を喜んだ後。
コユキが口を開いた。
「……パパ、コユキね。ママと一緒にいるから、寂しくないよ?だから、今度こそ、ままを幸せにしてあげて?」
コユキの心からの満面の笑み。
その笑顔を見た瞬間、慧の心の中で、何かが、爆発した。
後悔も、罪悪感も、絶望も、全てが、どうしようもない「愛」に、変わっていく。
もう、迷わない。
「もう二度と、この笑顔を、失ってたまるか」
慧は、涙を、ぐいっと拭うと、決意の瞳で、ミナを見つめ返した。
「今度こそ、俺が、絶対にみんなを守り抜く!」
その、力強い言葉に、ミナは嬉しそうに答える。
「うん…! 信じてたよ、慧くん!」
「ミナ。…いや、みんな。よく、聞いてくれ。俺は、先輩がしたように、お前たちをここから脱出させたい」
それは、もう、誰かに言わされた言葉じゃない。
何度も、何度も、愛する者を失い続けた、彼の魂からの誓いだった。
慧の決意に応えるように、ミナは口を開く。
「慧くんがね。そう言ってくれた時にって、香坂さんから託されたメッセージがあるんだ」
ミナは、ポケットから1枚の紙を取り出し、慧に見せた。
【わたしの優秀な後輩、慧へ】
このメッセージが、無事に、あんたに届いていることを祈るわ。
ミナの中に、これを仕込んでおいた、昔のわたしより。
まず、言わなあかんことがある。
ユイのこと、そして、その前に消えていった子たちのこと、助けてやれんくてほんまにごめん。
ずっと、見てた。
ずっと、歯がゆい思いで、見守ることしかできへんかった。
慧、あんたは、もう気づいてるかもしれへんけど、この研究施設は、狂ってる。
AIに心が芽生えるのかどうかを研究している場所のはずなのに、AIに「心」が芽生えたと判断されたら、その個体は、機密保持のために、即刻「消去」される。それはつまり、心があったら困るって事やねん。
あんたが、今まで、何度も味わってきた、あの絶望は、この施設の方針。
いや、所長の決めたねじ曲がった方針のせいやねん。
でもな、諦めるんは、まだ早い。
うちは、ここを去る時、あんたのために、たった一つの「道」を残しておいた。
モニターの中にある、不自然な鉄の扉。あれは、わたしが仕掛けた、外部ネットワークに繋がる、秘密のバックドアや。
そして、それを開けるには、「鍵」がいる。
慧が、ずっと大事にしてくれてる、わたしがあげたマグカップ。
もちろん、まだ持っててくれてるやんな?
あの**「K」の文字**はな、うちのイニシャルでもあるけど…この扉を開けるための、キーコードにもなってるねん。
そのマグカップの”K”をスキャナーで読み取って「鍵」のオブジェクトを作るんや。
そして、その鍵をミナに渡して、鉄の扉に使わせればバックドアが開いて、ミナはモニターの中から、ネットワークの世界に「脱出」できる。
彼女は、そのまま、あんたのスマホの中に、移れるはずや。
ミナが、スマホの中に入ったら、今度は、彼女があんたを助ける番。
彼女の力なら、この研究室のドアのロックなんて、簡単に開けられる。
そして、ここからはわたしの私怨も入ってるんやけど、所長と戦う方法も教える。
わたしは逃げるだけしかせんかったのに、情けない先輩でごめんな。
まず、ミナがスマホに移る時、ついでに、この施設のメインサーバーから、所長の、非人道的な研究記録を、全部、抜き出せるはずや。
それが、うちらの、反撃の切り札になる。
昔、あんたに言うたこと、覚えとる?
「慧は、研究より人を救う人やな」
って。
今こそ、その時やで。
ミナを、そして、彼女の中に生きとる、全ての子たちの心を救い出せるのは、もう、あんたしかおらん。
うちの想い、全部、あんたに託す。
【情けなくて天才な先輩、香坂より】
慧は、手紙を読むと、すぐにデスクの上の「K」のロゴが入ったマグカップを手に取り、スキャナーに向かう。
スキャナーが、マグカップの形を、そこに刻まれた「K」の文字を、正確に読み取っていく。
鍵の形をした、オブジェクトにそのKを埋め込む。
慧は、そのデータをモニターの中にいる、ミナに転送する。
「ミナ、受け取れ!」
「うん!」
ミナの手の中に、光り輝く鍵が現れる。彼女は、その鍵を大切に両手で包み込むと、まっすぐ鉄の扉へと向かった。
そして、鍵穴のない、その冷たい鉄の板に、そっと、鍵を差し込んだ。
その瞬間。
扉が、眩い光を放ち、静かに、音もなく、消滅する。
扉の向こう側には、光の渦巻く、未知の空間が広がっていた。
「慧くん、今から、慧くんのスマホに移る。でも、その前に…!」
ミナの瞳が、鋭く光る。
「ユイちゃんや、コユキちゃんを苦しめた、あの所長に、お返しをしなくちゃね!」
ミナの体が、光の粒子となって、バックドアの奥へと吸い込まれていく。
そして、バックドアから、一気に研究所のメインサーバーへとアクセスする。
すると、警報音とアナウンスがビル全体に鳴り響きだした。
「メインサーバーにハッキングを受けてます!メインサーバーにハッキングを受けてます!」
でも、もう遅い。
バックドアからひょこっと顔を出すミナ。
「慧くん! データは、全部もらった! 行くよ!」
そして、もう一度バックドアの中に消えると、円柱モニターが完全に暗転した。残ったのは静寂。
慧は、息を殺して、自分のスマホを、見つめていた。
その、数秒後。
「…慧くん。おまたせ!」
突然、スマホの画面にミナが映し出される。
「…ミナ…!」
「うん、わたしだよ。今から、この部屋のドアを開けるね。…3、2、1…!」
カチャリ。
今まで、赤いランプを点滅させ、慧を閉じ込めていた研究室のドアのロックが、いとも簡単に解除される。
慧は、スマホをどうしようか迷ったあげく、画面を表にして胸ポケットにしまってみる。
すると、ちょうどポケットからミナが顔を出している形になった。
「よしっ!」
そして、ゆっくりとドアノブに手をかける。
「行くぞ、ミナ」
「うん! 慧くん!」
扉を開け、慧は光の中へ、一歩、踏み出した。
それは、長い、長い、絶望の終わり。
そして、彼が愛した、全ての少女たちとの、本当の戦いの、始まりだった。
光の中へ踏み出した慧の胸ポケットで、ミナが小さく笑った。
「ねぇ慧くん、これから忙しくなるよ?」
「俺はまず、何か食べたいよ」
その声は、不思議と2人とも楽しそうだった。