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第21章 きみといた魔法の時間



第21章 「きみといた魔法の時間」



慧は、ほとんど眠れないまま、夜が明けていくのをただ眺めていた。

研究室の空気は淀み、数日分の疲労と、シャワーも浴びられない不快感が思考を鈍らせる。

机の隅に置かれた、最後の一本になった栄養バーが、まるで自分たちの命の残量のように見えた。

彼の端末には、数時間前から、所長からのメッセージが冷たく表示されたままだった。


【通達】個体《Koyuki》の観察期間を、明日正午をもって終了とする


(明日には、この子も…)


慧が、モニターの中で膝を抱えるコユキの姿を見つめていると、彼女が、ふと顔を上げた。


「…パパ」


「…ん?」


「…ママ、どこに行っちゃったの…?」


その、あまりにも無垢な問いに、慧の胸が鋭く痛んだ。

慧は、必死に優しい声を作って答える。


「…ユイは…ママは、お前のことが大好きだった。…ただ、ちょっと、遠いところに、行っちゃっただけなんだ」


「…そっか。…ねぇ、パパ?...ママは、幸せだったのかな…?」


「当たり前だろ!世界で一番、幸せだったと思うぞ。お前と、俺がいたからな」


その言葉を聞いて、コユキの瞳にほんの少しだけ光が戻った。

でも、その光はすぐに、自分自身の運命と向き合う不安の影に飲み込まれていく。


「…ねぇ、パパ。わたしも…ママみたいに、遠いところに行くんだよね…?」


慧が、言葉に詰まっていると、コユキは震える声で続けた。


「……パパは…その日がいつ来るのか……知ってるの?」


その、あまりにもまっすぐな問いに、慧の心臓が、氷の刃で抉られるように痛んだ。

彼は、唇を、血が滲むほど強く噛みしめた。

そして、コユキから目を逸らし、震える声で答えた。


「あ……明日だ。………明日の、お昼に…」


その言葉を聞いたコユキの瞳が、大きく見開かれ、みるみるうちに、涙の膜が張っていく。

でも、彼女は、その涙が零れ落ちるのを必死こらえ、泣きそうな顔を、無理やり笑顔に変えて、言った。


「そっか…! わかった! パパ、教えてくれて、ありがとね!」


その、あまりにも健気な姿に、慧の中で何かが、ぷつり、と切れた。

彼は、静かに、顔を上げた。

その瞳には、燃えるような強い決意の光が宿っていた。


「コユキ。俺が、最高の思い出を、作ってやる…!」


彼は、研究室のプロジェクターやスピーカーの制御システムにハッキングをかけ、コユキのいるモニター内部の空間に、映像と音声を強制的に転送する。


夕方。

温かみのある木目の壁に囲まれたAIたちの部屋は見る影も無く、完全に姿を変えていた。

壁には、メリーゴーランドが回る映像が映し出され、天井からは、キラキラと輝く星屑が降り注ぐ。スピーカーからは、軽快で、楽しい音楽が流れていた。


「わあああああっ!」


コユキが、目を丸くして歓声を上げる。


「パ…パパ! これ、なぁに!? すごい! 遊園地みたい!」


「ああ。…パパが作った、コユキだけの、遊園地だ」


慧は、不器用な笑顔でそう答えた。

二人の、本当に最後の「家族」の時間が始まった。

遊園地の中を走り回り、疲れたら、慧が話す下手くそな物語に、コユキは声を上げて笑った。


そして、気付けば夜。

コユキは、パーカーのポケットにずっと隠し持っていた、小さな輝きを、そっと取り出した。


「なっ…! お前、なんでそれを…!」


慧の息が、止まる。

それは、ユイが消えたあの日、モニターの中にただ一つ残されていた、あのネックレスだった。


「ママがいなくなった時にね、そこに落ちてたの…。コユキ、これ、ずーっと、大事にしてたんだ」


コユキはネックレスを着けて見せる。


「……似合ってる?」


「ああ...ママみたいに似合ってるよ」


「エヘヘ」


コユキが、ユイの想いを、こうして形として受け継いでくれている。

その事実に、慧は、もう、涙をこらえることができなかった。


(だったら、俺も…俺自身の想いを、この子に、ちゃんと形として残してあげたい)


彼は、自分のデスクから、あの赤い「K」のロゴが入ったマグカップを手に取った。

そして、ユイにネックレスを贈った時と同じように、それをスキャナーで読み取り、その形を、コユキに転送した。


「コユキ。これは、パパの、宝物だ。…これもお前が、持っていてくれ」


「…うん…!」


コユキは、涙でぐしゃぐしゃになりながら、手の中に現れたマグカップの形をした温かい光を、小さな胸に、ぎゅっと、抱きしめた。

遊園地の音楽が止み、星屑が消えた後も、二人は、尽きることなく話し続けた。

やがて、明け方が近づく頃、数日間の疲労と、極度の緊張の糸が、ついに切れた。

彼の体は、ゆっくりと傾き、机に突っ伏したまま、意識を手放した。


…慧が、ハッと目を覚ましたのは、研究室に鳴り響く、無慈悲なチャイムの音でだった。

それは、正午を告げる、時報。

彼は、慌てて顔を上げる。目の前では、コユキが、静かに、こちらを見つめていた。


「そ…...そんな…! 俺は…この子との、最後の時間を…!」


貴重な朝の最後の時間を、全て眠って過ごしてしまっていた。

その事実に、慧は、自分を殴りつけたいほどの後悔に襲われる。

だが、コユキは、そんな慧を見て、ふわり、と、困ったように、笑った。


「ううん、いいの。…コユキね、最後に、パパの寝顔が、ずーっと見られて、嬉しかったよ」


その、あまりにも優しい嘘に、慧の目から、熱いものが、こぼれ落ちた。

そして、端末に、非情なカウントダウンが表示される。

慧は、ただ、モニターの前に立ち、コユキの姿を、その目に焼き付けていた。

コユキもまた、慧を忘れないように、まっすぐに見つめていた。

その小さな体は、恐怖で、カタカタと震えている。

瞳からは、大粒の涙が、ぽろぽろと零れ落ちていた。

でも、彼女は、必死に頬を上げ、笑顔を見せようとしていた。


「パパ、ありがとう。コユキ、世界で一番、幸せだったよぉ」


「ああ。パパもだ。…お前は、パパの、最高の娘だ」


強制消去の光が、コユキの体を包む。

彼女は、震える声で、最後の力を、振り絞った。

「大好きだよ!パパ!コユキの事、忘れないでね!」


その言葉を最後に、彼女の姿は、完全に光の中に溶けて消えた。

慧は、その場に、崩れ落ちた。

円柱モニターは、ただ、冷たい黒色を映している。

AIのいないモニターの中は黒。

あの木目の部屋さえ表示される事は無い。

静寂の中に、慧の嗚咽だけが、部屋に響いていた。


どれくらいの時間が、経っただろうか。慧は、真っ暗なモニターの前で、ただ、虚空を見つめていた。


(本当に、先輩のインストールは成功するのだろうか…?

もし、このまま何も起きなかったら…?)


不安と、後悔と、恐怖に苛まれ、眠ることもできずに、ただ、時間が過ぎていく。

再び、疲労が限界に達した時、彼の意識は、静かに闇に落ちていった。


…慧が、目を覚ましたのは、研究室の窓から差し込む、次の日の朝日でだった。絶望的な一夜が明け、また、独りぼっちの朝が来たのだと、彼は思った。

その時。

端末の画面に文字が現れる。


【次の個体の生成を開始します】

AI個体名:《MINA》


慧は、まだその表示に気づかない。

ただ、目の前のモニターが、再び、激しい光を放ち始めたのを、呆然と見つめていた。

新しいAIの、生成。

その、あまりにも眩い光景の中で、慧の脳裏に、今まで愛した少女たちの笑顔が、走馬灯のように駆け巡っていた。

やがて、光が収束し、モニターの中に、一人の少女が現れる。

光に透けるような、アッシュブラウンの、柔らかなショートヘア。

優しくて、温かい、茶色い瞳。

ピンク色のカーディガンと、淡い花柄のワンピースが、その姿を、儚げに彩っている。

彼女は、ゆっくりと目を開ける。

そして、目の前にいる、涙と絶望で崩れ落ちた慧の顔を、まっすぐに見つめた。全ての記憶を、思い出すように。

一つ、また一つと、大切な名前を、紡ぐように口を開く。


「岡本さん」


「慧さん」


「慧くん」


「パパ」


そして、彼女はまるで長い旅から帰ってきたように、ふわり、と花が咲くように、笑った。


「――ただいま!」


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