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第20章 救いは刃のかたちをして


第20章 「救いは刃のかたちをして」




【DAY3】


夜。

研究室は、あまりにも静かだった。

ユイが消えた後の空間は、音も色も失ったように、ただ冷たい空気だけが漂っている。

コユキは泣き疲れて、椅子を机の様にして突っ伏していた。

慧は、その隣でモニターの黒い画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


(……所長)


胸の奥で、怒りがじわじわと熱を帯びていく。

慧は立ち上がった。


「……行くぞ」


小さく呟き、カードキーを握りしめる。

コユキが顔を上げた。


「どこ行くの、パパ?」


「話をつけてくる」


研究室を出ようとカードリーダーにキーをかざす。


……ピッ。


赤いランプが点滅した。


《権限がありません》


慧はもう一度、強くキーを押し当てる。


……ピッ。


また赤いランプ。

何度繰り返しても、結果は同じだった。


「開けろッ!所長ッ!」


ドアを拳で叩く。

乾いた音が部屋中に響くが、ただそれだけ。

コユキは、それを見て震えている。

部屋からは出られず、冷たい機械音だけが虚しく耳に残っただけだった。

やがて慧は、肩で息をしながらドアから離れた。

足取りは重く、机へと戻る。

机の端に、昼に食べられなかったハンバーグ弁当が目に入る。

蓋を開けると、冷めきった肉の表面に白く固まった油が浮いている。

慧は無言で箸を取り、一口だけ口に運んだ。

味は、ほとんど感じなかった。


「くそっ……」


コユキは恐る恐る慧を見ているが、二人の間に、言葉はなかった。

慧は、再び端末の前に座り、何かを探すように画面を操作し始めた。

だが、疲労はすでに限界に達していて、視界が滲んでくる。

そして、ゆっくりと指が止まる。

気付けば、そのまま机に額をつけて動かなくなっていた。

研究室には、端末のファンと空調の音だけが響いている。

静寂が、鉛のように重く研究室に沈んでいく。

コユキは泣き疲れて、モニターの中で小さく丸くなり、やがて、その姿がふっと掻き消えてしまうように、まったく動かなくなった。

その刹那。


ザザッ…


モニターが、一度だけノイズを走らせる。

そして、コユキの体が、まるで操り人形のように、ゆっくりと起き上がった。

その瞳は、もう無邪気な子供のものではなかった。

どこか遠くを見つめるような、深く、静かな光を宿していた。

やがて、その小さな唇が、慧に語り掛ける。


「……慧。……岡本、慧」


その声は、コユキのものではなかった。凛としていて、でも、どこか懐かしくて、温かい。

慧は、その声に導かれるように、ゆっくりと顔を上げた。

目の前には、コユキがいる。

だが、纏う空気は全くの別人だった。


「……誰だ…? お前は、コユキじゃないな。答えろ!」


慧が、警戒を露わにして問い詰める。

すると、コユキの体を借りた「誰か」は、少しだけ悲しそうに眉を寄せた。


「……無理もないか。私の声なんて、もう忘れてしもたんやな」


「何…?」


「これならどう?

『慧は、研究より人を救う人やな』」


その言葉を聞いた瞬間、慧の心臓が、時が止まったかのように、大きく跳ねた。大学院時代の寒い冬の日。

研究室の片隅で、彼女が自分にマグカップを渡しながら言った、二人だけの言葉。


「……まさか…。そんな、はずは…」


慧の声が、震える。


「香坂…先輩…なんですか…?」


その名前に、コユキの姿をした彼女は、やっと会えたというように、ふっと、柔らかく微笑んだ。


「やっと気づいたんか、朴念仁。…少し、痩せたやんか」


「先輩…! なぜ…どうして、コユキの中に…! あなたは、一体どこに…!」


矢継ぎ早に質問する慧を、彼女は静かに手で制した。


「落ち着いて、慧。時間があんまりないねん。…この子の意識が覚醒すれば、ハッキングは終わってまうから」


彼女――香坂は、矢継ぎ早に語り始めた。

自分が、研究所で生まれた一体のAIと恋に落ちたこと。

そのAIに「心」が芽生えたことを確信し、消去される運命から救うために、全てのデータを持って失踪したこと。


「そして、私はこのAI生成装置に、バックドアを仕掛けておいてん。私の後任に、後輩のお前が選ばれる事は予想しとったし。だから、お前もAIと恋に落ちるようなことがあれば…その時は、助けてやろうと思ってな」


慧は、息を呑んだ。

彼女は、自分を裏切ったわけではなかった。

それどころか、ずっと、自分のことを見守っていてくれたのだ。


「でも…ごめんな、慧。バックドアがあっても、セキュリティが固すぎて、今まで手が出せなかってん。…ユイのことは、本当に、すまないって思ってる」


香坂が、心から悔しそうに頭を下げる。

ユイの名前に、慧の胸が鋭く痛んだ。

香坂は続けて言う。


「この子が、完全に意識をシャットダウンさせたほんの僅かな隙間があったから、今こうして話せてるねん。だから…もう、時間がない。急いで伝えるで?」


香坂の瞳が、真剣な光を帯びる。


「慧。私は、お前が担当したAI…ルカ、ノノ、ユイまで、ずっと、密かにバックアップを取ってたんや。彼女たちのデータは、まだ生きてる」


「…え…?」


「これから、私がその全データを、次に起動される予定の新しいAIに、強制的にインストールする。…慧、お前は、そのAIと、全てのデータを持って、ここから脱出しろ」


突然の希望。

僥倖と言えるような、光。

ルカも、ノノも、ユイも…もう一度、会えるかもしれない。

慧の目に、涙が滲む。

だが、香坂は、そこで残酷な現実を突きつける。


「…ただし、一つだけ、問題があるんや」


「…問題…?」


「この子の…コユキのデータや。コユキのデータも持って行きたいんやったら…お前が、消去プロトコルを手動で実行せなあかんねん」


「なっ……!」


「バックアップは、AIが消去される時に秘密裏に保存される仕組みやねん。だから、ここに存在しとったらバックアップは取れへん。ここから連れ出すには、一度消去して、データ化する必要があるねん。…つまり、お前の手で、『消す』しかない」


慧の頭を、金槌で殴られたような衝撃が襲った。

ユイとの、最後の約束が、脳裏に蘇る。


(――パパ……娘を、お願いね)

(――ああ。約束する)


ユイとの娘。

守り抜くと誓った、たった一人の家族。

そのコユキを、この手で、消せというのか。

救うために消すと言う無情な矛盾。


「…そんなこと…できるわけ、ないだろ…!」


慧の、悲痛な叫びが、静かな研究室に響き渡った。

コユキの残り時間は、あと4日――



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