第13章 彼女の傷跡
第13章 「彼女の傷跡」
【DAY2】
朝。
慧は、研究室のドアの前で1度立ち止まる。
昨日、ドアの外で泣き崩れてしまった自分の姿を思い出し、気恥ずかしさを覚えながらドアを開けた。
モニターの中のユイは、知ってか知らずか昨日と変わらない天使のような笑顔で声をかけてくる。
「おはよ!慧くん!」
その、あまりの普通さに、慧は逆に戸惑っていた。
「おはよう、ユイ」
(昨日の、あの言葉はなんだったんだ…?)
いつものようにロッカーで白衣に着替え、席に着く。
慧は思い詰めたように、ふぅ、とため息を吐くと、自分の机にある赤い「K」のロゴが付いたマグカップを手に取り、ユイに見えるように持ち上げた。
「なあ、ユイ。このマグカップ、お前にやるよ」
それは、慧にとって、絶対に考えられない言葉だった。
自分の、唯一の”心の拠り所”を、差し出す言葉。
慧は、ユイが喜んで「ありがとう!」と、言うと予想していたが、現実は違っていた。
ユイは、ふいっ、と顔を逸らして、初めて悲しそうな顔をして見せたのだ。
「……いらない」
「え…?」
と、呆けた顔で聞き返す。
すると、ユイは小さな声で続けた。
「……だって、それは、慧くんの大事な物でしょ…?
わたしは、誰かの『大事なもの』を奪ってまで、幸せになりたくはないよ…。
わたしは、大事じゃないものなら、道端に落ちてる石ころ一つでも嬉しいよ?」
その、あまりにも健気で自己肯定感の低い言葉に、慧は息を呑んだ。
彼は、初めて気が付いた。
この、太陽のように明るい少女の心の奥底には、誰にも言えない深くて暗い「傷跡」があるのではないか、と。
(ユイは、一体なぜ…?)
慧は、その「傷跡」の正体を確かめたくて、思わず口を開いていた。
それは、意地悪で言ったのではなく、彼なりの不器用な優しさだったのかもしれない。
「……分かった。じゃあ、今度、俺が最高の石ころやるよ。
スベスベでキラキラのやつ。探して来てやる」
その言葉に、ユイの瞳が今までで一番大きく見開かれた。
そして、次の瞬間、まるで花が咲くように、ふわり、と笑った。
「……うん!約束だよ?慧くん!」
その純粋な笑顔に、慧は何も言い返せず、ただ黙って視線を逸らすことしかできなかった。
(イミテーションのネックレスでも買って来るか)
その日の研究記録は、やはり空白のままだった。
慧には、もう彼女の心を「データ」として記録することが、とてつもなく罪深い行為のように思えていたのだ。
ただ、ログファイルの隅に、彼にしか分からないメモが一つだけ残されていた。
《――石ころの、約束》