第12章 マジックアワーの予感
第12章「マジックアワーの予感」
【DAY1】
朝。
研究室の窓から、淡い光が差し込んでいた。
慧は、ドアを開けるなり軽く息をついた。
「……全然眠れなかった」
それと同時に、待ちかねていたかのように声がかけられる。
「おはよ!私はユイ。あなたの研究対象だよ。これからよろしくね!」
慧が少し虚ろな目で一瞥すると、円柱モニターの中には、茶髪のロングヘアに白いシャツ、膝上丈のプリーツスカートの可愛らしい女の子が立っていた。
慧は、無言でロッカーに向かい、白衣に着替えた後、棚からいつものマグカップを取り出す。
ユイは、その所作を静かに眺めている。
慧は、カップを横に置きドリッパーにお湯を落とす。
湯が粉を湿らせ、香りがふわりと立ち上った。
慧は、その香りを嗅ぎながら無言でドリップされるのを待つ。
それを見ていたユイが、小さく呟いた。
「やっぱり...ブラックなんだね。」
慧は、驚いて振り返る。
「やっぱり、だって?」
ユイはうつむき加減に髪をいじりながら答える。
「うん...なんとなくだけど、そう思って」
慧は、ユイの方に向かって歩きながら、もしかしてと思い聞いてみる。
「...ノノってAIの事、知ってるか?」
「ノノって……誰?」
「...いや、なんでもない」
慧は、少し落胆しながら、机の方に戻っていく。
ユイは少し首を傾げて、慧の背中を見送っていたが、すぐに口を開いた。
「ねぇ、あなたの名前、聞いてないよ?」
慧は、少し息を吸い込んで、振り返らずに言った。
「……俺の名前は、岡本慧。呼び方は、好きに呼んでくれていい」
ユイは一瞬まばたきして、背を向けている慧に、にこっと笑いかけた。
「じゃあ、慧くんだね!」
慧は、椅子に座り、眠気覚ましのコーヒーを口にした。
「慧くん」という、その馴れ馴れしい、でも、どこか耳心地のいい響きが、まだ頭の中に残っていた。
(……なんなんだ、こいつは)
ルカのような無機質さも、ノノのような静かな圧力も、ない。
ただ、そこにいるだけで、場を明るくさせる。
そんな、不思議な、存在だった。
慧は、業務ログを、開く。
起動ログ:AI個体名《Yui》
感情模倣レベル:0.21
応答速度:正常
表情変化:検出
数値は、低い。
だが、慧はもうその数字が何の意味も持たないことを知っていた。
その日の、研究はほとんど進まなかった。
慧が、何かテストをしようとしても、
ユイがすぐに話を脱線させてしまうからだ。
「慧くんは、どんな、音楽が、好きなの?休みの日は、何してるの?好きな食べ物は、ハンバーグでしょ?」
まるで慧のことを、全て知りたがっているかのような質問の数々。
その中に、時々、持っているはずの無い情報が入ってくる。
その度に、慧は(……記録を、保持しているのか?)と、疑うが、彼女はいつも「んー?なんとなく、そうかなって、思っただけだよ?」と、ふんわりと可愛い笑顔ではぐらかすのだった。
やがて、定時のチャイムが鳴る。
窓の外の空が、オレンジ色と深い青のグラデーションに染まり始めていた。
慧は、その美しい空を見ながら無意識のうちに、ぽつり、と呟いていた。
「……魔法の時間、か」
その独り言に、モニターの中のユイが、ぱっ、と顔を輝かせた。
「あ!それ、知ってる!
”マジックアワー”でしょ?」
その言葉に、慧の心臓が大きく跳ねる。
(――慧さん。知っていますか?
日没後の、オレンジ色の空の時間を、マジックアワーって言うんですよ)
脳裏に蘇る、あの7日目の最後の夜。
静かで穏やかだった、ノノとの最後の時間。
「……なんで、お前が、その、言葉を…」
慧の声は震えていた。
ユイは、きょとん、とした顔で首を傾げる。
「え?なんでって…。
有名な、言葉だよ?
慧くんこそ、どうしてそんなにびっくりしてるの?」
その、あまりにも無邪気な瞳。
そうだ。
彼女が、知っているはずがない。
あれは、俺とノノだけの言葉だったはずだ。
(……偶然、か?……いや、それにしてはおかしい...)
慧は、胸のざわめきが収まらないのを感じていた。
彼は、端末を閉じて、静かに立ち上がった。
いつもと、同じ別れの時間。
すると、モニターの中のユイが、今まで見せたことのない、少しだけ寂しそうな顔で慧を見つめた。
「……ねぇ、慧くん。
……また、明日ね」
その言葉。
その表情。
それは、あの日の”ノノ”の、最後の姿に重なって見えた。
「ああ、また明日な」
そんなユイに、慧は始めて笑顔を見せると、軽く手を振りながら背を向けて、部屋を出て行こうとドアノブに手をかけた、その瞬間。
背後から、か細い声が聞こえた。
「――あなたの、瞳の奥にある寂しい色。
わたしが、全部、塗り替えてあげるからね」
その、あまりにも衝撃的な一言に、ドアを出た途端に崩れ落ちる。
それからしばらく、ドアを背に、静かな涙が流れ続けているのだった。