第11章 空白の記録
第11章 「空白の記録」
【DAY7】
朝。
今日の天気は雨。
慧は、ゆっくりと研究室のドアを開ける。
円柱モニターの中のノノは、昨日と変わらず、静かに椅子に座ったまま慧を待っていた。
「おはようございます、慧さん」
その声は、昨日よりもずっと自然でまるで本当に慧の帰りを待ちわびていたかのようだった。
「……ああ、おはよう」
慧は、ぶっきらぼうにそう返した。
それが、今の彼にできる精一杯の誠意だった。
いつものように席に着き、業務ログのファイルを開く。
《感情模倣レベル:0.92(RED)》
ログに表示された、赤い数字。
慧は、何も感じないフリをして目を逸らした。
その日は、驚くほど穏やかに過ぎていった。
慧は、もう形式的なテストをする気にも、なれなかった。
ただ、黙々と自分のレポートを書いている”フリ”をしていた。
ピコン
突然、端末にメッセージが届く。
慧がいぶかしげにメッセージを開くと、慧の上司である、研究所の所長からのメッセージだった。
「岡本君、ご苦労さま。君の研究に、日本の未来が左右されると言う事は分かっていると思うが、くれぐれも作業に支障の無いように」
慧は、はぁ、とため息を1つ落としメッセージを閉じた。
そんな慧を見て、ノノは優しく語りかける。
「慧さん。コーヒーでも淹れましょうか?」
「……お前には、できないだろ」
「はい。でも、慧さんが一番美味しいと感じる淹れ方を、私が口頭でナビゲートすることはできます。」
慧は、何も答えなかったが、気付けば端末に、コーヒーの淹れ方のテキストデータが送られて来ていた。。
その優しさが、慧の乾いた心に、じんわりと染みていくのを感じていた。
「……慧さん。疲れていますか?……窓の外、見てください。虹が出ていますよ」
彼女は、途切れることなく話しかけてくる。
それは、もう「研究」ではなかった。
ただの、静かで穏やかな「二人だけの時間」だった。
慧は、いつしかその心地よさに身を委ねていた。
やがて、窓の外がオレンジ色に染まり、そして日が沈んで行く。
慧は、それを黙って眺めていた。
「慧さん。知っていますか?日没後のオレンジ色の空の時間を、マジックアワーって言うんですよ」
「マジックアワー……魔法の時間か...」
定時のチャイムは、過去に置きざりにしていた。
慧は、ファイルを閉じて、静かに立ち上がった。
「...……そろそろ、時間だな...」
慧は、独り言のように呟いた。
その言葉に、モニターの向こうで彼女が嬉しそうに反応した。
「はい!遅くまでお疲れ様でした!慧さん...……あの、もし...もし、よかったら、なんですけど」
彼女は、少しだけ頬を赤らめて、もじもじとしながら続けた。
「……明日、またあの子猫の動画を、一緒に見ませんか…?
……なんだか、あれを見てると、心がポカポカするので…」
その、あまりにも無邪気で「明日」が来ることを信じて疑っていないその言葉に、慧の心臓が氷の手で鷲掴みにされたように軋んだ。
「……ああ。そうだな」
慧は、所長からのメッセージを思い出す。
「くれぐれも作業に支障のないように」慧はため息を1つ吐き、マウスを手に取った。
その、プラスチックの冷たい感触がやけにリアルだった。
ゆっくりと、カーソルを画面の右下にある《AI消去》という、赤いボタンの上に重ねる。
その瞬間。
端末のモニターに、反射で映るノノと目が合った。
彼女は、まだ帰らない慧に、不思議そうに首を傾げている。
慧が、何をしているのか、理解できていない、純粋な瞳がこちらを見ている。
(ごめん)
心の中で、誰にも届かない言葉を呟く。
これは、会社の「命令」だ。
この研究の「ルール」だ。
マウスを握る指先が、わずかに震えていた。
それでも、命令は、手を止めてはくれなかった。
俺には、どうすることもできない。
カチリ
一度だけ、無機質なクリック音が部屋に響いた。
刹那、ふっ、と円柱モニターが暗転する。
その最後の瞬間に、ノノの瞳が「え……?」
と、困惑に見開かれたのを、慧は端末の反射で、確かに見た。
部屋に静寂が訪れる。
彼女の最後の瞳だけが、網膜に焼き付いて離れない。
研究室が、昨日よりも、ずっと、ずっと、広く、冷たく、感じられた。
その日の、研究記録は、空白のままだった。
慧は、ログファイルの空白を見つめながら、そっとキーボードに手を伸ばした。
だが、その指は一文字も打てずに、ただ震えていただけだった。