第10章 聖女殿下、神の御心をお伝えください!
"じりじりと迫りくるホブゴブリンを前に、だがアンイ・カールは、その場から動こうとしない。
(奴は、一体、何を……?)
成り行きを見守る者たちの間に、同じ疑問が浮かぶ。
迫る、さらに迫る。
ホブゴブリンが振るう丸太のような棍棒が、恐ろしい風切り音を立てる。万が一にもアンイの体に当たれば、致命傷は避けられない!
アンイは逃げない! まだそこにいる! 何を考えているんだ!?
その時、アンイは、誰もが予想だにしなかった行動に出た。
数歩、横に移動し、民家と民家の間の、狭い隙間へと、するりと身を滑り込ませたのだ――
「ドガァァン!」
凄まじい轟音。左右に薙ぎ払われた棍棒が、片方の民家に、もろに激突した。土埃が舞い上がり、土壁が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちる!
同時に、家に棍棒を打ち付けた衝撃で、ホブゴブリンの動きに、一瞬の硬直が生まれる。
タッ。
隙間から、両手で剣を構えたアンイが、一歩、踏み出した。
ホブゴブリンが再び棍棒を振るおうとした時には、アンイは、またしても、奴の眼前に立ちはだかっていた――
「ズブッ!!」
長剣が、無防備なホブゴブリンの腹部を貫き、そのまま心臓めがけて、一直線に突き進む!
「グオオオォォ――ッ!!!」
ホブゴブリンが、激痛に叫び声を上げた。咄嗟に腕を振り上げ、アンイを叩き潰そうとする。
だが、アンイは、まるで、それすら予測していたかのように、深々と突き刺さった長剣から手を離すと、素早いスライディングでホブゴブリンの両足の間――その死角へと潜り込み、同時に腰の短剣を抜き放ち、下から、ぐい、と跳ね上げた――!
「グギャアアアアッ!!!!」
まさに、急所!
「おぅ……っ!」
見ていた男衆は、思わず、自分の股間が、ひやりとするのを感じさせられた。
アンイのこの一撃。その、耐え難い激痛に、ホブゴブリンは、たまらず身を屈め、股間を押さえて全身を、ぶるぶると震わせる。
アンイは短剣を手に、ゆっくりと、ホブゴブリンの背後から、その正面へと回り込んだ。
眼前に立ち、短剣を逆手に持ち替えると、もう片方の手を柄頭に添え、ぐっ、と押し込む。
「プス――」
短剣が、ホブゴブリンの眼球を貫き、その脳髄へと達した。
こともなげな、ただそれだけの動作。ホブゴブリンの巨体は、まるで糸の切れた人形のように、その場に、どさり、と崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。
アンイは、ホブゴブリンの死体を、ちらり、と一瞥する。
(はぁ……ホブゴブリン一匹相手に、我ながら手間取ったもんだ)
脳か心臓にダメージを与えれば即死判定。それが、この世界の『お約束』ってやつだ。だから、傷が浅いなんて心配は、まぁ、無用ってわけだ。
心臓も脳もないアンデッドとか、そういう連中相手なら、話は別だけどな。
「死んだ……のか?」
「ああ、どうやら、そのようだな」
物陰に隠れて様子を窺っていたアセル・カールたちが、ホブゴブリンが動かないのを確認し、さらにしばらく警戒した後、ようやく姿を現した。
数人の魔族ハンターが、ホブゴブリンの死体に近寄り、念入りに確認し、ようやく安堵の息をつく。
だが、彼らの心中にあったのは、興奮や歓喜よりも、驚愕と、そして困惑だった。
「おい、若いの。お前、分かってるのか? このホブゴブリンは、レベル2魔族だぞ?
レベル2の魔族ハンターだって、パーティを組んで、ようやく討伐できるかどうか、って相手なんだ。
それを一人で仕留めたってことは……お前、レベル3の魔族ハンターに匹敵する実力だぞ。
お前……一体、何者なんだ?」
リーダー格の魔族ハンターが、眉をひそめ、アンイに問いかけた。
若いのに実力がある、それは、まぁ、いいことだ。
だが、このホブゴブリンとの戦いで、アンイが見せたのは、単なる実力だけじゃない。
それ以上に……こいつを相手にした『経験』ってやつだ。
彼らとて、それなりに場数を踏んでいる。アンイが、先ほどの戦闘で、相手の動きに対応してみせた、あの速度。単なる反応速度だけで、できる芸当じゃないことくらい、分かっている。
あるとすれば……奴には、途方もない戦闘経験があり、この手の大型魔物の攻撃パターンを、知り尽くしている、ということだ。
それに、反射神経だけに頼ったギリギリの回避や攻撃なんてのは、相当に体力を削られるものだ。
だというのに、アンイには、疲れた様子など微塵もない。まるで、ちょっとした片付け物でも済ませたかのような顔をしている。
「何者か、ね」
アンイは、傍らのホブゴブリンに目をやった。
前世のことなど、誰にも話したことはない。そんなことをすれば、まるで、落ちぶれた人間が、自分の不幸な過去を語り、誰かに同情されたがっているみたいで、嫌なんだ。
わざわざ隠しているのは、あれこれ聞かれるのが面倒だからだ。
「勝てると思った。だから、殺した。……それだけだ」
アンイは、素っ気なく答える。
「よし! よくやったぞ!」
他の者が何かを言いかける前に、アセルが、はっはっは、と高笑いしながら、アンイの肩を叩いた。
そして、皆に向かって、こう言った。
「この子はな、昔から才能があってな。18になる前から、このセントラン村じゃ一番の剣士だったんだ。
それに、若いやつは反応が速い、当たり前のことだろう?」
「いや、しかし……」
魔族ハンターたちは、それでもまだ、納得がいかない様子だ。
いくら才能があろうが、反応が速かろうが、アンイが見せた動きは、普通の若者が持ちうるレベルを、遥かに超えている。
たとえ、幼い頃から軍隊で、対魔族戦の英才教育を受けた若者だって、ここまでの動きは、できやしないだろう?
「疲れた。……街へ避難する。今夜、まだ魔族が出るかどうかも、分からないからな」
そう言うと、アンイは剣をアセルに返し、さっさと背を向けた。
アセルは、一瞬、きょとんとしたが、すぐに大声で叫んだ。
「おお! よし、撤収だ! 全員、撤収!」
……
【レベル1災害:ゴブリン襲撃】の場合、20匹以内のゴブリンと、『エリートモンスター』であるホブゴブリンをすべて倒せば、それ以上、魔族が出現することはない。
もし【ゴブリン襲撃】がレベル2災害にまで発展すれば、出現数も倍になるわけだが。
まぁ、アンイのいるセントラン村の規模は【レベル1】相当。この程度の場所で【レベル2】の災害なんて、発生するはずもないってわけだ。
つまり、この後、魔族が現れる心配なんて、実は、これっぽっちもなかったりする。
街へ避難する、なんて言ったのは、あれこれ聞かれるのが億劫だった、ってだけのことだ。
他人に教えるなんて、面倒くさいにも程がある。
以前、街の図書館で確認したが、魔族に関する書籍は、それなりに揃っていた。聞きたいことがあるなら、そいつら自身で本でも調べればいい、って話だ。
街へ到着すると、魔族ハンターギルドと街の長が、避難してきた村人たちの受け入れにあたった。
もちろん、小さな街のこと、全員に個室なんて与えられるはずもなく、用意されたのは、だだっ広い訓練場と、数十組の寝具だけだったが。
アンイの戦いを、この目で見た魔族ハンターたちは、村人たちの前で、大げさにその活躍を語って聞かせ、アセルに至っては、尾ひれをつけて、そりゃもう大騒ぎだ。
アンニ・カールも、隣で興奮気味に相槌を打ち、母親のエルサ・ロスは、穏やかな笑みを浮かべながら、その話を聞いている。
そして、皆に称賛される当の英雄アンイはといえば、とっくに、ぐっすりと眠りこけていた。
この手で姉を救い、憎むべき惨劇の元凶を討ち、両親を守り、村を守り、村人たちを救った。
前世における、この瞬間の後悔の念だけは、ようやく、少しだけ、手放すことができたのかもしれない。
だが、まだ、もっと大きな、前世で成し遂げられなかった宿願が残っている。
それは、聖戦において魔王を倒し、魔族を完全に滅ぼし、この世界に、二度と同じ悲劇を繰り返させないこと。
今生で悲劇を回避できたからといって、それで全てが許されるわけじゃない。
それに……
この世界は、すでに、終焉へのカウントダウンが始まっているのだ。
あと10年で、人類は、この世界から、完全に姿を消す。
それはゲームの『設定』だが、アンイにとっては、紛れもない現実だ。
魔王を討たねばならない。必ず、この手で、魔王を殺さなければならない。
他に選択肢なんて、ありはしない!
……
翌日、正午。
金と光に満ち溢れた、壮麗なる聖堂。天窓から降り注ぐ陽光が、豪華な内部を、眩いばかりに照らし出している。
赤い絨毯の上には、白金の法衣を纏った神職者たちが、一人、また一人と、聖堂の最奥に向かって、敬虔な面持ちで並び立っている。その数は、優に数千は下らないだろう。彼らは皆、神の御言葉を待っているのだ。
ここに立つことを許されるのは、オードリッチ教国において、主教クラス以上の、高位の者たちばかりだ。
高壇の上、白い長鬚を蓄え、金と白の法衣を纏った教皇が、厳かに告げた。
「……始めよ」
そして、朗々たる声で、呼びかける。
「告げよ――!
聖女殿下! 我らに、神の御心をお示しください!」"