表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/8

風へ還る君へ

─空が、近い。


 風送り最終日の夜、漠然と、活気づく商店街を歩いて、そんなふうに思った。


 空気は澄んでいるのに、何かが重たく沈んでいる。


 それは気温のせいでも、湿度のせいでもなかった。

 

 ─今日で、すべてが終わる。

 

 漠然と、そんな確信だけが胸にあった。


 けれど、何が終わるのか、俺にはまだわからなかった。


 町を歩く。


 祭りも終盤に差し掛かり、楽しそうな雑談があちこちから聞こえてくる。

 

 ─音が、ない。


 でも、あんなに耳にまとわりついていた風鈴の音すら、今日はどこか遠い。


 ただ、時折ふっと吹く風に乗って、かすかに、ひとつだけ、かすれるような音が聞こえる。


 ─チリン。

 

 それは、俺の中のどこかを優しく撫でる音だった。


 坂を登る。


 この違和感も、アユばあなら何か知っている気がして。


 送り堂へと続く、なだらかな上り坂。


 何度も何度も歩いたはずの道なのに、今夜は、まるで初めて踏みしめるかのような感覚だった。


 靴底から伝わる石畳の冷たさ。


 ゆるやかな風が、頬を撫でる。


 ─けれど、そのすべてが、どこか現実味を失っている。


 誰もいないはずの道の向こうに、誰かの気配があった。


 けれど、顔を上げても、そこには何もいない。


 ─気のせいか。


 自分に言い聞かせながら、さらに坂を登る。


 夜空には、星が浮かんでいた。


 去年の風送りの夜と、同じような、あたたかくて、少し寂しい星空。


 けれど、あのとき隣にいたはずのアユは、今はもうない。

 

 心臓が、ひとつ、どくんと鳴る。


 ─おかしい。

 

 一陣の風が吹く。

 

 瞬間。胸の奥に、ざらりとした違和感が広がる。


 まるで、何かを見落としているような、あるいは、ずっと見ないふりをしていたものに、ようやく触れてしまったかのような。


 心臓が、強く打った。

 

 足が勝手に動き出す。

 

 足が、自然と速くなる。


 早く、たどり着かなければ。


 気づけば、俺は、坂を駆け上がっていた。

 

 一刻も早く、送り堂へ。

 

 何か、大事なものが、そこにある気がした。


 その時、

 透き通るように響く音が、耳をかすめた。

 

 何かを必死に追うようにして、坂を駆け上がる。


 そして、見えた。


 灯りの落ちた送り堂の前。


 その縁側に、ひとりの少女が立っていた。


 

 ─アユ。


 

 瞬間、呼吸が止まった。


 ─そんなはずはない。


 だって、彼女は─


 足が勝手に動く。

 

 必死に。必死に。坂を駆け上る。

 

 声にならない声を飲み込む。


 アユは、こちらを見ていた。


 目を見開いて、まるで、幽霊でも見たかのように。

 

 星に背を押されるようにして、静かに、そこに立っていた。

 

 スカートの裾を風に揺らしながら、じっとこちらを見つめている。


 けれど、それは─俺も同じだった。

 

 俺も、足を踏み出す。

 

 ゆっくり、ゆっくりと。


 アユの目が、わずかに見開かれた。


 わかる。

 

 彼女にも、きっと、見えている。


 俺の姿が。

 

 俺の存在が。


 境内の空気が、やさしく震えた。

 

 距離は、もうほとんどなかった。


 言葉が、出ない。


 だって、彼女は、いま、目の前にいる。


 こんなにも、はっきりと、ここに。

 

 「……あ、あ……」


 声が、喉の奥で絡まった。


 アユも、何かを言おうと口を開きかける。


 門の前で、ふたり、立ち尽くしていた。


 冬の夕暮れの風が、ふわりと吹き抜ける。

 

 アユは、じっと俺を見つめたまま、動かない。

 

 俺も、何も言えずにいた。

 

 ただ、この瞬間が、永遠に続けばいいと、心のどこかで願っていた。


 そのときだった。


 「ほう……ようやっと、会えたんか」


 アユの背後から、静かな声が響いた。


 振り向くと、そこにはアユばあが立っていた。


 まるで、すべてを知っているかのような、深い、深い瞳で。


 「よう来たなあ」

 

 風に白い髪を揺らしながら、にっこりと微笑んでいる。

 

 アユばあの声は、風に溶けるように静かだった。


 俺は送り堂の前に立ち尽くしたまま、息をするのも忘れていた。


 目の前にいるアユは、俺を見ていた。


 今にも泣きだしそうな瞳で。

 

 「……アユ……?」


 かろうじて絞り出した声が、夜気に吸い込まれる。


 「うん……」


 ただ、涙を滲ませた目で、震える唇を噛みしめながら、必死に絞り出した声。


 ─おかしい。

 

 だって、アユは、あの事故で─


 アユが生きて、ここにいる。その嬉しさと、今の俺は何なのか。


 喜びと、混乱がこみ上げる。


 永遠に続くかのように思える時間。

 

 その間にやさしい声が響く。

 

 「さあ、こっちにおいで」

 

 アユばあは、手招きする。


 俺たちは、導かれるようにして、送り堂の奥へと進んだ。


 二人、信じられない。そんな表情を隠すことが出来なかった。

 

 軋む縁側に腰を下ろすと、アユばあも、隣にゆっくりと座った。


 俺とアユは、肩が触れるか触れないかの距離で並んで座った。

 

 冬の夕暮れの冷たい風が、縁側をなでる。

 

 でも、不思議と寒さは感じなかった。


 ふと、アユがそっと右手を伸ばした。

 

 ためらうようにして、それでも、そっと俺の手の上に、指を重ねる。

 

 震える指先。

 

 でも、確かに、あたたかかった。


 俺も、そっとその手を包み込んだ。

 

 言葉なんか、いらなかった。

 

 ただ、このぬくもりだけが、今のすべてだった。


 しばらくの間、風の音だけが、境内に満ちていた。


 やがて、アユばあが静かに口を開いた。


 そして、ぽつりと、呟いた。


 「─あんたは、強う生きた子じゃった」


 俺は、瞬きもできずに、その言葉を聞いた。


 「事故の日……あの交差点で……歩夏を、かばうようにして─」


 アユばあの声は、震えていた。


 でも、それでも、言葉を紡ぐことをやめなかった。


 「─命を、落としたんじゃよ」


 頭が、真っ白になった。

 


 ─何を、言ってるんだ。



 俺は、生きている。


 こうして、ここにいるじゃないか。


 ─なのに、どうして。

 

 「アユは……生きとる」


 アユばあの言葉が、胸に突き刺さる。

 

 胸から目頭から、何か、こみ上げてくる。


 「けれど、歩夏は─あんたを、忘れられんかった」


 風が吹く。


 「強う願うたんじゃ。忘れたくない、消したくない、ってな」

 

 風鈴たちが、一斉に揺れる。


 空気が震え、空間が歪むような感覚に襲われる。


 「その想いが、あまりにも強うて─」

 

 アユばあは、俺の目を、まっすぐに見た。


 「……あんたは、ここに“おる”」

 

 心臓が、ひとつ、跳ねた。

 

 「─違う」


 思わず、声が漏れる。


 違う、違う、そんなはずはない。


 俺は、生きている。


 ちゃんと、地面を踏みしめている。


 こうして、風を感じている。

 

 ─なのに。

 

 「……あんたは、“記憶”なんじゃ」


 アユばあの声は、ひどく静かだった。


 けれど、その静けさが、なによりも重たかった。


 左手に重なるアユの手がやけに小さく感じた。


 「アユの、願いと、記憶から、生まれた……残滓ざんしじゃ」


 


 ─残滓。


 


 その言葉の意味が、ゆっくりと、体の奥まで染み込んでいく。


 「歩夏が、逆風鈴に込めた想いが、強すぎたんじゃ。忘れたくない、忘れられない、傍にいてほしい歩夏の心が─」

 

 風が、また吹いた。


 「……あんたを、この町に、呼び戻してしもうた」


 涙が、頬を伝うのがわかった。


 だけど、それは止められなかった。


 「そやけどな、風は─」


 アユばあは、そっと手を伸ばし、宙を撫でた。


 「……どんなに、強うても、ずっとは、留まれん。それは逆風鈴に封じられていたものだったとしてもじゃ。」

 

 「それに……あんた、アユの記憶に、ずいぶん深う触れたんやな」

 

 「だから、ここ最近、あんたの生活には歪みがあったはずじゃ。」


 俺は思い返す。


 送り堂以外にあるはずのない逆風鈴。

 どこか遠く感じる、雑踏。

 いつまでも、既読のつかない、メッセージ。


 ―あぁ、そうか。

 

 風は、必ず流れていく。


 音は、いつか消えていく。


 記憶も、いずれは、風に還る。

 


 ─それが、風送り。



 「今日で、風送りは終わる」


 アユばあの声は、やさしく、けれどはっきりと響いた。

 

 「……あんたも、還るんじゃよ」

 

 その言葉を聞いたとき、俺はようやく理解した。


 

 ─ここが、終わりなんだ。


 

 アユの記憶が、想いが、俺を支えてくれていた。


 でも、それも、今日で終わる。


 ―だって、アユが─前を向いてくれたから。


 ―俺を風に還す、そう決めてくれたから。


 

 視界が滲んだ。


 アユが、横にいる。


 生きて、ちゃんとここにいる。


 それだけで、十分だった。


 俺は、静かに目を閉じた。

 

 風は、すべてを運んでいく。


 音も、記憶も、願いも─


 ─そして、俺も。


 ─アユ。


 声に出そうとしたけれど、喉が詰まって、うまく出なかった。


 でも、伝わった気がした。


 彼女の震える肩、小さな手、潤んだ瞳、そのすべてが、言葉以上に雄弁に訴えかけてきた。


 「……凪」


 かすれた声で、アユが呟いた。


 「アユ……」


 そっと手を握りしめる。

 

 アユも、ぎゅっと、握り返してくれた。

 

 そのときだった。

 

 ふわりと、身体が軽くなる感覚がした。

 

 足元から、少しずつ、俺という存在がほどけていく。


 アユが気づいた。

 

 目を見開き、震える唇で、俺の名前を呼んだ。


 「凪……!」

 

 俺の体は、もう、風に溶け始めていた。


 指先が、淡く滲んでいく。


 掌が、空気に溶けていく。


 ─もう、時間がない。


 それでも、俺は、アユを見つめる。


 アユは俺の手をぎゅっと握り。


 「ごめんね……」

 

 涙が、彼女の頬を伝った。


 「……わたしのせいで、ずっと、ここに─」


 ─違う。


 違うんだ、アユ。


 俺は、君がくれたこの時間に、何度だって救われた。


 君が覚えていてくれたから、こうして、もう一度君に会えた。


 だから、ありがとう。


 「ありがとう、アユ。」


 喉が、焼けるように痛い。


 けれど、どうしても、伝えたかった。


 だから、俺は──


 風に崩れそうな体を、必死に支えながら。


 俺は、静かに微笑んだ。

 

 もう、泣かないでほしい。

 

 これでいいんだ。

 

 生きてほしい。

 

 生き続けてほしい。


 アユに向かって、そっと顔を近づけた。

 

 アユも、涙をこらえながら、そっと目を閉じた。


 最後の一瞬、俺たちは、触れ合った。

 

 ふわりと、あたたかく、やわらかく。

 

 まるで、世界にたったひとつだけ、確かに存在するものを確かめ合うように。


 キスを交わした瞬間、俺の輪郭が、光に溶け始めた。

 

 アユの頬に流れる涙のぬくもりが、伝わってきた。

 

 俺は、消え入りそうな体で、必死にアユを抱きしめる。


 風が吹いた。


 ふたつの体が、そっと重なる─


 ほのかに冷たくて、でも、あたたかくて。


 この世で一番、大切なものの感触だった。

 

 「……っ……」

 

 アユは、声にならない声で、泣いた。


 堪えていたものが、堰を切ったように、溢れ出した。


 俺も、涙が止まらなかった。


 こんなにも、彼女に会いたかった。


 こんなにも、彼女を想っていた。

 

 そして、アユも─同じだった。


 ふたりの間を、風が、優しく撫でていった。


 もうすぐ、終わる。


 この時間も、この奇跡も。


 でも、最後に。


 俺は、どうしても、伝えたかった。


 ─ずっと、そばにいる。


 たとえ、体が風に溶けても。


 たとえ、記憶が風に還っても。


 この想いだけは、ここにある。


 アユも、涙の中で、微笑んだ。

 

 「……うん」


 「……わかってる」


 彼女の声が、風に乗って届いた。


 「……大好きだよ。」


 ─ありがとう。


 ─ありがとう。


 ―アユと出会えてよかった。


 風が、吹いた。


 送り堂の中で、最後の風鈴が、静かに鳴った。


 星空に消え入るような音で。


 涙をぼろぼろとこぼしている、アユの顔が、ゆっくりと、霞んでいく。

 

 アユが、手を伸ばしてくれている。


 でも、その手が、届かない。


 それでも、いい。

 

 彼女が、生きてくれている。


 彼女が、前を向いてくれた。


 それだけで、いい。


 最後にもう一度、俺は微笑んだ。


 アユも、涙の中で手を振りながら笑った。


 そして──

 

 俺は、風になった。


 夜空へと昇っていく。


 音も、記憶も、想いも。


 すべてを風に乗せて。


 ─さようなら。


 ─ありがとう。


 ─俺も大好きだよ。ずっと。

 


 風鈴が、もう一度だけ、鳴った。


 澄んだ音が、夜空の深い青と共鳴する。

 

 まるで、星たち自身が、小さく震えながら、音を返してくるみたいに。


 風に溶けても、俺の想いは、永遠に、風鈴坂町の空に響き続ける、そう信じて。


**

 

 私は目を閉じる。


 

 目の裏に、彼の笑顔が浮かぶ。


 堤防の上で指を差しながら笑っていた顔。


 祭りの夜に、浴衣姿で隣を歩いていた横顔。


 教室の窓際で、ふいに真剣な目をしてノートをとっていた姿。


 「……大好きだよ。」


 口にした瞬間、胸がいっぱいになった。


 ─大好きだよ。


 心の中で、もう一度だけ。


 風が、鳴く。

 

 その音とともに、

 彼の気配が、空に溶けていくのが分かった。


 温かくて、柔らかくて、でも、確かに─遠ざかっていく。


 「……大好きだよ。私も、ずっと。ありがとう。」


 ―でも。そうはいっても。


 そう、彼に手を伸ばそうと思って。


 ―でも。


 やめた。


 彼が、安心して、風に還れるように。


 私は、そっと手を振った。


 誰に見せるでもない、小さな小さな手振りだった。


 送り堂の天井を越え、風が高く、高く昇っていく。


 音も、光も、想いも、全部、夜空に吸い込まれていく。

 

 


 最後にもう一度だけ、風鈴が鳴った。


 それは、まるで「さようなら」ではなく─


 「またね」って言っているみたいな、そんな音だった。


 **

 

 優しく響く音色は、その音は、確かに、風に消えていった彼の声に聞こえた。

 

 「……ばか」


 泣きながら笑うみたいに、私は呟いた。


 「そんなに、優しい音、残していかないでよ」

 

 涙が頬を伝う。


 もう、だれもいない空に語り掛ける。


 全部、彼に届いてほしかったから。

 

 風鈴の音が、星の海へと溶けていく。


 これは。

 

 さよならではない。

 

 生きていくための、静かな約束の音だった。

 

**


 風鈴の音が、夜空に溶けていった。


 しばらくその場で空を見上げていた。

 

 手を伸ばせば、まだ彼に、凪に触れられる気がして、なかなか動けなかった。


 けれど、風はもう、優しく吹き抜けていくだけだった。

 

 ただ、静かに、次の季節を告げるような風。

 


 「……よくがんばったねぇ」

 

 「おばぁちゃ……」


 声にならない声で、アユは応える。


 アユばあは、にこりと笑って、ぽん、とアユの肩に手を置いた。

 

 「よう聞きなさい」


 その声は、風の音よりも、あたたかかった。


 「─風送りっちゅうんはな、忘れるためのもんじゃないんよ」


 「忘れなくてもええ。無理に忘れんでもええんじゃ」


 アユばあは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


 「人はな、忘れたくないもんも、忘れられんもんも、たくさん抱えて生きとる。けど、それでも─一歩だけ、前に進みたい思いがあるけえ、風に乗せるんじゃ」


 「……前に、進むために?」


 「そうじゃ。風送りはな、心の荷物を一度だけ、風にゆだねる儀式なんよ」

 

 アユは、小さく息を呑んだ。

 

 アユばあは、優しく続ける。


 「つらい思い出も、悲しい別れも、ただ─ほんの少し、楽になって、また歩き出すために。前を向いてい居ていくために。」


 「……私、凪の事、背負って生きてかないとって。絶対に忘れちゃダメだって。」


 「辛い決断だったねぇ。」


 おばあちゃんは、言った。


 「大切に、大事に、胸にしまって。でもな、悲しみに押しつぶされそうなときは、そっと思い出すんじゃ。

 あのとき、風に乗せた想いが、自分を支えてくれるいうことを」


 堪えきれずに涙をこぼした。


 「……わたし、ずっと……。」


 「それでええ。想っとるだけでええ。無理に笑わんでええ。風送りは、な、無理に明るくなるためのもんじゃない。心に寄り添う、風のようなもんなんじゃ」


 そっと撫でる、おばあちゃんの手は温かくて。

 

 「……ありがとう、ばあちゃん」


 アユは、嗚咽をこらえながら、胸の奥でそっと誓った。


 彼を忘れない。


 でも、前を向く。


 悲しみも、痛みも、全部抱えて。


 ─そう、彼が願ってくれたように。


 風が、もう一度、送り堂を通り抜けた。

 

 高く、高く、天へと昇っていく。

 

 その空の、どこかで。


 彼が、きっと、笑っている。



 境内に、再び静寂が満ちる。

 

 もう、彼の気配はどこにもない。

 

 だけど、心のどこかに、確かにいる。

 

 これから先も、ずっと。


 深く深呼吸した。

 

 夜の空気が、肺いっぱいに広がる。

 

 それは、少しだけ痛かったけど、悪くない痛みだった。

 

 「おばあちゃん、ありがとう。もう行くよ。」


 そういうと、おばあちゃんは優しくうなずいた。


 彼の道筋をたどるように、縁側を離れ。

 

 境内の石段を下りる。

 

 踏みしめるたび、かすかに雪がきしむ音がした。


 ふと、振り返る。

 

 送り堂の屋根に、無数の風鈴が揺れていた。

 

 カラン、カランと、星空の下で、かすかな音を重ねながら。


 私は、夜の町へ、ゆっくりと歩き出す。


 明日へと、向かうために。



 夜風が頬を撫でた。


 その風の中に、ほんの一瞬だけ─彼の笑い声が混じった気がした。

 

 ─前を、向くんだ。


 彼が好きだった、私のその姿を、取り戻すために。


 風が、また吹いた。


 鳴いたその音は、どこまでも静かで、どこまでも優しかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ