どこ迄も青い空。重なる想い。
町に、夏の終わりが香っていた。
風鈴坂町─
彼と歩いた石畳の道、坂道を縫うように並ぶ白壁の家並み、
そして何より、空を渡る風の匂い。
私は、そっと深呼吸をした。
肺の奥まで風を吸い込んで、それから静かに吐き出す。
─ああ。
家を出てすぐの坂道は、子供の頃から変わらない。
けれどどこか、世界がすこしだけ小さくなったようにも思えた。
それは、私が変わってしまったからだろう。
あの事故から、もうすぐ一年。
この町の風も、音も、思い出も、
なにもかもが、あまりにも鮮やかすぎて、
まともに受け止められなかったことを思い出す。
坂を下では、風送り祭りの最中だった。
軒先には風鈴が吊るされ、町中がかすかな音の海に沈んでいる。
チリン、チリン─。
高く、低く、絶え間ない音が、
まるで町そのものに、脈打つ心臓を与えているかのようだった。
明日が、風送りの最終日。
そして─
私は、ようやく。
あのとき、私は彼を忘れたくなくて、必死に逆さに吊るした。
─忘れたくない。
─いなくならないで。
そんな祈りのような願いを、
私は、あの小さな風鈴に閉じ込めた。
でも今は違う。
今は、ちゃんと送らなくちゃいけない。
彼の記憶を、彼への想いを、
この町の風に乗せて、ちゃんと、空へ還さなくちゃいけない。
─前を向いて、生きるために。
祭囃子の音が、遠くでかすかに聞こえる。
提灯の明かりが、夕暮れの中でぼんやりと揺れている。
私は小さく息を吐き、
ゆっくりと、坂を登り始めた。
─もうすぐ、彼に、会える気がする。
強く石畳の道を踏みしめる。
すると、もうすぐ送り堂の門が、見えるというところで、
誰もいないはずの石段に、微かな影が揺れていた。
まるで、誰かが先に歩いているかのような─そんな錯覚。
私は一瞬、立ち止まる。
風が吹いた。
チリン─。
どこかで、風鈴が鳴った。
それは、町の音とは違った。
もっとずっと近くで、もっとずっと懐かしくて、
胸の奥を震わせる、あの風鈴の音。
私はまた歩き出す。
一歩、一歩、確かめるように。
この坂を登りきった先の、送り堂へ。
そして─
そこに、私の一年分の想いが、待っている。
提灯の灯りが、すこしずつ背中を押してくれる。
町のざわめきが、波のように遠ざかっていく。
夜の風は、ぬるく、優しく、
私の髪を撫でながら、坂の上へと誘っていった。
─もう、怖くない。
私は、最後の一歩を踏み出した。
─送り堂の、扉が見えた。
**
送り堂の扉は、いつものように少しだけ開いていた。
内側から洩れる灯りは、
まるで胸の奥に灯る小さな火種みたいに、
温かく、かすかに脈打っていた。
私は、深呼吸をひとつ。
─大丈夫。
そう自分に言い聞かせてから、そっと扉に手をかけた。
きぃ、と、控えめな音を立てて、扉が開く。
堂内には、優しい風が満ちていた。
吊るされた無数の風鈴たちが、
風にそよぎながら、細やかな音を奏でている。
チリン、チリン─
音はどこか儚く、でも、確かにここに“生きて”いた。
堂の奥、縁側に座っていた小さな影が、こちらを振り返った。
─おばあちゃんだ。
小柄な背中。
白い髪。
ふっくらとした手のひら。
安心するその姿に、思わず胸が詰まる。
「あぁ……戻ってきたんか」
ばあちゃんは、いつもの穏やかな声でそう言った。
私は頷く。
言葉にならなかった。
ばあちゃんは、ゆっくりと立ち上がり、
私の手を、両手で優しく包み込んだ。
「……よう、頑張ったなぁ」
その一言で、涙がこぼれそうになる。
でも、私は必死に堪えた。
「今日はな、特別な風が吹いとる。ここで待っとったら、きっと“みんな”帰ってくるけえな」
“みんな”─
その言葉の意味を、私は深く考えなかった。
いや、考えたくなかったのかもしれない。
おばあちゃんは、送り堂の淵に歩み寄った。
そこには、一つ離れて、風鈴が浮いている。
─逆風鈴。
去年、私が吊るした、あの風鈴だった。
透明なガラスに、小さな花の模様。
短冊には、震えるような字で、こう書かれている。
─「ここにいて。」
私は、その短冊をそっと指先でなぞった。
「……おばあちゃん。私……」
声が震えた。
「私、やっぱり、忘れたくないんだ。」
「でも─それでも、ちゃんと、送りたいんだ。前を向いてる私を凪は好きだって言ってくれたから。」
おばあちゃんは、静かに頷いた。
「ええんよ。忘れんでも。風に還すゆうんはな、無理やり消すことやない。想いを、ちゃんと空に届けることなんじゃ」
私はぎゅっと拳を握った。
「でも……怖いの。送りきったら、ほんとうに、いなくなっちゃいそうで」
その言葉に、おばあちゃんは少しだけ目を細めた。
「おるよ、あの子は。ちゃんと、ここに。今でも」
─あの子。
その呼び方に、胸がきゅっとなった。
送り堂の天井に、風が流れる。
吊るされた無数の風鈴たちが、微かな音で応えた。
チリン─
この音のすべてに、想いが宿っている。
誰かが誰かを忘れたくないと願った、そんな音。
誰かが誰かにさよならを言えずにいる、そんな音。
「……歩夏」
おばあちゃんは、そっと私の肩に手を置いた。
「明日、風送りが終わったら、あんたも、一歩、前に進みなさい。あの子も歩夏がつらそうにしてるとこ、見るの辛いと思うよ。」
「……うん」
その言葉に、私は小さく頷いた。
坂を吹き上げてきた夜風が、堂の中の風鈴たちを、一斉に震わせた。
─忘れないよ。
あの日、あの場所で誓った想いが、
今も、確かにここに生きている。
私は、鞄の中から、小さな紙を取り出した。
─「ありがとう。大好きだよ。」
たったそれだけの言葉を、逆風鈴の短冊に結びつける。
彼のことを、忘れたくない。
ずっと、そばにいてほしい。
何度も、何度も、そう願った。
でも─
このままじゃ、きっと、彼を縛りつけてしまう。
「……ごめんね。待たせたよね」
私は、堂の中央、送りの台へと歩み出た。
足音は、不思議なほど響かなかった。
まるで、堂そのものが音を吸い込んでいるみたいだった。
送り堂の屋根の淵に。
私は、逆風鈴をそっと戻す。
─カラン。
ガラスが触れ合う、ほとんど聞こえないくらいの小さな音。
吊るした瞬間、私の中で何かが、ほどけた。
─ああ、本当に。
これで、いいんだ。
風鈴が、やわらかく風に揺れる。
たったひとつだけ、音が生まれる。
─チリン。
おばあちゃんを一瞥し、少し顔をほころばせながら送り堂を出る。
門の外に出ると昼間の熱を帯びた生ぬるい風が頬を撫でた。
見上げると。星。星。星。
―織姫様と彦星様
―こんなにも、すぐ近くに感じられるのに。
会いたいな。
なんだか、もういないはずの彼がすぐそばまで来てくれている気がして。
手を伸ばせば、また不器用に手を伸ばしてくれる気がして。
声にもならない想いが、夜風へと溶けていった。