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君に、届かなかった声。

朝、蝉の声で目が覚めた。


 いつもより少しだけ早い時間。

 

 窓を細く開けて寝ていたから、夏の朝の湿った空気が、カーテンをふわりと持ち上げていた。


 ぼんやりと天井を見上げたまま、思う。


 ─今日が終わったら、明日からはお祭りだ。


 風送り。

 

 町中に風鈴が揺れる、年に一度の、あの三日間。


 ─楽しみだな。

 

 少しにやけるように呟いて、勢いよく布団を跳ね上げる。

 

 制服に袖を通しながら、ふと思い出す。

 昨日の彼の顔。


 玄関を出たときには、そんなモヤモヤも、潮風に紛れて吹き飛んでいた。


 「─おーい!」


 角を曲がったところで、彼の声が聞こえた。


 手を振りながら近づいてくるその姿に、思わず笑ってしまう。

 相変わらず、寝癖がひどい。


「ちゃんと起きてきたじゃん、偉い偉い」


「うるせーよ」


 むくれたような顔をして、でもすぐに笑い返してくれる。

 それだけで、朝の空気がほんの少し軽くなる気がした。


 二人で並んで歩きながら、たわいない話をした。

 今日の授業のこと、部活のこと、明日からのお祭りのこと─。


 ほんとうに、ただ、それだけだった。


 坂を下って、学校へ向かう。

 道沿いの家々には、すでに風鈴が吊るされ始めていた。


 カラン、カラン。

 淡い音が、潮風に乗って耳元を撫でる。


「なあ、明日、どうする?」


「うん、夜にお祭り、行こうよ。屋台、いっぱい出るし」


「金魚すくいリベンジ?」


「うん!友達増やしてあげようよ。」


「自信ねぇ」


「ふふ、がんばろ?」


 ふざけ合いながら歩く坂道。

 見上げた空は、どこまでも青くて、果てしなく遠かった。

 

 **


 ─教室の窓から、夏の光が差し込んでいた。


 もうすぐ放課後。  

 外では、蝉の声がけたたましく響いている。


 私は、机に肘をつきながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。  

 お祭りの準備で忙しない町。

 もうすぐ始まる風送りのお祭りで賑わう町の光景が広がっている。


 今年も、あの屋台が出るんだろうな。  

 あの金魚すくい。わたあめ。射的。

 そして、坂の中腹で毎年見上げる、小さな花火。


 ─また、今年もいっしょに。嬉しいな。


 そんなことを思っていたら、不意に後ろから肩を叩かれた。


 「なぁ」


 振り向けば、そこに、彼が立っていた。 ちょっと不器用そうに、でもどこか期待するような顔で。


 「……なに?」


 「明日さ、学校終わったらすぐ集合な」


 私は、思わず口元をほころばせた。  ─やっぱり、同じことを考えてたんだ。


 「うん。」


  お互い、ちょっとだけ大人になったけど、こうしてまた一緒にお祭りに行けることが嬉しかった。


 「今年はな、ちゃんと金魚すくってやるから」


 「えー、無理でしょ。だって下手じゃん。」


 私が笑うと、彼はふてくされた顔をした。  


 でも、その顔も、私には眩しかった。


 夏の光が、彼の髪を透かしている。  


 汗ばんだシャツの袖口を、彼は無造作にまくり上げた。


 ─こんな時が、ずっと続けばいいのに。


 そんな願いが、ふっと胸に浮かんだ。


 「なぁ」


 彼が、ちょっと真剣な顔で言った。


 「明日……浴衣、着てくる?」


 「え?」


 「いや、その……。別にどっちでもいいけどさ」


 急に視線をそらすその様子が、なんだか可笑しくて、私は吹き出しそうになった。


 「着てこっかな」


 「マジか」


 「ふふ、期待しといて」


 軽く手を振って、私は先に教室を出た。  


 廊下に出ると、外の光が眩しかった。


 彼は、ちゃんと私の後を追ってきた。


 ─来年も、再来年も。  

 

 こんなふうに、一緒に歩ける気がしていた。


 当然のように、ずっと。


 


 教室には私たち以外ほとんど残っていない。

 

 教室を出ると、一気に熱気が押し寄せる。

 

 階段を降りて、靴を履き替えながら、私はそっと自分の胸に手を当てた。


 胸の奥で、何かが小さく脈打っている。


 嬉しかった。


 「明日、坂の下の広場で待ち合わせな」


 靴を履き終えた彼が、後ろから声をかけてきた。


 「うん、わかった」


 「七時な。遅れんなよ」


 「そっちこそ」


 にやっと笑って、彼は先に外へ出て行った。


 私はその背中を見送りながら、そっと小さく呟いた。


 ─気合い入れてこっ。

 

 夕暮れの空に、夏の風が吹いた。


 あの日と同じ、海の匂いが混じった風が。


 誰にも気づかれないように顔をほころばせながら。


 ひそかに心を躍らせた。


 先に出た彼の後を追うと、


 何かもの言いたげに、彼は立っていた。


「どうしたの?」


「いや、別に……ちょっと、寄り道して帰ろうぜ」


「え?」


 急な誘いに驚いたけれど、うれしかった。


「……うん、いいよ」


 鞄を持ち直して、彼のあとを追いかける。


 


 寄り道したのは、海沿いの堤防だった。

 

 ここは、高校に入学してから二人のお気に入りの場所。


 潮の匂いと、風鈴坂から流れてくる風が混じり合う。


 ふたり、並んで座った。


 潮風が髪を揺らす。

 

 私はそっと隣に目を向けた。

 彼は、何も言わずに海を見ていた。深く、どこか遠い場所を見つめるように。


 堤防の上、ふたり並んで腰掛ける。コンクリートの冷たさが、薄い制服越しに伝わってくるけれど、それすらも心地よかった。

 

 白い波が岸をなぞるたび、さざめく音が、胸の奥をかき混ぜる。


「なあ」


「ん?」


「……明日、晴れるかな」


「きっと晴れるよ。だって、今日もこんなにいい天気だもん」


 彼は、確かにとうなずきながら、ポケットから小さな紙袋を取り出した。


 中には─小さなガラス細工の、風鈴の飾り。


「お前に、やる」


「え、なにこれ……」


 差し出されたそれを、そっと手のひらに乗せる。

 

 光を透かして、小さな花模様が浮かび上がった。


「お守りみたいなもんだ」


「……ありがとう」


 不器用な渡し方に、胸がきゅっとなった。


 何かを言いたかったのに、うまく言葉が出てこなかった。


 ただ、ぎゅっと、その小さな風鈴を握りしめる。


 私は、何かを言おうと唇を開きかけて、やめた。

 

 この静けさを、壊したくなかった。

 

 言葉にしてしまったら、きっと、今この瞬間が、どこかへ行ってしまいそうで。


 ただ、そっと、目を閉じた。

 

 風のにおいと、彼の隣にいる温もりを、心に焼きつけるように。

 

 世界は、こんなにも広いのに、今、私たちは、誰よりも近くにいる気がした。 


 日が暮れてきて、町の明かりがひとつ、またひとつと灯り始めた。


「そろそろ、帰るか」


「……うん」


 立ち上がって、堤防を降りる。


 彼と並んで歩く夕暮れ道。


 交差点に差し掛かったときだった。


 遠くから、車のライトが近づいてくるのが見えた。


 ─なんか、速い。


 ほんの一瞬、そんな違和感がよぎった。


「危ない─!」


 彼が私を突き飛ばした。


 

 視界が、ぐるりと回る。


 アスファルトに手をついた衝撃。

 血の味。


  何が起きたのか、わからなかった。


 そして。


 彼の姿が、視界の端で、吹き飛んでいくのを─

 

 見た。


 叫ぼうとした。

 けれど声は、出なかった。


 世界が、音を失っていた。


 彼の名を呼ぶ声も、

 助けを求める叫びも、

 すべて、風の中に、溶けていった。


 意識が、遠のきそうになる。


 誰かが叫んでいる。

 誰かが走ってくる。


 でも─そのどれもが、すごく遠かった。


 転がった身体を必死に起こして、私は地面に手をつく。

 膝が震えて、うまく立ち上がれない。


 それでも、彼のもとへ駆け寄ろうとする。


 この腕で、彼に触れなければ。

 この声で、彼の名前を呼ばなければ。


 「──っ!」


 喉から声にならない叫びが漏れた。


 ぼやけた視界の中で、彼が倒れているのが見えた。


 ぐしゃりと曲がった手足。

 投げ出された鞄。

 割れたスマホ。

 血に濡れたアスファルト。

 

 ─嘘だ。


 こんなの、絶対、夢だ。


 膝をすりむきながら、彼のそばへ這うように近づく。


 「─凪!」


 声になったかどうかも、わからなかった。


 でも、必死で彼の肩に手を伸ばす。


 返事はない。


 恐怖が、胸を貫いた。


 「凪! お願い、目開けて、ねえ!」


 彼の顔を覗き込む。

 閉じた瞼。

 微かに震えるまつ毛。

 血の気の引いた唇。


 「大丈夫、すぐ、すぐ助け呼ぶから!」


 ポケットからスマホを取り出す。


 手が震えて、うまく操作できない。

 指がすべって、何度も番号を押し間違える。


 

 ─お願い、お願い、早く、早く!



 やっとの思いで救急を呼んだ。

 でも、すぐには来ない。


 その間にも、彼の身体はどんどん冷たくなっていく気がした。


 「ダメ、寝たらダメだよ!」


 泣きながら、何度も彼の名前を呼ぶ。


 意識をつなぎとめるために、必死で喋り続けた。


 「明日、お祭り行くって言ったじゃん」


 「金魚すくい、リベンジするって言ったじゃん」


 「ほら、あたし、また絶対失敗するから、凪が、掬ってくれるって……」


 「……だから、だから─」


 涙でぐしゃぐしゃになりながら、必死で彼に語りかける。


 でも、返事はない。


 遠くでサイレンの音が近づいてきた。


 赤い光が、夜道に滲んでいく。


 救急車が止まり、救急隊員たちが駆け寄ってくる。


 「彼女、大丈夫?」


 「こっちだ、こっちに!」


 誰かに肩を掴まれる。


 強引に引き離される。


 彼のそばにいられない。


 「いや、離さないで!」


 叫んだ。

 必死で手を伸ばした。

 でも届かない。


 ─彼に、触れられない。


 泣きながら、引きずられるように道端に座り込んだ。


 救急隊員たちが彼に処置を施している。


 見たくない。


 でも、目を逸らせない。


 ─凪。


 お願い、

 まだ、間に合うよね。


 きっと、大丈夫だよね。


 だって、まだ約束してるんだよ。

 明日、一緒にお祭り、行こうって─。


 ─約束。


 ─ねぇ。


 搬送用のストレッチャーに乗せられて、彼が救急車に運び込まれる。

 

 「この子も、乗せてあげて!」

 

 誰かが叫ぶ。

 目の前に、白い制服がかがみこむ。


 「大丈夫、一緒に行くからね」

 

 柔らかい声と同時に、私は救急車も乗せられる。


 彼の隣、すぐそばに。


 救急車の扉が閉じられる瞬間、かすかに見えた。

 灰色の空に、ちらちらと、夏の終わりの光がにじんでいた。

 祭りの準備をする提灯の明かりが、

 遠く、ぼんやりと滲んでいる。


 それは、まるで─


 取り返しのつかない何かを、

 静かに、ただ静かに、見下ろしているようだった。


 ─どうして。


 ─なんで、こんなことに。


 走る車の中、彼は、

 目を開けてくれるだろうか。

 名前を呼んだら、振り向いてくれるだろうか。


 涙でにじむ視界の中、

 私はただ、震える指でスマホを握りしめた。


 けれど、かけるべき番号も、かけるべき相手も、すぐには浮かばなかった。


 ─お願い、間に合って。


 ─まだ、遅くないよね。


 走る車内で、何度も祈った。

 

 神様なんて、信じたことなかったのに。


 病院に着いたのは、それからすぐだった。


 夜の救急外来。


 白い蛍光灯が冷たく光るロビー。

 椅子に座ったまま、私は両手を組んで、祈るように頭を垂れた。


 彼は、処置室に運ばれていった。


 扉の向こうでは、今も、誰かが必死で、彼を引き戻そうとしてくれている。


 そう信じたかった。


 時々、誰かが慌ただしく廊下を走る音がする。


 機械音が鳴り響く。


 ストレッチャーが動く音がする。


 でも、

 でも─

 彼のことを告げに来る人は、いない。


 時間が、凍りついたみたいに動かなかった。


 スマホを見る。


 バッテリーがじりじりと減っていくのに、時刻だけは何も変わっていないように感じた。


 ふと、ポケットの中の、もう一つの存在に気づく。


 ─風鈴。


 今日、彼がくれた、小さな風鈴。


 可憐で、軽やかな音色。


 飾ってるところを、見てほしかった。


 ―でも。


 ―でも。


 ─叶わないかもしれない。


 胸が、ぎゅうっと締め付けられる。


 怖い。


 怖い。


 ねぇ。


 やだ。


 扉が、音を立てて開いた。


 白衣の医師が、こちらへ向かってくる。


 後ろには、血のついたガーゼを抱えた看護師たち。


 私は、立ち上がった。


 足が震えた。


 「……あの」


 声が震えて、うまく出ない。


 医師は、ほんの一瞬だけ、顔を曇らせた。


 そして─首を、横に振った。


 


 ─全てが、崩れた。


 


 「ウソ、だよね」


 


 震える声が、知らない誰かのものみたいだった。


 


 「だって、明日、祭り行くって……!」


 


 手に持っていた風鈴が、指先から滑り落ちる。


 ガシャ、と小さな音を立てて、床に転がった。


 


 自分の世界の壊れる音だった。


 


 看護師が何かを言っている。


 医師が、申し訳なさそうな顔をしている。


 でも、もう、何も聞こえなかった。


 頭の中で、あの日の約束が、あのくだらない日々が、あの瞬間が何度も何度もリフレインした。



 ─来年も、また。



 なのに。

 

 なのに、

 どうして、こんなことに。


 力が抜けた。


 その場に崩れ落ちた。


 膝が床にぶつかって痛かったはずなのに、痛みも、感じなかった。


 ただ、ただ─


 「……凪……」


 名前を、呼んだ。


 震える声で、何度も何度も。


 ─でも、彼は、もう。


 どこにも、いなかった。


 夜の病院は、ただ静かに、

 私の絶望を、吸い込んでいくだけだった。



**

 


 その夜、私は一睡もできなかった。


 ぼんやりとした頭のまま、

 もう動かない彼の横に座ったまま、夜明けを待った。


 何度も、スマホを開いては、彼とのトーク画面を見た。



 ─「明日、朝一緒に学校いかね?」


 ─「朝起きれるの?笑 7時くらいにいつもの通学路ね。」


 ─「おっけ」



 最後のやりとりが、

 液晶の向こうで、乾いた記憶みたいに並んでいる。


 いまでも、メッセージを送ったら、彼の不器用な返事が返ってくる気がして。


 ─でも。


 ─でも。


 スクロールすればするほど、彼の声が、遠くなっていく。

 

 ─あたし、あたし、どうすればいいの。


 消えたメッセージに向かって、問いかけても、

 もう動かない彼に話しかけても

 何も返ってこなかった。


 ポケットの中で、風鈴が、かすかに鳴った。


 **


 病院の小さな個室。


 白い天井。


 冷たく乾いた空気。


 私は、そこにいた。


 彼のすぐ隣に。


 ─彼は、静かだった。


 いつもみたいに、軽口を叩くこともない。


 目を閉じ、微かに寝息を立てるでもなく。


 ただ、そこに、“ある”だけだった。


 ベッドの脇の椅子に座り、私は彼の顔を見つめ続けた。


 点滴も、酸素マスクも、すべて取り外されている。


 どこまでも、静かな寝顔だった。


 少し乱れた髪を、そっと指先で撫でた。


 ─ねぇ、起きてよ。


 そう言いたかった。


 でも、声に出したら、取り返しのつかないことになりそうで、怖くて、何も言えなかった。


 だから私は、ただ、手を握った。


 冷たかった。


 こんなにも。


 あの日、坂を一緒に登ったとき、

 浴衣姿で並んで歩いたとき、

 手をつないだら、いつも、あったかかったのに。


 今は、もう─。


 時間がどれだけ経ったのか、分からなかった。


 看護師さんが何度か顔を出してくれた。


 「辛かったら、少し休まれてください」と優しく言ってくれた。


 でも私は、首を振った。


 この時間を、手放したくなかった。


 だって、

 目を離したら、

 今度こそ、本当に、彼がいなくなってしまう気がしたから。


 夜が深くなっていく。


 窓の外の空は、黒く沈み、

 やがて、白んでいった。


 蝉の声も、夜の喧騒も、

 何もかも、どこか遠くなって。


 **

 

 朝になった。


 医師が、再び部屋に入ってきた。


 何かを告げる声がする。


 でも、聞き取れなかった。


 ただ、分かった。


 ─もう、行かないといけないんだ。


 私は、彼の手を最後にぎゅっと握りしめた。


 指を離すのが、怖かった。


 けれど─。

 離さなきゃいけなかった。


 彼の指先は、もう動かない。


 それでも、私は、そっと、もう一度だけ撫でた。


 「……また、会おうね」


 誰に向けたともわからない言葉を、ぽつりとこぼす。


 次、また病院に来たら、軽口をたたいてくれるんじゃないか。


 そんな気がして。


 病院のロビーに降りると、

 両親が来ていた。


 父は無言で立ち尽くしていて、

 母は、ハンカチを握りしめたまま、顔を上げられないでいた。


 私は、ふらふらとその前に立つ。



 「……」



 「……」



 言葉は、なかった。


 いや、あったのかもしれない。


 でも、どんな言葉を選んでも、この現実には到底届かない気がして。


 私たちは、ただ、うなずきあった。


 それだけだった。


**

 

 帰りの車の中、父は一言も話さなかった。


 母も、静かに涙を拭うだけだった。


 窓の外を流れていく町並み。


 朝の光が、痛いくらい眩しかった。


 ─みんな、知らないんだ。


 今、この世界から、

 たった一人、大事な人が消えたことを。


 学校も、坂道も、海も、

 何も変わらない顔で、そこにある。


 それが、たまらなく悔しかった。


 **


 家に着いた。

 

 玄関のドアを開ける。


 靴を脱ぎ、制服を脱ぎ捨て、

 鞄をソファに放り投げる。


 でも、部屋にいても、耐えられなかった。


 空気が重かった。


 何もかもが、空っぽだった。


 私は、また外へ出た。


 ─どこへ行く?


 足が、自然に答えを出していた。


 風鈴坂だ。


 送り堂だ。


 あの町の、坂の上へ。


 彼と一緒に、何度も登った、あの坂道へ。


 **

 

 坂道は、朝の光に照らされていた。


 すれ違う町の人たちは、誰も私に気づかないみたいだった。


 ─それで、よかった。


 だって、今の私は、

 きっと、誰の目にも映らないくらい、

 ぼろぼろだったから。


 ふと、胸ポケットに触れる。


 そこに、風鈴がある。


 ─忘れないために。

 

 ─逆さに吊るすんだ。


 今の私にできることは、それだけな気がしたから。


 私は、それを持って、坂を登った。


 脚は重かった。


 でも、歩みは止めなかった。


 坂の途中、見覚えのある家々が、静かに佇んでいる。


 彼と歩いた通学路。


 彼と隠れた神社の裏道。


 

 ひとつひとつが、胸を締め付けた。


 ─風が、吹いた。


 暖かい、夏の風。


 髪が揺れた。


 目を閉じると、彼の声が聞こえた気がした。

 

 ─なにしてんの。行くぞ。

 

 私は、唇を噛んで、

 また一歩、坂を登った。


 **

 

 送り堂の門をくぐると、

 そこには、おばあちゃんがいた。


 小さな体で、静かに、風の音を聞いていた。


 私を見ると、にこりと笑った。


 「来たかい」


 その声に、私は堪えきれず、しゃくり上げる。


 ばあは、何も言わず、そっと手を差し出してくれた。


 その手を、私はぎゅっと握った。


 子供みたいに。


 「……おばあちゃん」


 声が震えた。


 「……あたし、……あたし、忘れたくない」


 嗚咽混じりに、そう言った。


 ばあは、静かにうなずいた。


 「忘れんでも、ええ。─大事なもんはな、風がちゃんと、運んでくれるんじゃ」


 私は、ポケットから風鈴を取り出した。


 小さな、透き通ったガラスの器。


 西の空に、にじむような花の模様。


 送り堂の境内には、私とおばあちゃんだけ。

 ただ、風だけが、ささやくように吹き抜けていた。


 私は、そっと手のひらを差し出す。

 その上には、小さな風鈴。


 「――お願い。風よ―」

 

 声にならない声を、私は風に溶かした。


 次の瞬間だった。

 指先に置かれていた風鈴が、ふわり、と浮いた。

 まるで、見えない糸に導かれるように。


 私は両手を合わせる。

 その間に、風鈴をそっと、逆さまに支える。

 耳をすますと、風鈴の中から、かすかに音がした気がした。


 「ここに、いて」

 

 私は願う。強く、強く。


 見えない力に引かれるように、逆さになった風鈴が、欄干に、吸い寄せられていく。

 誰が吊るしたわけでもない。

 ただ、想いが、そうさせた。


 カラン、と。

 静かな音が、境内に広がった。


 逆さまの風鈴は、まるで宙に浮かぶ花のように、ゆらり、ゆらりと揺れていた。


 私は目を閉じた。


 その音が、あの人に届くことを、ただ信じながら。


 ─忘れたくない。


「前なんて、向けるわけがないじゃん……」


 彼と過ごした日々を。


 彼が笑った声を。


 彼が、私の名前を呼んだあの音を。


 「……また、会おうね」


 私は、そう呟いた。


 風が、吹いた。


 逆風鈴が、小さく、小さく、音を鳴らした。


 ─君のことを、

 ─私は、絶対に、忘れない。

 ―忘れちゃいけないんだ。私のために命を落とした彼のことを。

 ―背負って生きていかないといけないんだ。


 

 朝の光の中で、

 その小さな音だけが、確かに響いていた。

 

 **


 逆風鈴を吊るしたあとは、しばらくその場を離れられなかった。


 風は、やさしく吹いていた。


 朝の、まだ湿り気を帯びた風。


 でも、その風にすら、私は小さな寂しさを感じていた。


 ─これで、よかったのかな。


 そう心の中で問いかける。


 逆風鈴は、静かに揺れていた。


 透明なガラスに朝の光が透けて、淡く虹色を映していた。


 町中様々な所から届く思いを乗せた風に、

 風の層に、


 呼応するようにかすかに─ほとんど耳に届かないくらいに、

 チリ……チリ……と、鳴っている。


 その小さな音が、

 今、私がこの世界にとどめている、たったひとつの希望だった。


 ─彼を、忘れたくない。


 ─どんなに時間が経っても、

 ─どれだけ世界が変わっても、

 ─私は、彼のことを覚えている。

 ―彼を、凪を背負って生きていくんだ。


  絶対に、消したくなかった。


 逆風鈴を見上げながら、私はぎゅっと両手を胸の前で組んだ。


 そして、小さく、声に出さない声で願った。


 ─ずっと、ずっと、あなたを思い続けるよ。


 風が、ふっと吹いた。


 逆風鈴が、ひときわ、柔らかな音を立てた。


 **

 

 送り堂を後にして、坂を下りる。


 靴音が、石畳に乾いた音を立てる。


 町は、風送りの日の準備に追われていた。


 白い幕が商店街に張り渡され、

 子供たちは、手作りの短冊を手に走り回っている。


 風鈴屋の店先には、色とりどりの風鈴が並び、

 店主たちはその手を休めることなく動かしていた。


 だけど。


 そのどれも、私には、まるで別世界の出来事のように感じられた。


 ─なんで、こんなに、世界はふつうなんだろう。


 誰もが笑っている。


 誰もが、今日という日を祝っている。


 でも、私の中では、たったひとつの世界が、たったひとりの人が─

 取り返しのつかないほど、失われている。


 私は、足早に通りを抜けた。


 人の波の中を、すり抜けるように。


 風鈴の音が、あちこちから聞こえる。



 チリン、チリン─。

 


 それらは、どれも涼しげな音だった。


 夏の匂いを運ぶ音だった。


 だけど、私には、その音すら、胸に痛かった。


 だって、どんなに澄んだ音も──

 彼の声じゃない。


 **


 家に戻ると、部屋は暖かな日差しに満たされていた。


 けれど、窓を開けても、光を浴びても、

 心は、暗い井戸の底に沈んだままだった。


 私は、制服を脱いだままのソファにうずくまった。

 

 目を閉じても、何も浮かばない。


 彼の顔だけが、心の中に静かに沈んでいた。


 ─ごめんね。


 ─私が、守れなくて。


 ─私の、せいで


 何度も、何度も、心の中で謝った。


 だけど、いくら謝っても、

 彼の手が、もう二度と私に触れることはない。

 


 **


 ─夜。


 私は、病院にいた。


 白く塗られた壁も、

 蛍光灯の冷たい光も、

 どこまでも静まり返った廊下も。


 全部、現実感がなかった。

 

 ─夢ならいいのに。

 

 そう、何度も思った。


 

 けれど、手元に握りしめたスマホがじわりと手のひらに食い込んでいる。


 痛みだけは、いやに生々しかった。


 彼は、あの扉の向こうにいる。


 私は、ゆっくりと扉に手をかけた。


 指先が震えていた。


 でも、ためらっていたら、二度と会えなくなる気がして─

 私は思い切って、扉を押した。


 **

 

 部屋の中は、静かだった。


 カーテンが引かれ、ほとんど光も入っていない。


 ベッドの上に、彼がいた。


 白いシーツに包まれて、目を閉じていた。


 まるで、眠っているみたいだった。


 ほんの少し前まで、いつものように、くだらないことで笑ってた顔だった。



 …………


 

 私は、そっと近づいた。

 

 彼の頬に、手を伸ばす。


 でも、怖くて、途中で止まった。


 もし、触れてしまったら──

 本当に、もう戻ってこないって、認めてしまう気がして。


 私は、ベッドの脇にしゃがみこんだ。


 震える膝を抱きしめた。


 「……ごめんね」


 声が、かすれた。


 どうしても、それしか言えなかった。


 「ごめんね……ごめんね……」


 唇を噛みしめた。


 涙がこぼれる音すら、耳に痛かった。


 私は、ずっと彼の横にいた。


 誰もいない夜の病室で、

 ただ、彼の傍にいた。


 呼吸を止めた彼の身体は、既に冷たくなっていった。


 その冷たさが、現実を、静かに突き刺してきた。


 ─嫌だ、こんなの。


 ─まだ、話したいことたくさんあったのに。


 私たち、まだ何も、ちゃんと話せてなかったのに。


 進路のことも、卒業後のことも、

 来年の夏にまた祭りに行こうって約束も─


 全部、全部、まだだったのに。


 「ねぇ、起きてよ……」


 私は小さく呼びかけた。


 でも、彼は、もう二度と目を開けることはなかった。


 **

 

 気づけば、三日が経っていた。


 朝も夜も、ほとんど覚えていない。


 ただ、空だけが、毎日違う色に染まって、やがてまた暗くなった。

 それを、ぼんやりと眺めていただけだった。


 あの日、交差点で―

 彼が、いなくなった。


 世界はそれでも、何事もなかったみたいに、時間を進めていく。


 誰かが話しかけてきたこともあった気がする。

 けれど、耳に届いた言葉は、すぐに海の底へ沈んでいった。


 ただ、胸の奥に、ぽっかりと開いた穴だけが、ずっと消えない。

 何をしても、何を見ても、そこから風が吹き抜けていった。


 あの日のことは、夢みたいに曖昧だった。


 でも、現実は、待ってくれなかった。


 **


 彼のお葬式の日。


 私は、喪服に袖を通した。


 黒い布の重みが、やけに堪えた。


 髪をひとつにまとめ、鏡の前に立つ。


 だけど、そこに映る自分の顔は、

 知らない誰かのように、やつれて見えた。


 父と母と一緒に、葬儀場へ向かう。


 外は、痛いほどの青空だった。


 蝉が、絶え間なく鳴いていた。


 照りつける太陽の光が、アスファルトを焦がしていた。


 

 ─なんで、こんなにも。


 **

 

 葬儀場には、たくさんの人が集まっていた。


 彼の両親、親戚、クラスメート、先生。


 みんな、黙ったまま、俯いていた。


 遺影の中の彼は、笑っていた。


 あの、いつもの、照れくさいような、不器用な笑顔。


 香のにおいが、喉の奥を締めつける。


 彼の写真が、壇上に飾られている。


 笑ったままのその顔を、私は、まっすぐに見ることができなかった。


 手を合わせたまま、必死に、奥歯を噛みしめる。


 泣いたら、きっと、もう立っていられなくなる。


 だから、絶対に泣かない。泣かないって、心の中で何度も唱えた。


 でも、こみあげてくるものは止められなかった。


 視界が、じわりと滲む。

 瞬きをしても、拭っても、熱いものはあとからあとからあふれてきた。


 白い花が揺れている。

 線香の煙がゆらゆらと昇っていく。


 まるで、彼の気配まで、少しずつ、空に溶けていってしまうみたいで。

 胸が、ぎゅっと縮こまった。


 ―嫌だ。

 ―まだ、行かないで。


 声にならない叫びを、私は必死に飲み込んだ。

 唇を噛んだまま、涙をこらえた。


 でも、こらえきれなかった。

 

 一粒だけ、頬をつたって、零れた。


 その涙は、音もなく、黒い喪服に落ちた。


 私は、喪服の袖をぎゅっと握りしめる。

 

 お経が響く。

 

**

 

 棺が、運び出される。


 その上に、小さな花がそっと置かれている。


 係の人たちが、静かに指示を出す。


 家族たちは、決められた動作で、それに従って動いていく。


 私も、足を動かす。


 まるで誰かに操られているかのように。

 

 最後に顔を見てあげてください──。


 誰かが、そう言った。


 私は、ふらりと近づく。


 膝をついて、棺の中をのぞき込む。


 彼は、眠っていた。


 ─変わらない顔で。


 だけど。もう。


 私は、震える手で、小さな花を彼の胸元にそっと置いた。

 

 ―ありがとう。

 

 ―ごめんね。

 

 ―ずっと大好きだよ。

 

 ―ごめんね、ごめんね。

 

 ほんとうは、声に出して言いたかった。


 でも、声が出なかった。


 喉が、凍りついたみたいに固まって、何も出てこなかった。


 私は、唇をぎゅっと噛んだ。


 ……だめだ。


 ……こんなんじゃ。


 彼に、何も伝えられない。

 

 ─ねぇ。


 声にならない声が、胸の奥から、溢れた。

 

 ─ねぇ、行かないでよ。


 ─お願いだよ、起きてよ。


 ─わたし、まだ、何にも……


 やはり、こぼれる涙を、もう止めることはできなかった。


 目の前が滲んで、彼の顔すらよく見えなくなった。


 棺が、少しずつ閉じられていく。


 私は、手を伸ばした。


 でも、触れることはできなかった。


 閉じられた棺に、そっと額を押し付ける。


 「……っ……っ……!」


 声にならない声が、何度も、何度も、喉を震わせた。


 誰にも届かない。


 この世界のどこにも、届かない。


 でも、それでも。


 私は、叫びたかった。


 彼にだけ、届けばよかった。


 ─凪、好きだよ。


 ─まだ、そばにいたかった。


 そのすべてを、言葉にならないまま、押し出した。


 **


 棺が、運ばれていく。


 彼は、遠ざかっていく。


 私の世界から、静かに、確実に、遠ざかっていく。


 黒い喪服たちが、列を作る。


 誰もが、黙って歩く。


 泣いている人もいるけれど、私の耳には、何も聞こえなかった。


 私は、ただ、彼がくれた風鈴だけを、ぎゅっと握りしめていた。

 

 ─もう、彼はいないのに。

 

 風が吹く。


 夏の終わりの、ぬるく湿った風だった。


 その中に、ほんの一瞬だけ、かすかな音が聞こえた気がした。


 ─チリン。


 どこかで、風鈴の音が聞こえる。


 それは、彼が最後に残してくれた、声だったのかもしれない。


 夏の空は、青かった。


 蝉の声は、遠く、響き続けていた。


 でも、世界は、もう、あの日の世界とは違っていた。


 私の中の季節は、

 あの日から、ずっと、止まったままだ。

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