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音の向こう。記憶の向こう。

 ─チリン。


 その音が鳴るたびに、俺の足は自然と動いていた。


 夜の町は昼間の賑わいを忘れたように静まり返っていて、風だけが細い路地をすり抜けていく。あの空き家の軒先、逆さに浮かんだ、風鈴の音が、風の流れと関係なく、なぜかこちらへ向かって届く。まるで俺を呼ぶように。

 うまく言葉にできない。ただ、あの音を聞いていると、忘れていたはずの景色や匂い、そして─アユの声までもが、脳裏に浮かんでくる。

 いや、違う。ただ思い出すだけじゃない。まるであの音が、“俺の中に残っている何か”を掘り起こしているみたいだった。


 それは確かに、記憶の逆流だった。


 チリン─。

 

 俺は坂の途中、あの空き家の前で足を止めた。風鈴は静かに揺れ、低く、深く、柔らかな音を鳴らしている。


 風鈴につけられ、風に翻る短冊には、アユの字で、確かにこう書かれている。


 ─忘れたくない音。


 その言葉を見た瞬間、俺の胸の奥に何かがじわりと滲みだしてくる。


 忘れたくない。

 

 けれど忘れたほうが、きっと楽になれる。

 

 アユは、そういう何かの葛藤のなかで、この逆風鈴をここに吊るしたのだろうか。


 ―でも吊るせるのは…送り堂だけのはず……


 風鈴の音が、またひとつ鳴った。


 ─その音とともに、ひとつの記憶が蘇った。


 *

 

 ─放課後の訪れを告げるチャイムの音。

 

 カーン、コーン─。


 廊下の天井に埋め込まれたスピーカーから、いつもと変わらぬ放課後のチャイムが鳴り響いた。けれどその音が、今夜の空気にはどこか濁って聞こえた。少しばかり伸びた陽の光が、教室の床に斜めに射し込み、椅子の脚や机の影を長く引き伸ばしている。


 制服の襟元に汗がにじんでいて、俺は無意識のうちに指でシャツの首元を引っぱる。気づけば教科書を閉じ、筆箱を鞄にしまい、誰よりも早く立ち上がっていた。


 「……帰るか」


 教室のドアを開けると、外の空気が一気に肌にまとわりついてきた。夏の終わりが近いとはいえ、日中の熱気はまだ残っていて、体育館裏の木々がゆらゆらと音もなく揺れている。


 下駄箱へ向かって歩く途中、ふと背後から誰かが駆け寄る足音が聞こえた。


 「待って……! 一緒に帰ろうよ!」


 その声に振り返ると、アユがいた。


 髪をひとつにまとめ、少し汗ばんだ額に前髪が張りついている。肩で小さく息を切らせながら、俺に追いついてきた彼女は、手に持った鞄を揺らしていた。


 「今日、早いじゃん。いつも最後までノート書いてるのに」


 「まぁ、今日はちょっとな」


 苦笑しながら靴を履き替えると、アユが隣にしゃがみ込んで、同じようにローファーを履いた。


 「帰りにさ、どら焼きでも買って帰ろうよ」


 「どら焼き……また?」


 「いいじゃん。アレ食べないと一日が終わる気しないんだよね」


 笑う彼女の声が、なぜか妙に近く感じる。その瞬間、記憶のどこかにしまわれていた同じ言葉が、音のように浮かび上がってきた。


 「あ、でも待って」


 彼女はそう言って、俺の袖をちょいちょいと引っ張る。


 「ちょっとだけ、寄り道してこう?」


 気づけばアユに導かれるようにして、俺は校舎の裏手へと足を向けていた。


 人気のないその場所は、ちょうど風が抜ける通り道になっていて、植え込みの中で鳴く虫たちの声が微かに聞こえてくる。向こうには、小さな木の柱に吊るされたひとつの風鈴が揺れていた。


 ─そうだ、ここだった。


 「この風鈴、今年もここに飾ったんだ」


 アユが言ったその声に、俺はなぜか胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。細いガラスの外見。短冊には「また来年、ここで会おう」と手書きの文字が残されている。


 「去年も言ってたじゃん、これ」


 「言ったっけ」


 「言った。」


 まぁいいじゃん、と嬉しそうに俺の前に立ち、右手の小指を差し出した。

 ふいに照れたように笑ったその顔が、やけにまぶしく見えた。


 指を絡める。ぎゅっと握ったその一瞬が、まるで夏そのものを封じ込めたような気がした。


 ─忘れてたわけじゃない。ただ、どこかに閉じ込めてただけだったんだ。


 俺たちは、毎年この時期になると、「一年の約束」を交わしていた。同じ高校に入学してからは、ここ、校舎の裏手で色んな約束を交わしていた。


 「進路の話しようね」  「夏休みに一緒にバイトしてみる?」  「来年もまた、ここで会おう」


 そのすべてが、今になってようやく蘇る。


 風が吹く。風鈴が鳴る。


 カラン─。


 少し重たく、でもあたたかい音が耳の奥に残る。


 「アユ。……俺さ、なんでこの音、ずっと忘れてたんだろうな」


 「忘れちゃだめだよ」


 「……うん」


 アユは微笑んだまま、空を見上げた。


 夕日が頬を照らすその横顔は、どこか遠くを見ているようで、俺はその表情をまっすぐに見つめることができなかった。


 「来年も……また、ここで会おうね」


 その言葉が、今も耳の奥に残っている。


 ─でも俺たちは、あの日の“来年”を、迎えられなかった。


 風がまた吹く。風鈴が、もう一度だけ、鳴った。


 その音が、俺の中に封じ込めていた記憶の蓋を、静かに外していくようだった─。

 

 笑顔とともに差し出された指切り。それは、俺が一度も思い出せなかった、最後の約束だった。


 「あれ……?」


 声に出した瞬間、自分の心臓が強く打つのを感じた。なぜこんなにもはっきりと思い出せるんだろう。まるで昨日のことのように、細部まで鮮明に。



 

 そして、毎夜、通うたびに、記憶は少しずつ、つながっていった。

 かれこれ、4回ほどだろうか。

 断片でしかなった記憶のピースが、心の奥深くでつながっていくような感覚。


 夜の坂道には誰の姿もない。

 風鈴の音が、時間も空間も、そして現実さえも越えて、俺をあの夏の日へと連れ戻してくれる。


 ─でもその頃からだった。現実が、少しずつ霞んでいく感覚を覚えたのは。


 スマホを見れば、親友の名前に既読はつかない。

 駅前のコンビニの店員が、俺の顔を見てもまったく反応しない。

 それなのに、俺はまだこの町にいて、風の中にいる。


 「……なんなんだ。」


 そう呟く声さえ、風の音にかき消される。


 記憶の中のアユは、いつもはっきりと笑っていた。

 それに比べて、今の町はどこか靄がかかったように色を失っている。


 **


 「……なぁ、アユ」

 

 翌夜、風鈴に向かってそう問いかけた。

 

 「お前は、今どこにいるんだ?」


 もちろん、返事はなかった。


 チリン―

 

 けれど、そのとき風鈴が一度だけ鳴って─俺の心にまた、ひとつの情景が流れ込む。


 それは、アユの部屋。

 柔らかなカーテンが風に揺れ、机の上には手帳が一冊、開かれていた。

 “●●■××のこと、まだ忘れられない。だから─もう少しだけ、ここにいてほしい。”


 **

 

 あの言葉は……。


 空き家を後にし、宿に戻る途中。

 坂を下りながら、感じる。

 

 夜の町が、まるで“俺のためだけに”存在しているかのような、奇妙な静けさ。


 チリン─。


 俺の背後で逆風鈴が鳴った。


 それはもう、風で鳴っているのではない。

 俺の記憶に呼応して、音が生まれているような、そんな錯覚。


 風が通るたびに、俺の中に閉じ込められた断片が、ひとつずつほどけていく。


 ─でも、それと同時に。

 

 ここ最近、日中のことが、少しずつ思い出せなくなっているように感じていた。


 朝、何を食べたのか。

 昨日、誰と話したのか。

 

 ─そもそも、自分はいつからこの町に戻っていたのだろうか。


 **


 翌日、夜の帳が町を包むころ、俺はまた坂へ向かっていた。

 昼間のぬくもりが残る石畳には、まだ微かに夏の匂いが漂っている。

 だが、その空気には確かに、どこかよそよそしい湿り気が混じり始めていた。


 ─チリン。


 いつものあの家の軒先。

 逆さに吊るされた風鈴が、風のない夜にもかかわらず、ひとりでに鳴っていた。


 その音を聞くたび、脳裏のどこかが刺激されるような感覚がある。

 妙に風が流れ込んでいるような感覚がある。

 皮膚の内側がきゅっと締めつけられて、心臓の奥に、誰かの声が染み込んでくる。

 でも不思議と、温かい。


 ─また来年も、ここで会おうね。


 あれは、アユの声だ。確かに聞こえた。


 気のせいじゃない。思い込みでもない。

 風鈴の音が、記憶を引き戻す。まるで音が時間の流れを逆なでして、記憶の頁をめくり直すように─。


 スマホの時計を見ると、日付は進んでいるはずなのに、感覚が追いついていない。

 朝起きたときの記憶、昼間過ごしていた時の記憶。どこかあやふやだ。


 そんなふうにして、日常が音もなく霞んでいく一方で、アユとの過去だけが鮮やかに、色濃く蘇る。

 

 *

 

 ─風鈴坂町の夏祭り。

 

 蝉の声が鳴りやむと、町の空はすでに、群青色の濃淡を帯びていた。


 商店街には提灯の明かりが灯り、年に一度の夏祭りが、まるで映画のワンシーンのようにゆっくりと始まろうとしていた。仄暗い空の下、人々の笑い声や屋台の喧噪が混じり合い、やわらかな喧騒をつくり出している。


 あの夜も、風はどこか不思議な匂いを運んでいた。潮と焼きそばと、湿った土の匂い─そして、浴衣の袖からこぼれるアユの香り。


 彼女は、紺地に白い朝顔の模様が入った浴衣を着ていた。髪は後ろで軽くまとめられ、耳元には小さな金色の風鈴型のイヤリングが光っていた。


 「見て、どう? ……似合ってる?」


 と、恥ずかしそうに笑って振り向いた瞬間、胸がふっと詰まるような感覚に襲われた。


 「……あ、ああ。すげぇ似合ってるよ」


 顔が熱くなるのをごまかすように、俺は視線を少し逸らした。


 アユはその反応に気づいたのか、唇の端をくいっと上げて笑った。


 「ふふっ、ありがとう。でも、なんか緊張するなぁ、浴衣って……。歩きにくいし」


 そう言いながら、少しだけ足元を気にしている様子のアユを見て、俺は不意に手を差し出した。


 「……じゃあ、こっち。人混み、多いし」


 「えっ?」


 「手。つかまっとけよ。引っ張ってく」


 アユは一瞬きょとんとした顔をして、それから頷いて、俺の手を握った。


 小さな掌は、想像よりもずっと冷たくて、でも指先はほんのり汗ばんでいた。


 人混みを抜けて、俺たちは金魚すくいの屋台の前で足を止めた。紙のポイがたくさん並び、水面に小さな光が反射している。


 「やる?」


 「うん。でもね、あたし、めちゃくちゃ下手なの。去年も一匹もすくえなかったもん」


 「だったら今年は、俺がすくってやるよ」


 そう言って挑んだ金魚すくいは、案の定、苦戦続きだった。アユの笑い声が横でずっと響いていて、それだけで楽しかった。


 「……ほら、やっぱりダメじゃん!」


 「うるさいって。ほら、もう一枚もらうから!」


 何度目かの挑戦で、ようやく一匹の赤い金魚をすくい上げた瞬間、アユはぱっと拍手して「やった!」と声を上げた。


 「……じゃあ、名前つけよっか」


 「名前?」


 「この金魚。せっかくだから、ふたりで育てよ」


 「……育てるって、俺んちに金魚鉢ないぞ?」


 「うち、あるよ。だから、あたしんちで預かっとく。でも名前は、ふたりで決めよ?」


 その言葉が、なぜかすごく、遠い未来のことのように感じた。


 ─“ふたりで”なにかを共有するということ。


 あのとき、はじめてその言葉が現実味を持った気がする。


 その後も俺たちは、射的をしたり、わたあめを半分こしたり、風鈴くじを引いたりしながら、夜の祭りを歩いた。


 空には、打ち上げ花火があがった。アユは小さく歓声をあげ、俺の腕に少し寄り添った。


 「ねぇ」


 「ん?」


 「こうやって一緒にいると、夏って、なんか……終わってほしくないなって思うんだ」


 「……おう」


 その“おう”という返事しかできなかった自分を、俺は何度も思い返してしまう。


 アユはそのあと、何も言わずに俺の指をもう一度、そっと握ってきた。


 夜風が吹いた。


 どこかの家の軒先で、風鈴がひとつ、涼しげな音を鳴らした。


 ─その音が、今でも耳に残っている。


 帰り道。アユは少し歩く速度を遅らせて、俺と並んで歩いた。


 「……来年も、また一緒に行けるかな」


 「行けるさ。なに言ってんだよ」


 「……そうだね。」


 彼女の声が、夜の空気に溶けていくようだった。


 もう一度、風が吹いた。


 

 そのとき聞こえた風鈴の音が、今、耳の奥で再び鳴ったような気がした─。

 

*

 

 ─放課後の教室。

 

 チャイムが鳴って、午後の授業が終わると、クラスは一斉にざわめきはじめる。


 席を立つ生徒たち、机をくっつけて話し込むグループ、部活に急ぐ足音。夕暮れが差し込む窓際の席で、俺はひとり、ノートを開いたままぼんやりとペンを走らせていた。


 数式が、線になり、線が模様になっていく。落書きのような図形がページを埋めていくたびに、時間の流れが少しだけ緩やかになっていく気がしていた。


 「……ねぇ、それ、なに描いてんの?」


 後ろから声がした。振り向かなくても分かる声─アユだ。


 「落書き」


 「なんか、面白そう」


 アユは椅子を引き寄せて、俺の机に身を乗り出してくる。髪が少し揺れて、ほのかに柑橘系の匂いがした。


 「これ、花?」


 「いや、分かんない。気づいたら、描いてた」


 「ふぅん……あ、でもさ」


 アユは俺のノートをじっと見つめてから、ゆっくりと顔を上げた。


 「……意外と字、きれいだね」


 俺はその一言に、ちょっとだけ反応に困った。


 「いや、別に普通だろ」


 「ううん、すごくきれい。バランスいいし、ちゃんと丁寧に書いてる」


 「……女子かよ」


 「ははっ、それ、褒め言葉ってことで受け取っとくね」


 笑うアユの横顔は、夕陽に照らされてほのかに赤く染まっていた。窓の外の光が教室に斜めに差し込んで、彼女の髪の色を少し淡く見せている。


 「この時間、好きなんだよね」


 「放課後?」


 「そう。……まだ“今日”が終わってない感じがするから。夜でもないし、でも昼でもない。どこにも属してない時間」


 彼女はそう言って、窓の外を見つめた。校舎の向こうに広がる空は、すでに橙から藍色へと変わりつつあった。


 「“風”とか、“音”とか、こういう時間って一番きれいに感じない?」


 「……まあ、分かる気はする」


 「そうでしょ。あたし、小さい頃から夕方の風の音が好きだったんだ」


 「……アユって、詩人かなにか?」


 「それ、バカにしてる?」


 「いや、なんかさ、そういうの考えたことなかったから」


 「じゃあ、これから考えてみたら?」


 「……例えば?」


 「たとえばね─風の音が、誰かの記憶を運んでるって思ってみるの。そしたら、何気ない音も全部、誰かの“残したもの”に聞こえてくるよ」


 彼女の言葉は、どこかふわふわしていて、それでいて深く突き刺さるようなところがあった。


 「アユって、変わってるよな」


 「うん、自分でもそう思う」


 窓の外から吹き込んできた風が、アユの髪をさらりと揺らした。


 その髪が俺の肩にふれて、ほんの一瞬だけ、時間が止まったような気がした。


 「そういえば、風鈴の短冊に願い事、書いた?」


 「え、なにそれ」


 「ええ……もう。風送りの風鈴だよ。願い事っていうか、忘れたいことでもいいけどさ、あたし、いつも短冊に書いてるんだ」


 「毎年?」


 「うん。でも、なかなか叶わないんだよね。忘れたいことなんて、風にまかせたって簡単に消えてくれるもんじゃない」


 「アユ……何、忘れたいんだ?」


 アユは一瞬だけ表情を曇らせた。


 「……秘密」


 「なんだよ、それ」


 「じゃあさ、教えてあげる代わりに、ひとつだけ約束しよ」


 「なに?」


 「来年もまたお願い事の話をするの、どう?」


 「……くだらねえ」


 「だめ?」


 「いや、いいよ。来年、また学校でな」


 アユは嬉しそうに微笑んで、小指を差し出した。


 俺は少し戸惑いながらも、その小指に自分の指を絡める。


 「指切りげんまん。破ったら─」


 「……針千本飲ます?」


 「ううん、来年、風鈴坂の風が鳴らなくなる」


 「それ、怖すぎ」


 「でも、ほんとにそうかもしれないよ。約束って、誰かの記憶に残るから、破ったら記憶も風も止まるかもしれない」


 その言葉を聞いたとき、なぜだか、少しだけ胸がざわついた。


 ふと、窓の外で風鈴がひとつ鳴った。


 夕陽に染まったその音は、ふたりの時間にそっと輪郭を与えるように、教室の空気に溶けていった。


 **

 

 音が、過去を連れてくる。

 

 でもそのぶん、現在がどんどん遠のいていくようだった。

 

 **


 ある日、俺はふと、スマホの画面を見て違和感を覚えた。

 ─親友に送ったメッセージが、既読にならないだけじゃない。通知も一切ない。誰からも。

 電波はある。充電も切れていないのに─世界から、切り離されたような静けさだった。

 気になって、学校の連絡グループを見返す。

 

 ─更新は一年前で止まってる。

 

 此の妙な静けさに、怖いという感覚よりも、それを受け入れつつある自分がいた。

 むしろ、アユに会えるなら、全てを手放しても構わない。

 そんな気持ちが、少しずつ、心の奥で膨らんでいった。


 **

 アユとの夏祭りの思い出がよみがえった翌晩。

 俺は送り堂に赴いた。

 なんとなく、この違和感について、アユばあなら、知ってる気がしたから。


 その日の風は、いつもよりもずっとやわらかく、ぬるくて、どこか優しい。


 灯りを落とした送り堂の縁側に座っていると、風の流れと一緒に、日中のざわめきまでもがどこか遠くへ運ばれていくような気がした。


 その晩の空は曇っていて、星は見えなかった。


 でも、風はよく通っていた。高く、そして静かに、堂の吹き抜けから空へと昇っていく。


 俺はポケットに忍ばせていた風鈴を、何度も手のひらの中で転がしていた。ガラスの舌が、小さく触れ合って、音にもならないほどの音を立てる。


 隣に座るアユばあは、縁側に両手をつき、風の音を聞いているようだった。白髪が風に揺れ、彼女の横顔が、ほんのわずかに月明かりに照らされる。


 そして、アユばあがぽつりと言った。


 「……だんだん、音が薄うなってきとる」


 その言葉は、まるで風の中からふと取り出されたように、静かに耳に入ってきた。


 「音……?」


 聞き返そうとしたけれど、俺の声は風の音にまぎれて、うまく響かない。


 アユばあは、俺の方を見ないまま言葉を継いだ。


 「風鈴が鳴る音……それは、“輪郭”じゃ」


 「……輪郭?」


 「そう。音は、境目じゃ。記憶と現実、過去と今、ここにいる自分と、いなくなった誰か……全部を、わけとるものじゃ」


 「それが……薄くなってるってこと?」


 「そういうことじゃ」


 アユばあはようやく俺の方を見た。その目は、どこか寂しげで、でも温かかった。


 「音が薄うなったらな、自分の居場所がわからんようになる」


 「……」


 「ここがどこで、自分が誰で、何を思ってたのか、ぜんぶな─風に紛れてしまう」


 俺は手のひらの中の風鈴を、そっと握りしめた。ガラス越しに、少しだけ指先が冷えた。


 「……でも、アユの声が聞こえるんです」


 「そうじゃろうな。あの子は─強い子じゃ。」


 「逆風鈴の音を聞くたびに、思い出すんです。昔のこと。アユが言ってたこと、笑ってた顔……」


 「風鈴はな、“逆さ”になることで、記憶を呼び戻す」


 「風送りの風鈴は本来、“忘れるため”のもの。けど逆風鈴は、“忘れないため”のもんじゃ。」


忘れることよりも、忘れないことを。過去よりも、今ここにある記憶を─。


 「アユは……俺の中に、いるんです。いなくなってなんか、いない」


 「そう思いたいじゃろう。それが“記憶”の怖いとこじゃ。あるように見えて、どこにもない。けど、ないようでいて、たしかにある」


 堂の奥から、風がひと筋、吹き抜けていく。


 吊るされた風鈴が、ひとつだけ、静かに音を鳴らした。


 チリン─。


 それは、まるでアユの声だった。


 記憶の奥の、柔らかな部分に、そっと触れてくる。


 「……でも、その音が、俺の中で響いてるってことは、まだ“ここ”にいるってことですよね」


 「おるよ」


 アユばあは迷いなく、そう言った。


 「風はな、記憶を運ぶだけじゃない。“声”も、“願い”も、“存在”さえも運ぶんよ」


 「……存在」


 「そう。あの子も、あんたも。ここに“いた”もんは、風がちゃんと、覚えていてくれる。送り堂に来た人の想いは、ぜんぶ風に還って、町に溶けていく」


 俺は、ふと辺りを見回した。


 小さな木の板間。積み上げられた風鈴の材料。柱にかけられた風受け。堂のどこを見ても、確かに“想い”が詰まっていた。


 「……でも、俺、最近“昼”のことが、あんまり思い出せなくて」


 「それは─"歪み"が生じておるからじゃなぁ」


 「歪み……?」


 「風にのせる想いが、風に込めた想いが、前を向いたとき、歪みが生じるんじゃ」


 アユばあの言葉は、風鈴の音よりも静かに、深く胸に沈んでいく。


 俺はゆっくりと立ち上がった。


 「……アユに、会いたいんです」


 「じゃあ、音を聴きなさい。音があれば、そこに風がある。風があるなら、想いもきっと、あるけえ」


 アユばあの手が、俺の肩にそっとふれた。


 「音が、消えたときが、別れじゃない。音が鳴ったときこそ、出会いの始まりじゃよ」


 その言葉に、俺はゆっくりと頷いた。


 そして風が吹いた。俺の輪郭を、ほんのわずかに溶かしながら。


 **


 その夜もまた、送り堂から帰る、坂の途中で逆風鈴が鳴った。

 逆風鈴の音は、以前よりも少し、濁っているように思えた。


 「私が……●■××」

 

 アユの声にならない声が、脳内に流れ込む。

 この風鈴の音を聞くたびに曖昧になっていく現実での記憶。

 それに俺も薄々気づいていた。

 でも、逆風鈴の音を聞くたび、アユに会える気がするから。

 確かに、そこに“いた”感覚があるから。

 

 ─俺は……。

 

 次第に、あの音は─俺の“心音”のように、欠かせないものになっていた。


 坂を登る風が、今日も、俺の頬をなでた。

 その風の中に、声があった。


 ─ねえ、まだ、ここにいるの?


 まるで俺の心臓の鼓動を模倣するかのように、一定の間隔で鳴るその音は、胸の奥底に沈んだ記憶の層を、ひとつひとつ掘り起こしてくる。


 あの夏の日。

 あの空の色。

 あの笑い声。


 そして─アユの手。


 **


 ─中学三年、夏休みの最後の日。


 午後の空はどこまでも青く、入道雲がゆっくりと形を変えていた。蝉の声が波のように遠ざかったり近づいたりして、耳にまとわりついている。


 「……おーい、こっち!」


 アユの声が、土手の向こうから飛んできた。


 堤防沿いの草むらに座っていた俺は、彼女の姿を見つけてゆっくりと立ち上がる。


 彼女は、小さな風車を手にしていた。くるくると風に揺れているそれは、見た目よりもずっと繊細に回っていて、その動きが妙に目を引いた。


 「風がね、こっちのほうが、やさしいの!」


 そう言って、近くまで歩み寄った俺に、アユは風車を俺に差し出した。


 「ほら、耳すませてみて。風の音、ちょっと違うから」


 言われるままに、俺は風車を額の横に近づけて、静かに耳を澄ませた。


 ……ざぁ……


 草を撫でる風が、まるで息をしているように、一定のリズムで通り抜けていく。


 アユは地面にしゃがみこみ、風車を地面すれすれに近づけて遊んでいた。その横顔を見ながら、俺はなんとなく口を開く。


 「なあ、アユ。夏、終わっちゃうな」


 「……うん。でもさ、夏が終わると、風が“思い出す”んだって」


 「思い出す?」


 「うん。春の風は“始まり”の匂いで、夏の風は“今ここ”って感じでしょ。でも、秋の風って新しい私たちをお出迎えしてくれてるんだって。」


 風を見ていた彼女の目が、ふいに俺のほうを向いた。


 「だから、夏が終わるのは少しさみしいけど、思い出が風になってくれるなら─いいかもって思う」

 

 俺はその言葉の意味を、当時はうまく飲み込めなかった。ただ、彼女の目の奥に浮かんでいた一瞬の影を、今でもはっきり覚えている。


 それが、アユという存在の根っこにある“透明なさみしさ”だったんじゃないかと、今なら思える。


 **


 ─現実。


 気づけば俺は、逆風鈴の前から一歩も動けずにいた。


 手のひらに微かに汗がにじむ。目の奥がじんわり熱を帯びてくる。


 風は吹いていないのに、風鈴は鳴っていた。


 まるで“記憶”が音を鳴らしているかのように。


 その瞬間、自分がどこにいるのか、なぜここに立っているのか、その境界がふわりと溶けかけていた。

 

 ─チリン。


 もう1つ、記憶の断片が剥がれる。


 *

 

 ─高校一年、梅雨の終わり。


 下校の途中、ぽつぽつと降り出した雨に、ふたりで駅舎に逃げ込んだ。


 「……雨、嫌いじゃないけど、今日はちょっと困るね」


 そう言ってアユは、濡れた制服の裾を少しだけ絞った。


 「学校が傘、貸してくれりゃいいのに。天気予報当たんないな」


 「でも……」


 「でも?」


 「ちょっとだけ、うれしかったかも」


 「なんでだよ」


 「だって……ふたりでこうやって、雨宿りできるじゃん」


 冗談めかして笑ったその声に、鼓動がひとつだけ跳ねたのを覚えている。


 アユの横顔は、雨に濡れてほんの少し儚げだった。


 「雨、音が近いよね」


 「音?」


 「うん。屋根を叩く音、風が揺らす音、足元の水たまりに跳ねる音。なんか全部、すぐそばにある感じがする」


 彼女は耳をすませるように目を閉じた。


 「“すぐそば”の音って、記憶に残るんだよ。たぶん、心に直接届くから」


 それは、後になって思い出せば思い出すほど、“今”の俺の状況そのものだった。


 アユの言葉通り、今の俺には“近すぎる音”ばかりが聞こえる。


 夏虫の鳴き声も、夜になく鳥の声も、もう聞こえない。


 聞こえるのは─この坂の音だけ。


 風の音と、風鈴の音と、そして、記憶の中にいる彼女の声だけ。


 **


 夜風が、頬を撫でる。


 思考の輪郭が揺らぐ。


 日付の感覚が曖昧になっていく。


 “いま”の記憶が、過去に飲み込まれはじめていた。


 現実の重さよりも、記憶の濃さが勝っている。そんな瞬間が増えてきた。


 今日、自分は誰かと話したか?


 何を食べたか?


 どこまで歩いたのか?


 ……そのすべてが、●●×■×▲


 でも、アユの声は……思い出せる。


 その笑顔も、風の音も、あの日の風景も。


 **

 

 目が覚めたとき、朝だった。


 ─はずなのに、空の色が定まらない。


 カーテンの隙間から差し込む光は、どこか古びていて、まるで過去の朝をそのまま引っ張り出してきたような鈍い金色をしていた。


 宿の天井をぼんやりと見つめたまま、俺は何度か瞬きをする。


 昨日、俺は何をしたんだ?


 アユの声を聞いた。坂を歩いた。風鈴の音を聞いた。


 ─それは“昨日”だったのか?


 あるいは、一昨日? そのまた前?


 いや、すべてが一続きの時間に思えてくる。時間というレールの上を歩いているつもりが、気づけばその線が輪を描いて、自分の足元に戻ってきているような錯覚。


 そしてもうひとつ、決定的なことに気づく。


 スマホの画面が─真っ白になっていた。


 電源は入っている。明るさもある。通知音も鳴るのに、何も映らない。


 まるで、“今”という情報だけが、端末の中からごっそりと削ぎ落とされたかのようだった。


 俺は立ち上がり、窓を開ける。


 風が、ふっと入り込む。


 そして、その瞬間─風鈴の音が、どこからともなく響いた。


 

 ─チリン。


 

 それは遠くから流れてきたのではない。


 風とともに“内部から響いた”ようにすら思えた。


 そう、それはもはや風鈴の音ではないのかもしれない。


 記憶そのものが鳴らしている、音の“幻声”。


 けれど確かに、その音が鳴るたびに、俺の中に何かが呼び覚まされていく。


 *

 

 ─高校二年の夏。


 図書室の窓際。アユが、読みかけの文庫本のページを指でしおりのように押さえながら、ぽつりと呟いた。


 「ねえ、風って、どこから来てどこに行くんだと思う?」


 「は?」


 「この町に吹いてくる風。毎年同じようで、でも、きっと違う風だよね。でも、風鈴の音は同じなんだ。変わらない音が、違う風に鳴らされてる」


 「哲学かよ」


 「そうかも。でも、ずっと不思議だったんだよね。音って、誰のために鳴ってるのかなって」


 俺は何も答えられなかった。ただ、その時の空気だけが鮮やかによみがえる。


 彼女の指先に触れていた本のタイトルも、俺の左手にあった栞の感触も、全部、風の中から立ち上ってくるように思い出される。


 逆風鈴が鳴るたびに、呼ばれるように。


 まるでそこに、自分の存在の証が残っているかのように。


 ある時は、風の向きが唐突に変わる。


 またある時は、道端の看板のフォントが、昔見たままのものに変わっている。


 時計の針が逆に動く。


 風鈴がひとりでに鳴り出す。


 逆風鈴の音が、現実の構造をひとつひとつ、剥がしていく。


 チリン─。


 逆風鈴が、またひとつ音を鳴らした。


 現実と記憶の境界が、完全に滲んでいく。


 **


 翌日?


 午後の風が、町をかすめていく。


 夏の終わりを予感させるその風は、まだ涼しさというには少し早い、けれど暑さを責めるような重たさはなく、どこか名残惜しげに頬を撫でて通り過ぎる。


 俺は、風鈴坂町の西側にある池のほとりへ足を運んでいた。


 町の人たちもあまり来ない、ひっそりとしたその場所は、昼でも蝉の声が響きすぎず、木々のざわめきと水面の揺らぎが静かに交じり合う、まるで時の流れが緩やかになるような空間だった。


 水辺に座ると、空の青が水に溶けて揺れていた。


 ひとすじの雲が、その中を滑るように動いている。


 ……いや、動いているのは空か。水面か。あるいは俺自身か。


 そんな感覚のあやふやさが、このところ増えている。けれどそれを怖いとは思わなかった。


 ただ、その“ぼやけ”の中に身を置いていると、少しだけ呼吸が楽になる気がした。



 ─アユが好きだった、あの景色を思い出していた。


 

 春に訪れたとき、桜が一斉に咲き誇っていたこの池のほとり。


 アユは、池の真ん中にある小さな島を指差して言った。


 「ねえ、あそこってさ、行けないのに、ずっとそこにあるよね。なんか……そういうの、いいなって思うの」


 「なにが?」


 「触れられないもの。届かないもの。でも確かに“ある”ものって、尊い気がする」


 その言葉は、今になって妙に胸に響く。


 届かないのに、確かにそこにあるもの──。


 まるで、俺自身のことみたいだと思った。


 


 俺は池の近くのベンチに腰を下ろし、ゆっくりと目を閉じる。


 風の音。葉擦れの音。水面が軽くぶつかり合う音。


 すべてが、ひとつの“層”になって、身体に沁み込んでくる。


 耳をすませば、町の息遣いが聞こえる気がした。

 

 池の畔を離れ、石畳の商店街へ向かう。


 道端に咲いた昼顔の群れが、少しだけしぼみかけている。夕暮れの気配が街に降りてきていた。陽はまだ沈んでいないのに、空の輪郭がどこかあいまいで、坂の影がやけに長く伸びている。


 遠くで風鈴が一度だけ鳴った。


 けれどそれは、逆風鈴の音とは違っていた。もっと軽やかで、明るくて、日差しの中を揺れる洗濯物のように、空気に溶けていく。

 

 ただ歩く。


 そうしている間にも、町の景色はゆっくりと、しかし確実に“変わって”いた。


 古い郵便ポストの色が、くすみがかった赤色に変わっていたり。


 坂の途中にあるはずの電柱が、次に目をやったときには別の場所に移動していたり。


 あるいは、花壇の縁に置かれていたはずのガーデンライトが、いつのまにか蝋燭に変わっていたり。


 どれもこれも、小さな変化だ。けれど、見過ごせない。そういった“些細な歪み”が、日常の縁に少しずつほつれを作っていく。


 まるで、町そのものが、記憶という織物に縫い直されているようだった。


 

 そんな時、

 

 ─ザザッ。


 足元の小石を蹴ってしまい、靴音が石畳に反響した。


 その音に驚いたように、近くの木の枝から一羽の鳥が飛び立つ。藍に沈む空へ、小さな弧を描いて消えていく。


 なぜかその羽音すら、記憶の断片に聞こえた。


 音というものは、風に乗って届くものだけではない。


 風が生み出すすべての揺らぎ─羽音、葉擦れ、足音、それらすべてが、記憶の中に吸い込まれていく。


 石畳をほのかに赤く染める商店街へと足を踏み入れる。


 商店街を何となく歩く中で、


 風待ち喫茶の前を通り過ぎたとき、扉が半分だけ開いていた。


 俺の足は自然と店の方へと向かっていた。


 ガラス戸を押すと、小さな鈴の音が鳴る。


 中には誰もいなかった。けれど、そこには確かに“誰かがいた痕跡”が残っていた。


 湯気の残るカップ。


 開きかけのメモ帳。


 椅子に掛けられた、グレーのカーディガン。


 全部が、そのままの姿で止まっている。


 俺は席に腰を下ろした。すると、カップから立ちのぼる湯気が、ふっと風に溶けるように消えていった。


 まるで誰かがそこに座っていた記憶の温度を、そのまま感じ取ってしまったような─そんな錯覚。


 声に出してみたけれど、返事はない。


 ただ、テーブルに置かれたメモ帳の端が、風にめくれた。


 そこにはこう記されていた。



 ─「また、あの音が聞こえたら、帰ってこよう。」


 

 その言葉に、俺の胸に、ひとつ鳴った。


 チリン─。


 なにか、言葉にできないような奇妙な感覚。


 咄嗟に外へ飛び出ると、町の空気が少しだけ変わっていた。


 さっきまでと同じ景色のはずなのに、すこし匂いが違う。


 花の香りに、どこか潮のような、懐かしいにおいが混じっている。


 それがどこから来るものなのか、俺にはわからない。


 けれど、確かに“この町の中にあるもの”だということだけは、肌で感じていた。


 ─風が、吹いた。


 その風は、言葉にはならない問いかけのようで、


 俺はただ静かに、坂の上へと歩を進める。


 足元を照らす街灯の光が、石畳にやわらかく落ちていた。薄く湿った空気が足首にまとわりつき、まるで夜そのものが、地面から湧き上がってくるような感覚。


 風は、吹いていない。


 けれど、確かに空気の層が、わずかにずれている。


 何かが“始まりかけている”。そんな気配が、町の隅々にじんわりと広がっていた。

 

 ─キィ……。


 すれ違った誰かの自転車が、ブレーキをかけるときの軋み音がやけに耳に残る。


 ただ、それも一瞬で、また黄昏に吸い込まれていった。

 


 ふと、遠くから「わっしょい」というかけ声が、風に乗って微かに届いた。


 ああ、そうだ。


 今日は風鈴坂町の“子どもみこし”の日だった。


 


 夏の終わり、子どもたちが手作りの風鈴を乗せた小さなみこしを引いて、坂道を上っていく。


 子どもたちの短い足取りが、石畳を踏みしめるたびに、ちりん、と涼やかな音が揺れる。


 俺も昔アユと参加したのを覚えている。

 


 坂の下に目を向けると、ちょうどその風鈴みこしが姿を現した。


 先頭には白い半被を着た小学生たち。誰かの父親らしき大人が、後ろでロープを調整していた。


 「せーのっ……!」


 と、ひとりが叫び、小さな隊列が、夜の坂をゆっくりと登りはじめる。



 俺は、その様子を塀の影からそっと見つめた。


 どの顔にも見覚えはない。けれど、風鈴の音だけが、妙に懐かしく胸に届いてくる。


 チリン、チリン─。


 耳を澄ませるほどに、みこしの側面に取り付けられた風鈴の音は明瞭に響いた。


 どこかに似た音があった。坂の途中で、何度も聴いた音に─いや、それよりももっと前の、ずっと幼い記憶のなかに。

 


 風が吹く。思い出も、風に乗ってくる。



 みこしの隊列が、やがて坂の中腹に差し掛かるのが見える。


 俺はもう一度、目を閉じた。


 音が、ひとつ、またひとつ、重なってゆく。


 高い音、低い音、かすれた音、澄んだ音─どれも、誰かが忘れたくて風に託した記憶のかけら。


 そのひとつひとつが、夜の町を鳴らしながら、送り堂へと運ばれていく。


 「……音が、少し違うな」


 思わずそう呟いた。


 今年の風鈴の音は、妙に深い響きを持っている気がした。単なる音の重なりではなく、誰かの想いが染みついているような─そんな、音の“層”。


 ─そのときだった。


 カサ……と、背後で草の揺れる音がした。


 誰かの気配。


 ふり返ると、そこには、小さな女の子が立っていた。


 七歳か、八歳くらい。


 麦わら帽子に、ひまわり模様の浴衣。手には、金色の風鈴をひとつ、ぎゅっと握っていた。


 俺は、声をかけようとして、言葉を飲み込む。


 どこかで、見たことのある顔─。


 「……あの」


 少女が、ぽつりと口を開いた。


 「この風鈴、鳴らないんです」


 俺はその手元に目を落とした。


 風受けの紙が、ちぎれていた。だから風を受けても、舌が動かないのだ。


 「見せて」


 俺はしゃがみこみ、彼女から風鈴を受け取った。


 よく見ると、短冊には、幼い字でこう書かれていた。


 ─いなくならないで。


 その文字が、胸の奥をじくりと刺した。


 「直せるかもしれない」


 俺はそう言って、近くに落ちていた小枝を使って即席の風受けをつくり、紐に通して結んだ。


 簡易的だったけど、風を受ければ、音は鳴るはずだった。


 「これで……鳴るかも」


 少女は風鈴を受け取り、風にそっとかざした。



 チリン─。


 

 ほんの一瞬、かすかな音が響いた。


 少女の顔が、ふわりと笑顔にほどけた。


 「ありがとう、お兄ちゃん」


 「……おう」


 そう返した瞬間、風が、ふっと吹いた。


 少女の姿が─ぼやけた。


 気づけば、そこにはもう誰もいなかった。


 手のひらに残った感触だけが、確かにあった。


 ─いったい、あれは……誰だったんだろう。


 俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


 風鈴の音も、みこしの喧噪も、すでに遠くなっていた。


 そのかわりに─耳の奥で、小さな声がふいにこだまする。


 ─いなくならないで。


 あの少女の願いが、誰かの記憶に、きっといまも残っているのだろう。


 俺は坂の上を見上げる。


 仄かな風が、ゆるやかに頬をなでた。


 今この瞬間、自分が何者なのか─確かに、少しずつ分からなくなってきていた。


 けれど、風の中にある音だけは、なぜか、確かなものとして胸に残り続けていた。


 ─チリン。


 それはもう、どこかの風鈴の音ではなく、俺の内側から鳴っていた音だった。


 ─いなくならないで。


 その言葉の余韻が、妙に耳の奥に滲んでいく。

 

 俺はただ静かに、坂の上へ歩を進める。


 記憶は、静かに波紋のように広がっていく。


 けれどその中心は、どこか霞んでいて─言葉にならない“欠落”があることだけが、確かにわかった。


 「……なんでだ」


 声が、黄昏の空気に溶けていく。


 自分でも、誰に向けて発したのかわからなかった。


 風が通り抜け、周囲の音が一瞬だけ凪いだ。


 静けさの中で、黄昏に沈む町の匂いが、ふいに濃くなる。


 ─潮と、夕風と、少し焦げた綿菓子の匂い。


 そして、それに混じって、どこかで嗅いだことのある─柑橘系の柔らかな香りが鼻先をかすめた。


 アユの、髪の匂いだった。



 目を閉じる。


 視界の代わりに、音と匂いが記憶の中を満たしていく。


 ─すぐそこに、アユがいる気がする。



 「……っ」


 気づけば、手が震えていた。


 どこかで触れた、あの小さな手の感触が、まだ皮膚の奥に残っていた。


 胸の中で風鈴の音が鳴る。


 俺の中で鳴っているその音は、今や風によって鳴らされているのではなかった。



 やがて、坂の上に差し掛かったとき─俺の視界の端に、灯りが揺れた。


 それは、毎日の様に足を運んでいた空き家の中から、漏れ出していた。


 昨日まではなかったはずの灯り。



 ─けれど、どこか懐かしい気がする。



 小屋の前まで来て、俺はそっと扉を押した。


 ギィ─という金属の軋む音とともに、冷たい空気が頬を撫でる。


 中には、小さな風鈴がいくつも吊るされていた。


 天井から、床から、棚の間から、いたるところに。


 それらが微かに、ほとんど聞き取れないほどの音で、鳴っていた。


 ─耳ではなく、皮膚で感じるような、気配。


 風の流れがないはずの室内で、それでも風鈴は確かに音を立てていた。


 


 壁の奥に、一枚の和紙が貼られていた。


 文字はすでに滲んでいて、読めない。


 けれど、墨の筆跡にだけ─不思議と、見覚えがあった。


 ─アユの字。


 言葉ではなく、“手の動き”として思い出されるような─そんな不思議な感覚だった。


 その瞬間。


 ひとつの風鈴が、ひときわ澄んだ音を鳴らした。



 チリン─。

 


 音に導かれるように、足が自然と前に出た。


 気がつくと、俺は小屋の奥、ひとつだけ別格の位置に吊るされていた風鈴の前に立っていた。


 それは、逆風鈴ではなかった。


 普通の風鈴─けれど、短冊には、こう書かれていた。


 

 ─「帰り道の途中、君が見上げた星の名前を、まだ知らない」



 その文字を見た瞬間、視界がふっと揺れた。


 目の奥に、星空の映像が流れ込んできた。

 


 *


 ─帰り道、アユと見上げた夜空。


 校門を出て、いつもより少し遠回りした帰り道だった。


 夏の終わりにしては少し肌寒くなりはじめた風が、制服の袖口をそっとくすぐるように吹いていた。


 空にはまだ薄い雲がひとかけら残っていたけれど、それが風に流されていくにつれて、群青のキャンバスがじわじわと広がっていった。


 「ねぇ、ちょっとだけ寄り道しない?」


 アユがそう言って、堤防の上の道へと俺を引っ張った。


 海は夜の帳にすっかり包まれていて、波の音だけがかすかに届いていた。視界の端に灯る港の明かりと、堤防の鉄柵の隙間から見える黒い水面。その向こうに、ちらちらと星が滲んでいた。


 「わ、見て。今日はちゃんと見えるかも」


 アユは鞄を足元に置いて、堤防のへりに腰を下ろした。俺もその隣に座る。アスファルトは昼間の熱をまだ少しだけ残していて、ほんのりと温かかった。


 「ほら、あそこ。3つ並んでるのがわかる?」


 空を指さすアユの指先が、細く震えていた。けれどそれは寒さのせいではなく、どこか興奮にも似た気配だった。


 「うん、見える。……アルタイル?」


 そう言った瞬間、彼女がこちらを振り返った。


 「え、すごい。よく知ってたね」


 「いや、なんとなく。ベガと、アルタイルと……デネブ、だっけ」


 「うん、そう。夏の大三角。天の川をはさんで、ベガとアルタイルは離れてるんだよ。─年に一度しか会えないんだって」


 「……七夕、か」


 「でも、空の上じゃ、どうなんだろうね。本当は毎日見えてたりして」


 そう言って、アユはまた空を見上げる。


 その横顔は、月のない夜にあってなお、ほんのりと光を宿していた。頬が星明かりに淡く照らされ、目の奥で星がひとつ、瞬いたように見えた。


 「こうして見ると、空って、思ったより近いんだね」


 「近い、か?」


 「うん。星が……手を伸ばしたら、届きそうな気がする。──でも届かないって、分かってるのが、ちょっとだけ切ないね」


 その言葉が、なぜだか胸の奥に残った。


 静かに、穏やかに。


 でも、確かに“何か”を触れさせてくるような、そんな言葉だった。


 「……じゃあさ」


 「ん?」


 「来年も、また見ような。夏の空。─この場所で」


 アユは、少し驚いたように俺の顔を見た。それから、ふっと柔らかく笑った。


 「うん。絶対」


 星空の下で交わした約束。それは、小指も言葉も交わさなかったけれど、何よりも確かで、心に強く残るものだった。


 その夜の星空は、どこまでも澄んでいて。


 ひとつ、またひとつ、夜空に明かりが灯るたびに、俺たちの声も、心も、風に乗って夜の海へと吸い込まれていくようだった。


 ─忘れたくなかった。


 いや、きっと、アユもそうだったんだ。


 この風鈴の短冊にその夜のことを書いたのは、偶然なんかじゃない。


 「帰り道の途中、君が見上げた星の名前を、まだ知らない」


 ―その言葉に込められていたのは、あのとき言えなかった、もうひとつの“好き”だったのかもしれない。




 その瞬間、風が小屋の中を一巡りした。


 全ての風鈴が、一斉に揺れた。


 そして、俺の中の何かが─ほどけた。


 


 ─それは、アユが、忘れたくなかった一夜だったのかもしれない。


 不思議と温かい気持ちになり、踵を返す。


 小屋を出ると、夜空は一面の星だった。


 さっきまで、赤色の美しいグラデーションだった空。



 俺は、歩き出す。


 坂を、ゆっくりと。


 まるで、もう二度と戻れない時間の上を歩くように。


 坂の上の町は、どこか遠くの景色のように、静かに広がっていた。


 遠く、港の方からかすかな灯りが揺れていた。漁の明かりではない。提灯だ。細く連なった光の帯が、夜風にたなびくように、山のふもとをゆっくりと這っている。


 ─もうすぐ、風送りの終わりが来る。


 風鈴坂町の一年で、最も大きな祭り。


 記憶を風に返すための「送りの日」が近づくと、町はその前夜と前々夜に、静かな祝祭を行う風習がある。


 昔は、送り堂の前で篝火を焚いて、集まった人々がそれぞれの風鈴の音を聴きながら別れの言葉を唱えていたという。けれど、今ではもう少し賑やかで─いや、それでもどこか、哀しみに似た静けさが宿る祭りだった。


 俺は、夜の坂を下りながら、風の音に耳を澄ませる。


 星が降るように空を埋め尽くしていて、それだけで涙が出そうなほど美しい夜だった。


 そして、その美しさの奥で、何かが終わろうとしている─そんな予感があった。


 **


 翌日、朝の光は淡かった。


 宿の窓から見える町は、いつになくざわめいていた。


 通りには子どもたちの笑い声が響き、商店街の前には屋台の骨組みが立ち並びはじめていた。カラフルな幕と提灯が風に揺れて、夏の終わりを名残惜しむように鮮やかに踊っている。


 この祭りには、もう何度も参加した記憶がある。


 ─けれど、それは本当に“自分の記憶”だっただろうか。


 祭りの準備をする町の人々の顔に、どこか既視感がある。


 「……今年も、始まるんだな」


 そう呟いた声だけが、風に紛れて消えていく。


 そのとき、どこからか風鈴の音が響いた。


 それはもう、坂の上からではなかった。町の至るところで、風が風鈴を鳴らしていた。


 ─音が、呼んでいる。

 


 宿を出たのは、まだ午前の風が涼しかった頃だった。

 

 宿帳を戻し、引き戸をそっと閉めると、町の空気がすでにざわついているのがわかった。どこかで太鼓の音が鳴り始めている。


 もうすぐで、風送り祭坂町が始まる。

 町が、一年でいちばん賑やかになる日だ。

 通りには、すでに屋台の支度を始めている人たちがいて、揚げ物の匂いと、朝顔の鉢を並べる音が混じっている。

 まだ本格的に始まっていないのに、それでも町全体が軽く浮いているような、そんな雰囲気があった。


 石畳を踏みしめながら坂を下っていくと、軒先に色とりどりの風鈴が吊るされているのが見えてくる。

 風はまだ弱いけれど、時おり吹くたびに、小さな音が連なって、まるで町全体が静かに息をしているようだった。


 途中、朝市の屋台が開いていて、焼きとうもろこしの香ばしい香りにふと足が止まった。

 列に並んで一本買い、ベンチでかじる。

 口の中に広がる甘みと、皮の焦げの苦みが夏の味だった。

 心地よい喧騒の中、一人夏をかみしめた。


**

 

 正午にかけて、陽が少し高くなってくると、町はさらに騒がしくなってきた。

 神楽舞の準備をしている子供たちが、法被を揃えて神社前で並んでいるのが見える。

 路地裏からは和太鼓の練習の音。近所の老人たちが水打ちをしながら、「今年は風が遅いね」と笑っている。


 商店街の一角では、小さな金魚すくいの屋台が開いていた。

 昔、アユとここで勝負したことがある。結局、二人とも一匹もすくえなくて二人で笑いあったこともあった。

 そんな記憶が、通り過ぎる風と一緒に、また胸の奥をくすぐってくる。


 気づけば、昼をすこし過ぎていた。日差しが傾き始め、町の色がじわりと柔らかくなる。

 まだ祭の本番はこれから。けれどこの町は、もうすでに“何か”を送り始めている。そんな気がした。


 **


 昼を過ぎて、坂のふもとの公園では子供たちが神輿の練習をしていた。


 先日見たあの少女の姿はなかったけれど、どこかでまた出会えるような気がした。


 「せーのっ!わっしょい!」


 声が空に弾ける。


 小さな肩で担がれた木の神輿の上には、風鈴がひとつ、吊るされていた。


 大人たちの誰かの悪戯か、それとも子どもたちが何も知らずにやったのか。その音だけが、澄んで、少しだけ切なかった。


 俺は足を止め、そっとその音に耳を澄ます。


 ─チリン。


 それは、確かに“記憶”の音だった。


 午後になると、町中に太鼓の音が響き始めた。


 坂の下に設けられた仮設舞台には、太鼓の演奏者たちが揃い、練習を始めていた。打ち鳴らされる音の合間に、風の流れが混じり、まるで音そのものが風に運ばれていくかのようだった。


 広場の周囲には屋台が立ち並び始め、りんご飴や焼きとうもろこしの甘い香りが漂う。


 でも、どれもが“どこか遠く”で起きているような感覚があった。


 まるでガラス越しにこの町を見ているような、自分だけが、そこにいないような─。


 **


 夜が、近づく。


 提灯の灯りが灯され、町はゆっくりと、非日常の衣をまとい始める。


 俺は、その中を歩いていた。


 誰かの声が聞こえる気がするけど、俺に向けられることはない。


 でも、それでも、歩いていた。


 この町に吹く風の音だけは、今でも俺を呼んでくれている気がしたから。


 そして、その音の奥には、いつだって、アユの記憶があった。



 ─風送りの夜が近づいている。


 


 風鈴の音が、いつまでも耳の奥で鳴り続けていた。

 


 **


 夜の送り堂は、いつになく静かだった。


 町のざわめきは、もう遠くにある。南の海から吹き上がる風が、坂の下の提灯の灯りをかすかに揺らしていたが、この堂の中まで届く頃には、その力も、ただの優しい流れに変わっていた。


 白い麻の布をかけた作業台の前に座る。


 背筋はまっすぐに伸びているのに、どこか“時”そのものを背負っているようなその姿は、古い箪笥の引き出しのように、何重にも記憶をしまい込んでいるようだった。


 ─カラリ。


 風鈴の音が、ひとつだけ、低く鳴った。


 天井の梁から吊るされた無数の風鈴。その中でも一際古びた音をもつ、瑠璃色の風鈴が、灯の揺らぎに合わせて、小さく震えている。


 「……あぁ、今夜も吹いてきよったか」


 そう呟きながら、手元の薄紙に小筆を走らせていた。


 その筆跡は驚くほど達筆でありながら、どこか涙ぐんだ文字のように見える。

 紙には、人々が風に託した「忘れたい記憶」が記されていた。


 ─“あの日、あの人に言えなかった言葉を風に返します”


 ─“どうか、痛みだけでも置いていけますように”


 ─“この町で過ごした記憶を、そっと風に送ります”


 一つひとつの言葉に目を通すたび、指先がわずかに震える。


 「……ようけ、集まったのう。ことしは特に……」

 

 「……忘れたいもんは……全部、風に還る」


 その声は、誰に語りかけるでもない独り言だった。


 ─チリン。


 またひとつ、音が鳴った。


 風のない堂の中で、まるで“記憶”そのものが揺れているかのように。


 ひとつだけ、短冊の束とは別に取り分けていた風鈴を手に取った。


 それは、逆さに吊るされていた。


 風の流れを拒むように、あるいは、内側へ引き寄せるように。


 「……あの子が、こしらえた逆風鈴じゃ」


 その声は、ほとんど風に消え入るほどのものだったが、確かに堂の空間に漂った。


 「忘れたくないいうて……記憶を抱えこんで……。そのせいで、まだここに、おる」


 その風鈴を、そっと撫でる。


 目を閉じて、じっと、耳を澄ますように。


 「……うちには、見えるんじゃ。音の向こうに、漂う“かたち”が」


 沈黙。


 灯明の火が、ふっと揺れた。


 目を開けたまま、遠くを見る。


 「……けどな」


 その声は、少しだけかすれていた。


 「風送りが終わるまで……じゃな」


 どこかさみし気に、笑う。


 「じゃけんのう、せめて最後まで……よう吹く風に包んでやりたいんじゃ」


 短冊をもう一枚、手に取る。


 そこに書かれた文字をなぞるように目を細めた。


 「願いは、風に乗って、時を越える。……けど、それでも、風は“去るもの”じゃ」


 風鈴がひとつ、微かに揺れた。


 まるでその問いに応えるかのように。


 「……風送りまで、あと二日じゃ」


 「……それまでに、あんたが“なにを思うか”─それが、鍵になる」


 そう言って、作業に戻る。


 次々に束ねられた短冊を、一本一本、白木の骨に結わえていく。


 音もなく、静かに─けれど、その手つきには確かに祈りが宿っていた。 


 ─夜が、深まりつつあった。


 送り堂の中では、隙間戸から吹き込んだ風で蝋燭の火が揺れていた。


 送り堂の梁には、風鈴がいくつか、まるで夜の星のように浮かんでいた。


 どの風鈴も、小さくも確かな存在感を持ち、堂内で、時折かすかに鳴った。


 ──チリ。


 音が鳴るたび、彼女は手を止めて顔を上げる。


 そのたびに、何かを確かめるように目を細める。


 棚の奥から、薄紅の風受けを取り出す。


 その色は、かつてアユが好きだった浴衣の色に、どこか似ていた。


 「気づいたときには、もう……遅いんよ」


 風受けを広げ、針金にそっと通す。


 それを堂の中央に下がる太い紐に結びつけると、まるでそれが儀式の中のひとつの“区切り”のように、風鈴がひとつ、音を鳴らした。


 ─カラン。


 「うちが言えるのは、せめて、音が鳴っている間に、伝えたいもんはちゃんと伝えてしまわんとな」


 堂の奥には、ひときわ古びた風鈴が吊られている。


 それは、アユばあがまだ若かったころからここにあるものだ。

 

 この鈴が鳴るとき、風送りは終わる。


 すべての音が、記憶となり、風へと還る。


 そして─この町から、残滓が消える。


 アユばあは、その風鈴をじっと見つめた。


 そして、まるでその向こうに誰かの姿を見ているかのように、静かに語りかける。


 「……あんたは、ほんとに、ええ子じゃったよ」


 その声は震えてはいない。ただ、遠くを見つめるように、少しだけ滲んでいた。


 「じゃけぇこそ……。」

 

 彼女はふと視線を下ろし、自分の膝に置かれた風鈴の“舌”に触れる。


 「人の想いってのはな……風よりもしつこいけぇな。どれだけ時が経っても、ちいとやそっとじゃ消えてくれんのんよ」


 


 ─チリン。


 再び鳴る音が、堂の空気をふるわせた。


 「明後日、祭りの夜が終われば……」


 その言葉の節々には、祈るような、どこか安堵にも似た穏やかさがあった。


 「風が、ちゃんと運んでくれるけぇ。」

 

 そして、口元にかすかな笑みを浮かべた。


 「……どこにも行かんでもええ。風の中に、ちゃんと、残るんじゃけぇ」


 「この町は、風で出来とる」


 彼女は、誰に語るでもなく、独り言を続けた。


 「音で、記憶で、人の声で……風が吹くたび、全部が生きとるように感じる」


 「……だから、どうか。あの子が、ちゃんと“風の向こう”へ行けるように」


 


 その声に、誰も答えはしない。


 けれど─堂の中で、最後の風鈴が、小さく、確かに揺れた。


 ─チリ。


 


 そして、堂の奥から、ゆるやかに風が吹いた。


 まるで誰かが、静かに通り過ぎていったかのように。


 


 アユばあは、そっと目を閉じた。


 そして、口の中で、誰にも聞こえないほどの声でつぶやいた。


 「……まだ、おるんじゃろ? そこに」


 その言葉は、誰に宛てたものか分からなかった。


 けれど確かに、堂の中の空気が、ふっと柔らかく揺れた気がした。


 彼女はゆっくりと立ち上がる。


 背筋を伸ばして、まるで送り出すべき者を見送る準備が整ったかのように─堂の扉を静かに閉じた。


 外の夜は、まだ明けていなかった。


 だが、微かに潮の匂いを含んだ風が、坂を登ってきていた。


 


 ─あと、ふた晩。


 音が止むまでに、風が運んでくれるだろうか。


 記憶も、願いも、すべてを─。

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