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風が鳴く町で、君を想う。

─風が、町を通り抜ける。


 夜明け前。まだ世界が色を持たない時間。

 湿った石畳の上を、透明な風が滑っていった。

 細い路地の奥、坂道の途中、海辺へと続く道。

 町の隅々に、静かな音だけが満ちていく。


 それは、誰かが手放した願いだった。

 忘れたかったこと。

 忘れたくなかったこと。

 涙に濡れた言葉。

 震えるような祈り。

 それらはすべて、音もなく、風に還り、町に溶けていった。


 小さな祠に吊るされた風鈴が、かすかに震えた。

 それは声ではない。形のない思念が、夜の深い層を通り過ぎたとき、空気が微かに揺れただけだった。


 ─風送りの季節。


 町に暮らす者たちは、知っていた。

 記憶が、音に形を変え、町をさまようことを。


 そして。


 その"願い"のいくつかは─あまりに強く、あまりに深かった。


 風はそれらをすくい上げるように、そっと抱えた。

 誰にも見えないものを、そっと、そっと、運ぶ。


 静まり返った送り堂の境内。

 古びた木の階段。

 夜露に濡れた欄干。

 一列に吊るされた風鈴たちが、まだ名も持たぬ風に、ほんのわずかに触れて、音を鳴らした。


 ─チリン。


 小さな音。

 けれどその一音が、空間の隙間を満たしていく。

 音は波紋となり、目には見えない層を震わせる。


 やがて、空気のひだのような場所に、芽吹く。


 誰でもない、けれど、確かに「そこにいる」もの。

 ひとつの想い。ひとつの記憶。ひとつの声なき祈り。


 それらが、ただ"そこに在る"というだけのために、形を取った。


 名もなく、記憶もなく。

 けれど、ひどく懐かしいものとして。


 夜明け前の空は、まだ重たい群青色をしている。

 町の灯りが少しずつ消え、かわりに、遠くで鳥の声がかすかに滲みはじめる。


 目を閉じたまま、世界の輪郭を感じ取る。

 まだ言葉もない。意識もない。

 ただ─この場所に、確かに呼ばれたことだけを、深いところで知っている。


 遠くから、また風が渡ってきた。

 それは、誰かが「忘れたくない」と願った夏のにおいだった。

 濡れた土の匂い。潮風の匂い。冷たい夜の空気に溶けた、見えない涙の匂い。


 ─音が鳴った。


 チリン。


 かすかな音。

 それは、生まれたばかりの存在の胸の奥を、そっと揺らす。


 世界は、まだ始まっていない。

 だが、終わってもいなかった。


 坂の上、町の北側。

 そこに続く細い道を、風が一筋、駆け上がっていく。

 

 送り堂の前を通り、坂道をすべり、町をそっと巡っていく。

 誰かが「忘れたくない」と願った想いに、もう一度触れるための、ほんの短い旅。

 

 けれど、確かに、"ここにいる"。


 町は静かに夜を越え、やがて、風鈴坂町に新しい朝が訪れる。


 ─世界は、ゆっくりと明るみはじめていた。


 *

 

 俺は風の音が好きだ。

 セミの声も、風鈴の音も、カーテンが擦れる音も─。

 様々な姿の音が、暖かな日差しを孕んだ湿っぽい空気と共に、耳をなでる。

 一年ぶりに故郷、風鈴坂町に帰ってきた俺は、都会での喧騒を忘れていた。

 

「懐かしいな。」

 

 電車を降り、こぢんまりとした改札を抜ける。

 ICカードは使えず、窓口で切符に判を押してもらう。

 駅舎を出ると、目の前には小さなロータリーがあり、ベンチに座った中学生らしき二人がアイスを食べていた。道沿いには駄菓子屋のような店があり、少し色あせたガチャガチャが並んでいる。駅前の交番には、のんびりした顔の警官がひとり、扇子を仰いでいた。

 

 右手に進むと、すぐに踏切が見えてきた。警報機は古いタイプで、カンカンという音が少しだけ耳に残る。線路の向こうには、アユとよく遊んだ懐かしい景色が顔を覗かせていた。

 僕は立ち止まり、踏切の前で一度だけ深呼吸をした。風が少しだけ生ぬるい。

 

 遮断機が上がるのを待ってから、線路を渡った。


 俺は、風鈴坂へ向かって歩いていた。

 風鈴坂は風鈴坂町の由来にもなったなだらかな坂で、古民家がずらりと並ぶ。

 正に小京都のような様相を呈している。

 

 そんな坂へ向かう途中にある小さな踏切。

 

 ただ、線路を渡ったところで、ふと足を止める。

 一年前より、景色が少し明るく見えた。

 こんなに陽が差していたっけ、と一瞬思ったけど、理由はすぐにわかった。


 古びたベンチにかかっていた、あの青い日除けの布がない。

 風が吹くたびにばさばさ揺れてた、あれ。

 最後の記憶は大体一年位前のことだ。取り外しちゃったのかな、あまり気にも留めるようなことでもない。

 

 風鈴坂町は、東京からローカル線を乗り継いで5時間ほどかかる小さな町。

 当然電車の本数も少なく、一時間に一本あるかないか程度。

 踏切は、開店休業状態だ。

 

 風がひとつ、風鈴坂に向かって俺の後ろから勢いよく吹き抜ける。

 

 チリン。

 

 どこかの家に吊るされた風鈴が涼しげで、どこかはかない音を奏でる。

 

 風鈴坂町では、夏の終わりに「風おくり」がある。

 忘れたいことを風鈴に込め、その思いを風に託し、坂の上にある送り堂まで運んでもらう。

 そして、前向きに生きる、そのきっかけとする。

 そんな行事。

 

 そのため、この時期になると、家々の軒先や通りのあちこちに風鈴が吊るされる。

 誰が始めたのかはもう誰も知らない。

 代々、この町で「風の管理人」を務めている一族が、その催事を執り行っている。

 

 正直、此の催事を心の底から信じているわけじゃない。

 どれだけ風が吹いても、どれだけ風鈴が鳴っても、本当に忘れたい記憶だけはきっと、いつも胸の奥に沈んだままだ。

 でも、俺は今年こそ、”あの事”に関して心が軽くなればいい。前を向く、そのきっかけになればいい。

 そう思い、小さな風鈴を持ってきた。

 アユは、「風の管理人」の一族だった。

 今はアユのばあちゃんが当主だ。

 だから、アユのばあちゃんに頼んで、送り堂の軒先に俺の風鈴を吊るしてもらおうと思っていた。


 午後5時過ぎ。陽射しが少しだけ赤みを帯びて、町の輪郭が柔らかく滲みはじめる時間。

 坂のふもとまでは、十字路を曲がって20分ほど歩く。

 商店街を抜け、昔ながらの瓦屋根の並ぶ住宅地を通り、三叉路を右に行くと、海沿いの道に出る。

 そのあたりから、少しずつ風の匂いが変わってくる。

 潮の匂いと土の匂いが混ざって、夕方の気配を含んだ風が頬を撫でる。


 坂に向かう途中、小さな民家の前を通ると、縁側にひとりで座っている小学生くらいの女の子がいた。

 その軒先には、風に揺れる風鈴がひとつ、吊るされている。

 女の子はそれをじっと見つめていた。誰かを想っているような顔だった。

 

 ──風鈴の音は、この町の人にとって、祈りみたいなものなのかもしれないな。

 

 そう思いながら、坂へ歩みを進める。

 

 「……久しぶりだな、ここ通るの」


 自分の声が少し掠れている気がした。

 誰に言うでもない独り言だったけれど、少しだけ気が緩む。


 潮風を心地よく感じながら、細い路地を抜けて、旧商店街に出る。

 古びた看板が並ぶ道の両側に、色とりどりの風鈴が吊るされていた。

 どれも形は違うけれど、風が吹くたびに同じような、どこか懐かしい音を鳴らす。


 ふと、どこか懐かしい匂いが鼻先をかすめて、足が止まった。


 通りの左手、角にある和菓子屋。変わってない。木枠の引き戸、色褪せた赤い日除け、ガラス越しに並んだどら焼きの焼き色。

 アユはここのどら焼きが好きだった。というより、どら焼きの中でも、ここのじゃなきゃ駄目だと決めていた。

 

 「こし庵のはね、生地がふかふかで餡がちょっと塩気あるの。甘いのにさっぱりしてるの、最強」

 

 目を輝かせて語っていた彼女の横顔が、硝子に浮かぶようだった。

 

 その和菓子屋から、もう少し歩くと、古本屋がある。『風文堂』という、こちらも古いままの佇まい。ガラス越しに並ぶ背表紙はどれも色あせていて、昼の光を吸って鈍く光っていた。。

 

 古本屋の前に来ると、去年のままの文庫フェアのポスターが貼られていた。

 色褪せて、少しめくれたそのポスターには、アユが読みたいと言っていた本の名前が、まだ残っている。


 ──去年のまま、なんだ。

 

「そういや、まだいるのかな。」

 

 古本屋の少し先にある曲がり角、塀の上にはよくふてぶてしい白い猫が昼寝をしていたことを思い出す。

 アユとの思い出をたどるように、猫がいつも昼寝していた場所まで歩みを進めた。

 その古本屋の角を曲がるちょうど、そこに——いた。

 小さな灰色の猫。細い路地の影の中、塀の上で気怠そうに丸まっている。

 

「お前、まだここで寝てんの。」


 そう話しかけると、だるそうに首を上げ、こちらを一瞥した後、興味をなくしたように昼寝に戻った。

 

 坂へ向かって一陣の風が吹いた。

 俺の背を押し出すかのように。

 

 家屋に吊るされた色とりどりの風鈴が一斉に鳴り出す。金属の音、ガラスの音、陶器の音。

 何となく、自分のポケットに入れていた風鈴を取り出す。

 

 小ぶりで透明なガラスの風鈴。中の舌は淡い青色をしていて、風に吹かれるたびに、カラン、とかすかな音を立てる。

 アユの名前が、短冊に小さく書かれている。

 アユが小学生のころ、俺にプレゼントしてくれた風鈴だ。

 

 俺は去年、風おくりのときに吊るすはずだった。

 でも、どうしてもできなかった。

 

 「忘れたい記憶」は、この町では風に還せばいい。

 そうは言うけど、俺はまだ、アユとの記憶を風に還すことができずにいた。


 坂道が始まる地点に差しかかると、ふわっと風の通りが変わった。

 海側から吹いていた風が、坂を登る方向に向きを変える。

 送り堂のほうへ吹き上がるかのような風だ。

 それが、風鈴坂の不思議なところだった。


 この町では、風が“記憶を運ぶ”と言われている。

 そして坂の上にある送り堂には、その記憶が還っていく場所がある─。

 誰も見たことはないが、「風ノ層」と呼ばれる、目に見えない空間が。

 記憶は「風の管理人」によって、その層へと流され、やがて人々の意識から消えていく。


 ─やっぱり、この町は、少し変わっている。

 

 記憶が風になるというなら、いま俺が歩いているこの坂の風景も、誰かの記憶と共有しているんじゃないかとさえ思えてくる。


 坂へ向かって優しい風がまた吹いた。


 彼女の声が、聴こえた気がした。


 坂を登る足音が、静かに石畳を叩く。


 舗装がところどころ甘くなっているその道は、夏草の匂いと、木の塀から滲む古い家の香りに包まれていた。

 時折、軒先から水打ちされたばかりの石がひんやりと光り、夕陽がそれを鈍く照らしている。


 あちこちで、風鈴が涼し気な音色を奏でる。

 陶器のような、少し重たい音。軽やかに駆け抜ける涼しげな音。風が吹くたびに、様々な響きがゆるやかに伸びていく。


 ──アユは、温かい音が好きとか言ってたっけ。


 澄んだガラスの音より、土の匂いがするような、重たくて温かい音が好きだと言っていた。

 俺はいつも、音の違いなんて気にしたことがなかったけれど、

 彼女のとなりにいると、不思議と耳が繊細になっていた気がする。


 風がまたひとつ、坂を撫でていく。

 送られていく風。

 この風が、記憶を風ノ層へと運んでいくのだと思うと、歩く一歩ずつが意味を持ってくる。


 坂へ向かう途中、古い喫茶店の前に差しかかる。

 木製の看板に「風待ち珈琲」と手書きされた文字。

 窓の内側では年配の女性が、カウンター越しに誰かと笑って話していた。


 その光景は、去年と何も変わっていない。


 ─久々にお茶してこうかな。


 いや、今は日が落ちるまえに送り堂へ行くのが優先だ。

 

 自分に言い聞かせながら、止めた足を坂の上へと動かす。

 

 坂の上の空が、ゆっくりと橙に染まり始めていた。

 木の影が道の端に長く伸びて、闇に飲み込まれた風鈴は、それでもはかなげに揺れながら、想いを送り堂へと送らんとしていた。


 坂の傾斜はそれほど急ではない。

 けれど歩いていると、何故か心拍だけがほんの少し早くなる。

 昔からこの坂には、どこか心を揺らす何かがある気がしていた。


 そして、ふと坂の途中に、空き家になっている家を見つける。

 けれど、その軒先にも、誰かが逆に吊るした風鈴がひとつ揺れていた。

 

 風に吹かれ、音を鳴らす。


 思わず─視線が引き寄せられた。

 坂の途中、誰も使っていないはずの古びた軒先。

 そこに、ひとつだけ─奇妙な花柄の風鈴が、吊るされていた。


 しかし、それは

 普通の風鈴なら、鈴口は下を向いている。

 けれどそれは、まるで天地が逆転したかのように、鐘の口を空へ向け、逆さまに吊るされていた。

 しかも、ふわり、ふわりと、重力を忘れたように漂っていた。

 逆さに吊るされた風鈴は、音を鳴らすでもなく、ただそこにあった。

 でも、不思議と目が離せなかった。誰にも触れられない何かが、その器の中に封じられているようだった。


 ─チリン。


 小さな音が、湿った空気を震わせる。

 風はない。

 軒先の他の風鈴は、ぴたりと静止している。

 なのに、それだけが、まるで何かと呼応するように、ゆっくりと鳴った。


 ぞわりと、背筋を冷たいものが這った。


 これは─普通じゃない。


 ―昔、アユが言っていた。

 

「逆に吊るす風鈴があるんだよ」

 

「忘れたくない、大切な想いを封じるためのもの」

 

「逆さにすることで、風に流されないようにするんだって」

 

「風送りでは、忘れたいことは普通の風鈴に。でも……忘れたくないことは、この逆風鈴に封じるの」


 そう、たしか、あの日─。


 まだ子供だった俺たちは、坂の上で、しゃがみこんで遊んでいた。

アユは、風にたなびく短冊を見上げながら、小さな声で言った。

 

「ねえ、知ってる? 逆風鈴って、普通の人には吊るせないんだよ」

 

「え?」

 

「吊るせるのは、送り堂の軒先で、送り堂の管理人の家系の人だけ。」

「昔からの決まりなんだって。誰でも吊るせたら、想いが交じってしまうから」


 いたずらっぽく笑いながら、アユは俺に向かって指を立てた。


「それにね、普通に吊るすだけじゃだめなの」

 

「逆風鈴は、ちゃんと“記憶を結ぶ人”が、願いをこめて吊るさないと─音、鳴らないんだって」


「そんなの、ほんとにあるのかよ」


 俺が笑うと、アユはむくれた顔で言った。


「あるもん! だって、私、見たことあるもん!」


「見た?」


「うん。夜中、送り堂で。……あんまり言っちゃいけないんだけどね」


 アユの顔が、ちょっとだけ曇った。


「でも、すごくきれいだったよ。ふわふわ浮いててね、風もないのに鳴るの。

 誰かの、大事な想いが込められてるって、すぐ分かるの」


「風の層?でなってるんだって」


 ─チリン。


 現実に引き戻される。

 目の前の逆風鈴が、また、そっと揺れた。


 物理法則を超えて、風の層に呼応して鳴る音。

 重力すら忘れたかのように、宙に浮かぶそれは─まるで、過去と現在の狭間に存在するようだった。


 

 理解した。直感で。


 この音は、

 この存在は、

 この浮遊する小さな風鈴は─

 

 この町に古くから伝わる、

 送り堂にのみ許された、

 “記憶を封じるための風鈴”─

 つまり、本来なら送り堂にしか存在しないはずの、逆風鈴だということを。


 ならば、なぜここに?


 朽ちた空き家の軒先に、

 なぜ送り堂の秘密が、こんな形で現れているのか。


 答えは、どこにもなかった。


 ただ、心の奥にうっすらと広がる違和感だけが、

 心に滲んでいた。


 ふと、吊り下げられた短冊に目をやる。


 そこには、手書きの文字が、風に揺れていた。


 ─忘れたくない音。


 今、目の前に、確かに、


 ―存在して……?

 

 俺は一歩、近づいた。


 柔らかな風が、足元を撫でる。


 しかし、逆風鈴は揺れなかった。


 風を受けているはずなのに、びくりとも動かない。


 なのに、音だけが、鳴った。


 ─チリン。


 耳元で、ささやくように。


 耳に聞こえたわけじゃない。

 体の奥、心臓のすぐそばで鳴った気がした。


 


 震える指で、空なぞる。

 滲んだインクの筆跡に、覚えがあった。

 アユの─あの、やわらかく丸い字だ。


「……アユ……?」


 思わず、声が漏れた。


 違うだろ。

 だって─アユは。一年前、あの事故で─。


 あの日から、ずっと、アユはいない。


 じゃあ、どうして。

 どうして、ここに─彼女の“願い”があるんだ?


 ありえない。

 おかしい。

 だけど、確かに、そこに在る。


 まるで、俺に─「ここにいるよ」と言うために。

 


「忘れたくないって、なに?」


 昔、無邪気に聞いた俺に、アユはこう答えた。


「……誰かの笑った顔とか。声とか。いなくなっても、ちゃんと覚えていたいって思う気持ちとか」


 あのとき、まだ俺はその意味を、ちゃんとわかっていなかった。


 いま、ようやく─分かる。


 この逆風鈴は、ただの風鈴じゃない。

 ここに込められているのは、時間を超えてなお鳴り続ける─誰かの、想いそのものだ。


 ─チリン。


 もう一度、微かな音がほどけた。

 風が吹いたわけじゃない。

 それは、記憶が鳴らした音。


 俺の中に、確かに残っている、かつて交わした小さな約束たち。

 

「また来年も」

 

「忘れないでいようね」

 

 そんな、何気ないひとつひとつの瞬間が、いま、この音に姿を変えて、ここにある。


 気づけば、足元がふわりと軽くなっていた。

 俺は、しばらく、その場から動けなかった。


 ふわふわと揺れる逆風鈴は、どこまでも静かに、

 どこまでも切なく─青く澄み渡る空へ向かって、想いを鳴らし続けていた。


 ─きっと、アユはこうして、誰にも言えない願いを、逆風鈴に込めたんだ。

 

 ―確かに、あの日は風送りの前日だった。あの時だ。きっと。


 忘れたくない音。

 風に流されないように。

 何度も、何度でも、空に響かせるために。


 そして、いま─

 

 それを受け取ったのは、たしかに、俺だった。


 ─チリン。


 心のどこかが、また、ひとつ、震えた。


 忘れたい記憶だけが、風に還るわけじゃない。


 この逆風鈴は、さまざまな家の軒先に吊るされた風鈴とはまた違う音色を奏でていた。


 


 違和感を抱きながらも、一歩一歩、歩みを進める。



 坂を登りきると、町の音がひとつ、ふわりと遠のく。

 蝉の声も、通りの雑音も、ここまでくると不思議なほど小さくなる。

 代わりに、耳に入ってくるのは風の音だけだ。

 樹の葉を撫でる音、草を抜けて坂を下る音、風鈴がわずかに共鳴する音。


 送り堂の屋根が、夕焼けのなかに小さく見えてきた。

 あの丸みを帯びた、古い瓦の屋根。

 瓦の先端に絡まるツタが、夏の日差しをまとい、静かに命の輪郭を浮かび上がらせていた。


 子供の頃は、あそこがちょっとした“秘密基地”みたいに感じていた。

 祭りのとき以外は誰も近づかないような場所だったけれど、アユとふたりでよく忍び込んでは、

 中の木の床に寝転んで、風の音を聴いていた。


 ─アユ。


 彼女のことを思い出すたび、どうしても胸の奥がざわつく。

 風の音と一緒に、彼女の笑い声が混じっていた気がして、足を止めてしまいそうになる。


 送り堂の前に着く頃には、陽が沈みかけていた。

 堂の前には、大小さまざまな風鈴が吊るされている。

 どれも短冊が付いていて、それぞれの想いを風に揺らしている。


 ふと、その風鈴のなかに、俺の記憶にあるものとまったく同じ形をした風鈴があった。

 

 薄いガラスでできた、花柄の風鈴。

 舌の部分だけが深い緋色で、夕陽を受けて鈍く光っていた。


 ─あれは、アユにあげた風鈴だ。

 

 その風鈴は今、送り堂の縁側に、ひとつだけ他のものから離れて、逆さに吊るされていた。

 風が吹くとほかの音にまぎれず、ひとつだけ、低く、やわらかく鳴る。


 その音を聴いたとき、心が少しだけ、冷たくなった。


 ─まさか、あれも“送られた”のか?


 思わず視線を逸らす。

 気づかれたくないものに触れたような気がして、ポケットの中の風鈴を握りしめた。


 そのとき、送り堂の扉がゆっくりと音を立てて開いた。


 中から、年老いた女性がひとり、ゆっくりと姿を現した。

 背筋はまっすぐで、白髪を後ろで結い、淡い色の作務衣を着ている。


 「……アユばあ……」


 俺の声に気づいたのか、アユの祖母─アユばあは、静かにこちらへと歩み寄ってきた。


 「ずいぶんと、久しぶりじゃのう。」


 その声は、風に混じるような小ささで、けれど確かに胸に届いた。


 「よう来たねえ。……よぉ、よう来たよ」


 アユばあ─風の管理人は、俺の姿を見てもまったく驚かなかった。

 まるで、最初から来ることが分かっていたような顔で、ふわりと笑った。


 「あの事故から……もう一年になるかね?」


 「ええ……一年、ちょっとくらいです」


 「そうねぇ」


 言葉の合間に、風鈴の音が差し込んでくる。

 送り堂のまわりには無数の風鈴が吊るされていて、今はどれも、ちり……ちり……と、低く長く鳴っていた。


 「来た、ってことは─心、決まったんかね?」


 アユばあの問いかけに、俺は小さく頷いた。


 でも、その頷きはほんのわずかだった。

 本当に決まっていたのか、自分でもまだわからなかった。

 ただ、ここまで来たという事実だけが、背中を押していた。


 「……まだ、迷ってます。多分」


 「迷えるうちが、ええのよ。大事に思ってくれとるっちゅう証じゃけえ」


 そう言って、彼女は送り堂の板間に腰を下ろした。

 俺も靴を脱いで、縁側に腰掛ける。

 目の前に吊るされた風鈴たちは、それぞれの記憶を抱えたまま、夕風に鳴り続けていた。


 「アユの、風鈴が……あそこに……」


 言葉がのどをつっかえる。

 

 俺は縁側から見える、逆さに吊るされた一本の風鈴を指差す。

 花柄で、透明の外見に深い緋色の舌。淡い風に揺れ、あたたかな音を響かせている。


 「……ああ。あの子の、風鈴じゃ。」


 「アユの?」


 アユばあは優しく頷く。

 

 「……。」

 

 ポケットの中の風鈴もアユの想いに共鳴している気がして。

 想いを、確かにそこに感じた。


 アユばあは、少しだけ視線を逸らし、堂の奥へと目を向けた。

 そこには、風が通り抜ける吹き抜けの空間がある。

 柱の間にわずかな隙間があり、そこから高く吹き上がる風の気配があった。


 「……強い想いは、中々風に還せないものじゃけぇ。」

 

 なんとなく、その場で聞き返すことはできなかった。


 風がまた、ふっと吹いた。

 送り堂の中心を抜けて、まっすぐ空へ向かうような風。

 どこかで誰かの風鈴が鳴り、音が一筋の記憶になって、消えていく。


 俺はゆっくりとポケットに手を入れた。

 あの、アユの名前が書かれた短冊を揺らす、小さなガラスの風鈴。

 

 それでも、想いのかけらが、指先からほんの少しだけ伝わってくる気がした。


 「もうちょっとだけ……ここにいてもいいですか」


 「もちろん。音が鳴るまでは、誰もあんたを咎めたりはせんよ」


 アユばあはそう言って、そっと目を閉じた。


 風が流れていく。

 この町の空へ。風ノ層へ。誰かの記憶が、また今日も、音になって還っていく。


 ─そして俺は、その流れの中で、まだしばらく揺れていた。


 しばらく、ふたりで何も言わずに風の音を聴いていた。


 風が鳴らす音は、時に言葉よりも雄弁で、そして時に、何も語らないという優しさを持っている。


 目の前で揺れる風の音色が、そっと俺の頬をかすめた。

 まるで、誰かがそっと触れていったみたいな感触だった。

 アユもこの縁側に座って、同じように風を感じていたんだろうか。

 そんな想像が浮かんでは、胸の奥を静かに押し広げていった。


 送り堂の床板は、昔よりも少し軋むように感じる。

 きしり、と音がすると、アユばあが笑いながら「ここも年季が入ってきたねえ」と呟いた。

 その声もまた、どこかで風と混じって空へ消えていったようだった。


 堂の奥では、束ねられた風鈴の材料が積まれており、

 細い竹の骨組みや、染め紙の短冊。陶器の鈴。

 これらが音になるとき、人の想いが風に乗るのだと思うと、そこにあるすべてが、ただの“道具”ではないように感じる。


 「ここにいると、不思議と時間を忘れるというか、気が緩むというかゆるむんですよね」


 俺が呟くと、アユばあはうんうんと頷いた。


 「ここはな、風が“還ってくる”場所じゃけえ。時間も逆流するようなもんよ」


 「逆流……ですか」


 「風鈴が鳴るとき、思い出すことがあるじゃろ。昔のことや、忘れたと思ってた誰かの声。あれは、風が記憶を連れ戻しとるんよ。逆風鈴ちゅうもんが、まさにそれじゃ。忘れたくない記憶はな、風ノ層に還る前に、町の風の中に溶けて残るんよ」


 ─記憶が、町の中に残っていく。


 たしかに、そうかもしれない。

 町の角を曲がるたびに、路地の影に、軒先の鈴音に、町中にいる少女の視線に、“かつて誰かがここにいた”という違和感のようなものを、俺は何度も感じていた。


 それがアユの記憶だったのか、町の誰かのものだったのか、あるいはもうこの町を去って久しい、無数の名も知らぬ人々の記憶だったのか。


 ─でも、たしかに、ここには「いる」のだ。風に乗って、町に還元されている。


 その“存在”を確かめるように、俺はポケット取り出した風鈴を見つめる。

 夕暮れの光を透かして見えるガラスの中に、淡い青の舌がゆらりと揺れる。

 短冊に書かれたアユの名前を、そっと指でなぞった。


 「……鳴らせない、んです」


 俺の言葉に、アユばあはなにも言わなかった。

 ただ、静かに微笑みながら、堂の奥へと視線を向ける。


 そこには、“風ノ層”へと風が吹き抜けていく吹き抜けの空間がある。

 その先に何があるのかは、誰も見たことがない。

 けれど、風鈴坂の人々は皆、あの隙間の先には「なにか」があると、ずっと信じてきた。


 「音が、鳴ったときじゃ」


 アユばあが、ぽつりと呟いた。


 「音が鳴ったとき、人は少しだけ、救われる気がする。思い出に、風が吹くとき、その想いが昇っていくんよ。鳴らせないうちは、それでもええ。音が出せん記憶は、まだそこにおってもええんよ」


 その言葉に、少しだけ涙が込み上げそうになった。

 それでも、俺はなんとか堪えた。


 ─まだ、風に乗せることはできないけど。

 それでも、ここまで来て、風に触れて、アユの気配を感じて。

 少しだけ、歩き出せるような気がしていた。


 風がまたひとつ、堂の中を抜けていった。

 そのとき、誰かの風鈴が、小さな音を立てて鳴った。


 ─チリ。


 それは、俺の持つ風鈴ではなかった。

 けれど、どこかで誰かの想いが、確かに風に乗った音だった。


 俺はもうしばらく、ここにいようと思った。

 この音と風の中で、もう少しだけ、揺れていたかった。


 結局、その日は─風鈴を吊るすことができなかった。


 縁側に座ったまま、風と風鈴の音に揺られているうちに、夕闇は町を包み込んでいた。

 アユばあが用意してくれたお茶もすっかり冷めていたけれど、それを口に運ぶこともなく、ただ風を聴いていた。


 「帰るんかい」


 ふと、立ち上がった俺に、アユばあはそう問いかける。

 俺は風鈴を手のひらでそっと包みながら、静かに頷いた。


 「まだ、俺の中で終わってない気がして」


 「……終わらせんでもええんよ、無理に。風のことは、風が決めるけえ」


 アユばあの言葉は、風よりも柔らかく、耳に残った。

 そのとき、送り堂のどこかで、また1つだけ風鈴が鳴った気がした。


 帰り道は、来たときよりも暗かった。

 でも町全体が、風に守られているような静けさを帯び、誰かの記憶が、どこかの風鈴にそっと灯っているような─そんな夜。


 *

 

 その夜は、寝つけなかった。


 宿に戻って、ぼんやりと天井を眺めていた。

 窓の外では、町のどこかから小さな風鈴の音が断続的に響いてくる。


 ─チリン。


 その音に、どこか違和感を覚えた。

 風の流れとは逆に、音がこちらに“流れてくる”ような、不思議な感覚だった。


 ふと布団を抜け出して、窓の外を見渡す。

 風は穏やかに吹いている。けれど、その音の源は、明らかに近づいている。


 ─まさか。


 心臓が少し早く脈打った。

 音の方向を頼りに、サンダルを引っかけて宿を出る。


 夜の町は静かだった。蝉の声も消え、風だけが通っている。

 通りを抜け、角を曲がり、あの喫茶店を過ぎると、ふいに、


 ─チリン。


 明らかに、俺の耳に届けるかのような暖かい音色。


 そして俺の視界の先に、それはあった。


 坂の途中、昼間見かけた空き家の軒先。

 誰も住んでいないはずのその家に、ひとつだけ─逆さに吊るされた風鈴が、ひとりでに鳴っていた。


 音がした瞬間、頭の中に“なにか”が流れ込んできた。


 ─夕暮れの校舎裏。アユが、笑っている。

 風に髪を揺らしながら、俺に何か話しかけて─。

 

 「……ねぇ、●■××」


 はっとして目を見開いた。

 目の前の風鈴は、もう音を鳴らしていなかった。

 風も、止まっていた。


 でも、心の奥に残った記憶だけが、やけに鮮明で、細部まで焼きついていた。

 あのときのアユの声、仕草、匂いさえ─。


 ─今のは、夢じゃない。なんとなく、そう感じた。


 この逆風鈴が、記憶を“呼び戻した”。

 まるで音が、時の流れを逆流させるかのように。


 それからだった。


 俺は翌晩も、そのまた翌晩も、空き家の前で、音色を聞いた。


 あの逆風鈴は、夜になると必ず音を鳴らした。

 風がなくても、音がした。音がするたびに、俺は断片的な記憶を思い出した。


 その記憶は、ただ懐かしいだけのものではなかった。


 ─思い出すはずのなかった場面。

 ─心の奥底に封じていた、後悔。

 ─交わせなかった言葉。


 記憶が、風の音とともに戻ってくる。


 

 けれど同時に、日常の中の些細な出来事が、どこか霞んでいくのを感じた。


 親友に送ったはずのメッセージの既読が、いつまで経ってもつかない。

 電話をしても、誰も出ない。


 ─まるで、世界の中で、俺の輪郭だけがぼやけていくみたいだった。


 それでも、俺はあの風鈴の音を聞くのを、やめられなかった。

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