共犯者
「わたし、結婚するんです。来週。」
百何回目かの帰り道、彼女はそう言った。
いつもの交差点、最後まで送ったことは一度も無かった。同じ家に帰るか、それ以外だったから。
帰る家が二つから一つになる瞬間だった。
この感情は、なんて名前なんだっけ?
きっかけを作ったのは俺だった。
月並みの言葉で例えるなら、彼女はすごく魅力的な女性だと思った。
ただの上司と部下でいるのがもどかしいと思ってしまうほど、魅力的だったんだ。
「…あのさ、ほんと、遊びでいいんだけどさ」
酔いに託けて彼女にかけた言葉は、今考えても笑える。
「遊びでいいから、俺と付き合ってくんない?」
会食の合間、トイレに立った彼女とすれ違った。少し狭い通路をすれ違う瞬間、いたずらに笑った顔が、あまりにも可愛かったから、そんなことを口走った。
冗談言わないでください、とあしらわれる予定だったのに、彼女はまた笑った。
「…係長、私に遊ばれたいって事ですか?」
上目遣いと、近い身体。意識的か、それともその逆か。全身の細胞が沸き立つように、酔いが一気に回ってしまう。
「遊ばれたい、」
情けないほど正直で、これが色んな意味で最悪の回答だっただろう。
彼女はいつのまにか俺の手を握り、ぎゅっと力を入れた。
別の卓の客が出て来た瞬間に手は離れ、彼女は元の席に戻って行った。
早まる脈が痛いほど響いていて、手を握られた感触だけがじんわりと残っていた。
帰りのタクシーで行き先を告げ、ぼんやりとした頭で彼女の横顔を見た。少し眠そうな瞼とその先に並ぶ長いまつ毛に見惚れていると、いつの間にか家に着いていた。
「じゃあ、またあした…」
言いかけたところで彼女が自分も降りると言い出した。
「え、なんで降りるの?」
「ダメなんですか?」
「いや、え…?」
「すみません、すぐおります。電子決済いけますか?」
彼女が携帯を取り出して決済をする間はほんの一瞬で、押し出されるようにタクシーを降りた。
「ここから家近くないよ?」
「知ってますよ」
じゃあどうして、と聞く前に小さな手がまた俺の手を握った。
「遊ばれたいって、誰かさんが言うから」
暗がりで見た悪戯な顔、魔性の女って本当に存在するんだ。
「…っ、いや、彼氏いるじゃん」
5年も交際してるとびきり仲良しなね。
「…え、だから遊びでいいって、係長言ったんですよね?」
遊びでいいので、付き合いましょ?と彼女が言う。
本気なのか?いや、俺はいったい何を望んでいたんだ?そんなことを考えているうちに、彼女の手を引いて家の鍵を探す自分がいた。
知らないうちに強く握っていた彼女の手首に、うすらと赤い跡が付く。
もう、理性は1分くらい前に弾け飛んでいた。
ドアを開け、彼女が靴を脱ごうとした瞬間に身体を引き寄せる。
柔い肩の感触、ほんの少しタバコの匂いがついた髪の毛、とろけてしまいそうな瞳と、寂しそうに揺れる唇。
あぁ、もう夢でもいいかななんて。
二日酔いの目覚め、唸るようにあくびをすると狭いベッドにすやすやと眠る彼女がいた。
あれからの記憶はかなり曖昧で、ただ超えてはいけない一線を確かに超えた事だけは覚えていた。
近くで見ると幼すぎるようにも見える彼女の顔はやはり綺麗で、頬を撫でる。
「…馬鹿じゃねえの、」
どうして彼女が昨日の夜あんな事をしたのか、いまだに分からなかった。
遊びでいいと言ったのは自分なのに、手に触れられる距離にいる事が矛盾のように感じて、自分が本気になりそうな予感がしていた。
シャワーを浴びた後、ベッドには目覚めた彼女が携帯を触りながら難しそうな顔をしていた。
「…誰かさんに連絡?」
ハッと気づいたようにこちらを見て
「まぁ、そんなとこです」
と苦笑いをした。あたまいたい〜と目を擦る彼女がそれを誤魔化したのを見て、モヤっとした。
出勤まであと1時間。彼女にシャワーを浴びるよう促し、コーヒーを淹れた。
昨夜、当てられた熱を思い出して頭痛がした。
忘れられない、忘れられるわけがない。
「思い出して興奮するとか、終わってる…」
タオルどこー?と言う彼女の声で我に帰る。
ストーブをつけ忘れた部屋の中で、コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
それから、この歪な関係は始まった。
週末に会うことは滅多になかった。
彼女はもう一つの関係を円満に進めていたのだから。
「遠距離恋愛って、怖いですね〜」
他人事みたいに言う悪魔が、俺の腕の中で笑った。
「ばれなきゃなんでもありだろ」
そんな風に同調して、内心で終わりを怖がった。
一年間、絶対に手に入らない幸せを夢見ながら嘘の幸せを噛み締めていた。
彼女の笑う顔は世界で1番可愛いと思ったし、触れるたびに好きだと言う気持ちが溢れ出した。
この人を幸せにしたいと、この人に幸せにされたいと願ってしまった。
「もしかして、俺以外にもいんの?こーゆーの、」
意地悪をしてみたくて言ったのに、そんな器用じゃないよと流された。
彼女のスマホの壁紙は、ずっと前から変わらなかった。幸せそうな彼女と、その横に並ぶ俺じゃない、会ったこともない男。
見るたびに嫌気がして、直視できなかった。
変えてなんて、ダサいこと言えるわけがない。
割り切らなきゃいけないのに、もう戻れないところまで来ていた。
「…そろそろ、俺と結婚する気になった?」
あぁ、どうか頷いてくれと言う期待も虚しく、
「ふふ、そんな気、ないくせに」
なんて、突き放されてしまった。
ああ、俺は勝てない。彼女の暇つぶしでしかない。こんなに本気にさせておいて、すぐにでも捨てられる。
「…好きだよ、愛してる」
「…急になんですか、」
遊びでも、”恋人”だった。あの時、遊びで「付き合おう」と約束したのだ。
「…なんでもな、」
「私もすき…係長のこと、好きだから付き合ったんですよ」
心を読まれたみたいに、そんな事を言われた。
彼女が徐にキスをする。
これが誤魔化しでも、いいと思った。
噓の幸せでもう少し生きていたいと思ってしまった。
そう思ったのは火曜日、そして嘘の幸せが壊れたのが一週間後の今日だ。
「…へえ、」
来週結婚するその女は、まるで悪気なんてなさそうだった。
「へぇって、あんまり寂しくない感じ?」
思わず笑ってしまった。寂しいなんて言葉で片付けられほどこの感情は単純ではない。
もはや自分でも分からないぐらいなのに。
「…じゃあ、今日で最後ってことね」
絞り出した声、あと何発かくらえばきっと泣き出してしまう。
「…うん、そう、最後」
「飯でも行くか」
これくらいのわがままは許されてもいいと思った。…いや、これが手に入れらないものに手を出した最後の罪だ。
「何食べに行きます?」
ああ、その敬語。いつも壁みたいに感じていた。いつまでも、俺はただの上司で、彼女はただの部下。
「奢るよ、結婚祝いに」
彼女の望む、割り切れている男を演じた。消化できない、大きすぎる感情に何とか蓋をした。
「…じゃあ寿司!」
子供みたいにはしゃぐ顔、そのクセが好きだった。
彼女の手を握る。外で手を繋いだりしたことは無かった。
彼女が少しだけ驚いた顔をする。離そうとした手を強く握って上着のポケットに突っ込んだ。
「最後だから、これくらい許して」
何も言わず、彼女は小さく頷いた。
このまま、どこか遠くに連れ去りたい。彼女の言う「来週」が来ない何処か。
歩いて行ける距離の回転寿司屋。
入ったのは遅い時間だったため、客はまばらで少し寂しさがあった。
「食べろよ、いっぱい」
「いいですか?」
嬉しそうにメニューに手を伸ばして、何を食べるかを吟味している。
こんな姿をこれからもずっと見れると勘違いしていた。その権利は当たり前に俺にはないのに。
しばらくお互いに好きなものを頼み、他愛のない話をした。これまでの一年間の出来事なんてのは、もう彼女の中で思い出だった。
自分が過去になっていくのを感じて、話を止めてしまった。
「…何で結婚すんの?」
傷つきたい訳じゃないのに、もう止められなさそうだった。
「…一生一緒にいたいなって思ったんです」
「…はは、模範解答、」
俺じゃ無かった?と聞く。バカみたいな質問。
「何でそんなこと聞くの?」
「そりゃ、」
それから言葉が出なかった。目頭が熱くなる。泣いても彼女は手に入らないのに。
「…好きだったんだよ、ほんとに」
彼女と俺が逃げ続けてきた感情に触れた。
「やめて、俺と結婚しよう?」
彼女が寂しそうに笑った。
「…ごめんなさい」
はっきりと断られて良かった、なんて。
「俺じゃなかったかぁ、」
返せよ、俺の一年間を。気持ちを。そんなわがままを手放しで突きつけたかった。
それを1番望んでいたのは自分だった。
ごめんなさい、と彼女はまた謝る。これで最後だ。
「…わかったよ、帰ろ」
店を出て伸びをする。今更気まずそうな顔をする彼女に、内心少しだけ嬉しいと思った。
「じゃあ、これで最後」
前と比べてかなり伸びた髪の毛を触る。彼女の全てに愛しさが宿って、思い出してしまう。
「俺は幸せだったよ」
彼女は答えない。それで良い。
「今度はお前が幸せになって」
…だけど、俺を忘れないで。密かに思った。
重たい口を彼女が開く。
「…係長は、私より幸せになってね」
それが私の償うべき罪だから、と彼女が言う。
共犯でいいのに。
そんなの、償いというよりは、呪いじゃないか。
さよならと手を振る彼女が、暗闇に消える。
ああ、これで最後。
さようなら、幸せにしたかった人。
おしまい.