家庭教師
古語の教科書を全て終えた頃には冷たく寒い冬が明けて春が来ていた。
お兄様も歴史書が少し進んだようだ。
ルーディンクがお兄様に勉強を教えるようになって、始めの方は嫌々やっていたらしいけれど騎士と関連付けると喜んで勉強に取り組んでいたそうだ。
しかも、騎士を目指しているだけあってさすがの集中力で冬の間に三分の一も終わらせたとか。
お兄様は勉強が嫌いなだけで、要領は良いのかもしれない。
今日からは私が古語と計算の勉強を教える。
ルーディンクも私とお兄様の家庭教師をしながらだと仕事量が多くて大変だからと、歴史の家庭教師は別でまた雇うことになった。
「ルーディンク、わたくしがお兄様に古語や計算を教えなくてもその家庭教師に教われば良いのではないですか?」
「それが、レーベルト様は古語や計算の教科書を見るとすぐに逃げ出して王宮に剣の稽古に行ってしまわれるのです。今日も既に王宮に行かれました」
思っていた以上にお兄様の勉強嫌いは深刻らしい。
さすがに王宮に行かれると、ルーディンクも家庭教師も易易とは連れて帰られない。
これはもう、私が行くしかないか。
急ぎで王宮に連絡を入れて、ルーディンクと共にお兄様の勉強道具を持って馬車に乗った。
それにしても、お兄様もやっぱりなんだかんだ子供なんだな。
いつも頼りになるけど、まだ9歳にもなってない男の子だ。
施設にいた小学生の男の子たちも、よく宿題してなくて先生に怒られてたな。
あんなに大嫌いだった施設を懐かしいと感じる自分に驚いていると、もう王宮に着いていた。
馬車を降りて、稽古をしているであろう中庭に案内してもらった。
「やっぱり」
お兄様とジェラルド王子はアルデアート様に攻撃を入れる訓練をしていた。
アルデアート様には連絡を伝えてもらっていたため、私に気付くと2人の剣を止めてこちらにやって来た。
お兄様は私とルーディンクを見ると青ざめていた。
まさか王宮に乗り込むとは考えもしてなかったんだろうな。
「お兄様、訓練はほどほどにしてお勉強をしましょう」
「オリビア、怒ってる?」
「いいえ。全く」
笑ってお兄様の前まで歩いた。
それから視線でルーディンクに合図をすると、ルーディンクはお兄様の木剣を奪い取ってアルデアート様に預けた。
「レーベルト様、図書館の側の会議室をお借りすることが出来ましたのでそちらでお勉強をしましょう」
「………はい」
さすがルーディンク。
おてんばお兄様も逆らえないなんて。
感心しつつ、ジェラルド王子も一緒に会議室へ向かった。
「殿下はもう全て終えているのですか?」
「ああ。王国の歴史は、私にとっては先祖の話だ。物心がついた頃から両親から聞かされてきた。古語や計算も3歳の頃からしていたため、もう既に終えている」
「3歳からあの古語のお勉強だなんて。やはり王族は大変なのですね」
「そうかもしれないな。私はこれが普通だと思っていたが、レーベルトを見ているとそうではないと分かる」
「………お兄様も特殊だと思いますよ」
会議室に着いて円形のテーブルがあって私がお兄様の隣に座ると、ジェラルド王子は向かい側に座った。
古語と計算、どっちから始めようかと考えているとルーディンクが古語で勇敢を意味する単語を呟いた。
その単語はお兄様の好きな過去の騎士の名前で少し食いついていた。
「お兄様、今の単語は古語で勇敢という意味なのですよ。騎士にピッタリなお名前ですよね」
「勇敢。確かに」
「今日は古語のお勉強をしましょう」
「ああ」
掴みは良かった。
ナイス!ルーディンク。
なんて思っていたのに、歴史と違って覚える単語が多い上に文法も単語もころころ変わる古語はお兄様の興味を引かなかったらしくもう集中力が切れている。
古語の翻訳の横にアルデアート様に攻撃を入れるための作戦を書き始めていた。
ポンポンと肩を叩いても気付かないくらいに集中している。
この集中力を勉強に向けてよ。
「お兄様!せめて、今日の範囲が終わってからにしてくださいませ」
「悪い。悪かったから。オリビアは怒ると母上に似ているんだ。怒らないでくれ」
「分かればよろしいのです」
フフン、と笑うとお兄様は少し顔を歪めてそのまま正面に座っていたジェラルド王子の方を向いた。
ジェラルド王子は私達2人の様子を見ては紙と向かい合って何か描いている。
「ジェラルド、何をしている」
「兄を叱りながら勉強をさせているオリビア嬢の絵」
「違うな。妹に叱られながら勉強させられている私の絵を描いているのであろう?」
「そうとも読み取れる」
2人があまりに真剣な顔で言い合っているため、つい笑ってしまった。
相変わらず仲が良いみたいだ。
帰る頃には今日の範囲を優に越した範囲まで終わっていた。
私、怒ったらそんなに怖いのかな?
いやいや、お兄様が集中して頑張っただけだよね。
ジェラルド王子は側近に絵の具を準備させて、色まで塗っていた。
どんな仕上がりか見てみたくて、王子の隣に行った。
「完成しましたか?」
「ああ」
「拝見してもよろしいでしょうか」
「ああ」
ジェラルド王子は出来たばかりの絵を見せてくれた。
お兄様もすぐにこちらにやって来て一緒に絵を覗いた。
すごい。写真みたいに上手い。
でも、王子からしたら私って結構子供っぽく映ってるんだな。
屋敷ではお嬢様は大人っぽいですねって言われるけど、王子は年相応だと思っているのだろう。
前世も含めたら本当は私の方が年上なのに。
まあ、そんなことは気にならないくらい王子の絵はすごい。
「殿下は音楽だけでなく絵の才能もあるのですね」
「いや、私の絵はただ見たものをそのまま描いているだけだ。本当にすごい画家とは見たものだけでなくその歴史の背景やその日の空気までも描いてしまう。私にはそのような才能はない」
「そうでしょうか。見たものをそのまま描くというにも技術は必要ですしこれも一種の才能だと思うのですけれど」
「そうか。オリビアが言うならそうなのかもしれないな」
ジェラルド王子はフッと笑って私の方を見た。
って、あれ、今、オリビアって呼ばれた?
驚いてジェラルド王子の顔を見上げるといつものクールな表情に戻っていた。
まあ、いっか。
オリビアちゃんからオリビアになったくらいの変化だし。
特に気に留めず、帰る支度が終わるのを待った。
お兄様とジェラルド王子はアルデアート様の攻略方法を考えていた。
帰る支度が終わったのを見て軽くお兄様の肩を叩いて合図した。
「それじゃあ、ジェラルド。また明日」
「ああ。明日もオリビアは来るのか?」
「いえ、明日は屋敷で勉強しますのでお兄様はその後に1人で王宮に向かう予定です」
「そうか」
今日は、お父様が遅くなるみたいで先に馬車で屋敷に帰ることになった。
馬車に乗り込んで疲れていたせいかそのまま眠りそうになった。
けど、今眠ると夜眠れなくなるため屋敷に着くまでなんとか意識を保った。
屋敷に着くと、ユーリとエマと侍女たちが出迎えてくれて私はすぐに自室に戻った。
軽く湯浴みをして目を覚ましてから、自室で夕食をとる。
髪を乾かしてもらいながら鏡を見た。
疲れてるの、隠しきれてないな。
お母様に見られたら、貴族はなるべく表情を出してはいけないのですよ。家でももう少し気を引き締めなさいと怒られるだろう。
ここなら自室だし、さすがに目を瞑ってもらえると思うけど。
「そういえば、カリラス侯爵家のリゼリー様からお茶会のお誘いが届きました。どうされるか、奥様とご相談してください」
「分かったわ。ありがとう」
夕食を軽く取ってからベッドに入った。
お茶会なんて参加するわけないじゃん。
朝食を終えて、お兄様とのお勉強が終わって部屋に向かう途中でお母様に呼び止められた。
お茶会の話だ。
お母様と中庭でお茶をすることになって、一緒に中庭のガゼボに向かった。
お母様の侍女がお茶を淹れてくれて、最近人気らしいお茶菓子を用意してくれた。
お母様がお茶を一口飲んで侍女に視線を配ると、侍女は1つの封筒をテーブルの上に置いた。
「エマからもう聞いたかしら」
「はい」
「せっかくです。参加して社交を学んできなさい」
やっぱり、お母様はそう言うよね。
「心配しなくても、レーベルトも同行する予定です」
「分かりました。お茶会はいつですか?」
「10日後です。それまでに、もう一度挨拶の練習をしておきなさい」
「はい」
お兄様がいるなら、大丈夫だろう。
少しホッとしてお菓子を食べた。
私、ちゃんと表情を取り繕えるようになってきたのかもしれない。
お母様に怒られないってことはそういうことだろう。
お母様とのお茶を終えて、部屋に戻った。
歴史書を開いて、復習しながら少しずつ進める。
この国も他国との戦があったんだ。
もう300年前の話みたいだけど。
その当時は今よりも領地が大きくて、一部の民族が独立運動を始めたらしい。
そして、その民族が隣国の騎士を率いて王都に攻め込んできて戦に発展したらしい。
戦は3年も続いてアーデストハイト王国はその民族の村の所有権を手放してその隣国の領地になったけれど、結局騎士に裏切られて村を焼かれたせいで民族はもういなくなったらしい。
もし、1人でも生き残っているのならいつか会ってみたいな。
すごく変わり者が多いけれど、その分何か1つずば抜けた才能を持つ人材も多かったそうだ。
だからこそ、自分たちが国を治めた方がもっと国が発展すると思った者もいたんだろう。
歴史書を閉じて、屋敷内にある書庫に向かった。
本当は屋敷内でも側近の誰かを連れて行かないといけないけど皆部屋にいなかったからこっそり1人で向かった。
その民族についての文献は他の文献とは別の本棚に大量に置いてあった。
「すごい。薬草の研究してたんだ。前世の医者みたいなものかな。伝統の布もあったんだ。金属細工も得意だったんだ」
こんなすごい民族を滅ぼすなんて民族を滅ぼした隣国にとって損だったんじゃないのかな。
なんで裏切ったんだろう。
この人たちの能力を見抜いてた人が誰もいなかった、とか?
他の文献も呼んでみたくなって、椅子を本棚の前に運んで上の方の棚に手を伸ばした。
文献にはギリギリ手が届かなくて、少しジャンプして届いたと思った瞬間椅子から足を踏み外した。
ドサッと大きな音に気が付いたのか、屋敷の従者の誰かが書庫に入ってくるのが分かった。
けれど、頭を打ったせいかぼーっとして誰かは分からない。
気が付いたときにはベッドの上だった。
ユーリとエマが心配そうにベッドの側にいた。
記憶を取り戻した時も、こんな感じだったな。
「オリビアお嬢様、申し訳ございません。わたくし達がついていかなかったせいで」
「それは違うわ、ユーリ。わたくしが誰も呼ばずに1人で行ったのが悪かったのです。ごめんなさい。だから、エマもユーリも気に病まないで」
笑って2人の顔を見上げると、2人は泣きそうな顔で私の顔を見た。
ありがとうございます、お嬢様に怪我がなくて良かったですと私の手を握った。
特に怪我はしていなかったため、夕食を取る広間に向かった。
お父様もお母様もお兄様も揃っていて、心配そうな顔をしたお兄様がすぐに駆け寄ってきた。
「オリビア、もう平気なのか?」
「はい」
「良かった」
私が笑って頷くと、お父様が眉をピクリと動かした。
「良くない。オリビア、夕食を終えたら話がある。書庫に来なさい」
「はい」
雰囲気がいつもと違う。
怒っているのかもしれない。
落ち着かない気持ちで夕食を取って、ユーリと一緒に書庫に向かった。
お父様は自分の側近とユーリに外に出るように言うと書庫の扉を閉めた。
文献は綺麗に本棚に片されていて、椅子も元の場所に戻してあった。
「お父様。勝手に文献を読んでしまい申し訳ございませんでした」
「それは良い。読んではいけない文献は私の自室で管理しているからここにあるものは好きに読めば良い。それよりも、どうして側近を付けていなかった?せめて、高い棚の物が欲しいのであれば近くにいる侍女にでも頼みなさい」
「はい。申し訳ございません」
私が頭を下げるとお父様はいつもの優しい笑みを浮かべていた。
そして、怪我がなくて良かったと私の頭に手を置いた。
私はホッと胸を撫で下ろしてお父様の顔を見上げた。
「お父様、バロケイン族は本当に滅んでしまったのですか?」
「………私達も今調べているところだよ」
「調べているということは、生き残っている可能性があるということですか?」
身を乗り出して訊ねると、お父様は何も言わず微笑んだ。
今日は早く休みなさいと言われて書庫のドアを開けてユーリを呼んだ。
私には話せない秘密事項か。
少し肩を落として部屋に帰って、お父様の言う通り今日は早く休むことにした。