王宮へ行こう
朝からまたバタバタしている。
今日は昨日、ジェラルド王子に借りたコートを返しに行くために朝から湯浴みをして持っているドレスの中でもまだ着たことのない新しいドレスを着て、髪はおろしてハーフアップにした。
なんか、開国祭のときよりも気合入ってない?
それより、王子もわざわざコート返しに来られるとか内心困ってるんじゃないの?
多分、私の相手してる暇があったら剣の稽古とかしたいだろうし。
王子って言ったって8歳の男の子なんだから、少しでも自由時間が多い方がいいに決まってる。
ムスッとした顔で広間に行くと、お母様と目が合ってしまった。
慌てて表情を取り繕ったけれど遅かった。
すぐにお兄様の後ろに隠れて、お母様に挨拶をしてそのまま広間を出た。
お父様はもう既にお仕事に向かっているから、今日は私とお兄様だけで王宮に行く。
私が嫌々だということが顔に出そうで心配なのか、お母様が注意事項を並べていく。
はいはい、分かりました、と流しながら馬車に乗り込んだ。
お母様は注意事項を全て言いきったのか合図を出すと馬車が動き始めた。
はぁ、と小さくため息をついて馬車の外の景色を眺めていると、専属執事で護衛代わりのルーディンクが「もう少し、表情を取り繕ってください」とため息混じりに言った。
本当はエマとユーリについてきてほしかったけど、2人は私の部屋の掃除などやることがたくさんあるし普段私の家庭教師もしてくれているルーディンクなら私が失態を犯してもすぐにフォロー出来るだろうからとお母様に付けられた。
「わたくし、早く帰って古語のお勉強をしたいです。早く、お父様から外国語を教わりたいのです。なのに、どうして王宮に行くことになるんですか?王子はお兄様を通してで結構とおっしゃっていたのに」
「まあ、お嬢様はジェラルド王子の婚約者になる可能性が高いですから、今のうちに王子と仲良くなって損はないですよ」
「わたくしは王子と婚約なんてしたくありません」
ムッとルーディンクの顔を見上げると、やれやれとため息混じりに笑われた。
この従者、どうかしてる。
でも、本当に王子と婚約なんてしたくない。
私は王妃様みたいに堂々と出来ないし、人前は苦手だ。
できれば、お母様の実家のある領地の騎士か文官と結婚して静かに幸せに暮らしたい。
そんなことを考えているうちに王宮に着いた。
ここは、やっぱり緊張感があってどうしても気を張ってしまう。
もし、王子と婚約してここで暮らすようになったら、ストレスで倒れるか死ぬと思う。
ジェラルド王子付きの従者が迎えに来てくれて、談話室まで案内された。
談話室にはピアノに似た鍵盤楽器クラヴィスがあって、真ん中にはソファとテーブルがある。
クラヴィスがある方は全面ガラス張りで、庭が一望できる。
さすが王宮。って、そんなことよりもなんで応接間じゃなくて談話室?
急だったから応接間が空いてなかったとか?
ソファから立ち上がってとりあえず考えるのはやめにした。
王子が来たので、スカートを摘んで挨拶をした。
「ごきげんよう、ジェラルド王子」
「ああ。わざわざオリビア嬢が届けに来てくれたこと、感謝する」
「い、いえ、感謝を申し上げたいのはわたくしの方です。おかげで体調を崩すこともありませんでした」
ルーディンクに視線を向けて、ジェラルド王子の従者に渡すように合図するとその合図を無視して私にコートを持たせた。
すると、王子の従者も微笑ましいものを見るように一歩下がった。
何そのいらない気遣い。
王子は特に表情も変えずこちらを見ていた。
心の中でため息をついて、王子にコートを手渡した。
「殿下、昨日は本当にありがとうございました」
「気にするな」
ジェラルド王子はコートを受け取ってすぐに従者に渡した。
えっと、コートの返却は終えたけど、私帰ってもいい?
ルーディンクの方に視線を向けると笑顔で少しだけ首を横に振られた。
「あの、ジェラルド王子。今日は剣の稽古はなさらないのですか?」
「稽古の見学はオリビア嬢には退屈だろう?」
「い、いえ!お恥ずかしながら昨日は少々寝不足でして居眠りをしてしまいましたが、決して退屈なんてことはありません」
「そうか。では、レーベルト。中庭に向かうぞ」
お茶会が始まるくらいなら、私は剣の稽古の見学の方がよっぽどいい。
ジェラルド王子とお兄様の後に続いて中庭に向かうと、アルデアート様が既に待っていた。
中庭だからかガゼボがあって、そこに座ってお茶を飲みながら稽古の見学をする。
なんとも優雅な6歳児だ。
「ねえ、ルーディンク」
「なんでしょう」
「ルーディンクって21歳なのよね?どうして婚約しないの?」
「私はお嬢様に生涯尽くすと決めているのです。もし、婚約するならお嬢様の侍女になるのですけどエマにもユーリにも相手にされていませんかね」
こんなにイケメンなのに。
まあ、前世でいうチャラ男っぽい雰囲気があるからあの2人が相手にしないのは納得だ。
他の私付きの侍女は既に結婚して子持ちの侍女ばかりだからその条件ならルーディンクはまだまだ婚約できないのではないだろうか。
………私と婚約すれば、ルーディンクは婚約出来るし私は王子と婚約しなくていい。
我ながら名案。
ムフフ、と笑っていると呆れたような顔をしたルーディンクがこっち見ていた。
「お嬢様、今、何か良からぬことを企みましたね」
「いいえ。良からぬことなんて企んでいません」
「そうでしたか。てっきり私とお嬢様が婚約すれば王子との婚約を避けられるのではないかと考えていらしたのかと思いました」
ルーディンクって心を読めるの?
そんな人との結婚は嫌かも。
笑顔でルーディンクから視線を背けて、ジェラルド王子とお兄様の方を見た。
2人とも、一生懸命剣を振っているけどやっぱりアルデアート様に攻撃は当たっていない。
それにしても、ジェラルド王子って将来絶対イケメンになるんだろうな。
水色と銀色を混ぜたような髪はサラサラしていて触り心地が良さそうだ。
緑の瞳も明るい緑というよりも深みのある緑で落ち着いた雰囲気を醸し出している。
性格も8歳というには大人っぽい。まあ、お兄様と話しているときは年相応に戻るけど。
王子と婚約するのは嫌だけど、こうしてジェラルド様を眺める分にはすごく癒されるな。
しばらくすると、ジェラルド王子とお兄様がガゼボにやって来た。
「オリビア嬢、少し冷えてきたから談話室に戻ろう」
「はい。お心遣いに感謝します」
談話室に戻ると、ジェラルド王子とお兄様は着替えに行った。
まあ、もう冬になったとはいえあれだけ動けば汗もかくだろう。
待っている間、クラヴィスを弾いていようと思い蓋を持ち上げてイスに座った。
前世ではピアノなんてそうそう触る機会がなかったけど、オリビアとして3歳からクラヴィスを習っていたため前世で聴いたことのある曲もなんとなくだけど弾くことができる。
クラヴィスの蓋を開けてイスに座って、鍵盤に手を置いた。
特別好きだった曲はないけど、給食の時間によく放送で流れていた曲はしっかり覚えている。
その曲をゆっくりと弾き始めた。
演奏が終わる頃、ちょうど王子とお兄様が帰ってきていた。
ジェラルド王子は感心したように私の方を見ていた。
「オリビア嬢も作曲をしたりするのか?」
「これは、作曲というか、どこかで聴いたことのある曲を弾いていただけです。作曲なんて、そんな技術は持ち合わせていません」
「そうか」
「わたくしも、ということは殿下は作曲をしているのですか?」
「ああ」
「わたくし、殿下の作った曲を聴いてみたいです」
ジェラルド王子は少し驚いたような顔をして、私と入れ替わるようにイスに座った。
私とお兄様が見つめていると、少し落ち着かない様子でクラヴィスに手を置いた。
そして、ゆっくりと鍵盤を押さえて曲を弾き始めた。
演奏を始めるとさっきまでとは全く違った様子で軽やかに手を動かしていく。
初めて聴く曲なのにどこか懐かしい感じがする。
気が付くと、曲に合わせて少し歌っていた。
慌てて口を手で覆ったけれど、耳がいいのかジェラルド王子は演奏を止めて振り返った。
「オリビア嬢は綺麗な歌声をしているな」
「え、」
私の声が綺麗?
いや、わかってる。前世の私とオリビアの声は全然違う。
それでも、前世の私まで救われた気がした。
少し泣きそうなのを堪えながら微笑んだ。
「ありがとうございます、殿下」
ジェラルド王子もお兄様も少し驚いたような顔をして私の方を見ていた。
涙が溢れそうなのは、見逃してね。
それから、日が暮れる頃まで演奏したりお喋りしたりと楽しく過ごしてお父様の仕事が終わると一緒に帰ることになった。
馬車の前までジェラルド王子が見送りに来てくれた。
「オリビア嬢、また遊びにおいで。今度は美味しいお菓子も用意しておく」
「はい!楽しみにしています」
ジェラルド王子に手を振るのを待ってから馬車が動き出した。
お父様は私の方を見て、微笑ましいものを見るような顔になっていた。
「王子と随分親しくなったみたいだね」
「はい。わたくし、もう1人お兄様ができたみたいでとても嬉しいです」
お父様は少し予想外な答えだったのか瞬きをしている。
でも、お兄様はその隣でオリビアらしいねと笑っていた。
何が可笑しいのかさっぱりな私は、薄暗い外を眺めて屋敷に着くのを待った。
屋敷に着いてすぐ、お母様が嬉々とした様子でこちらに歩いてきた。
けれど、私は疲れていますからと夕食は自室で軽く済ませてすぐに寝ることにした。
お母様の質問攻撃はせめて明日がいい。
なんて思ってはいたけど、そもそも質問攻撃が嫌だ。
今日は朝から自由時間を与えられて喜んでいたのに、お母様からお茶会のお誘いがあって自由がすぐに奪われた。
私はちゃんと教わった通り、顔に嫌だということは出さずにエマと一緒に外の温室へ行った。
「お待たせいたしました」
「オリビア、早く座ってちょうだい」
「はい」
お母様はにっこりと微笑んで紅茶を一口飲んだ。
私も紅茶を一口飲むと、お母様はザッと扇子を広げて顔の前に持ってきた。
視線を逸らしたい気持ちでいっぱいだったけど、笑顔を浮かべた。
「昨日、ジェラルド王子にまたおいでと誘われたそうですね」
「はい」
「つまり、ジェラルド王子とはかなり親しくなったのね」
「はい。勝手ながら、もう1人のお兄様の様に思っています」
お母様は扇子越しにギラリとした視線を向けてきた。
「お兄様、ですって?」
「いけませんか?」
「まあ、今はそれで良いでしょう。くれぐれもジェラルド王子に嫌われたり呆れらるような行動はしないように」
「はい」
って、そもそもそんな行動するような覚えはないんだけど。
話は終わったのかと思い、立つように促されるのを待っても中々合図がない。
まだ、話が残っていたらしい。
お母様がお菓子を勧めてきた。
クッキーのようなお菓子で、さっくりとしていて上品な甘みがある。
ああ、至福だ。
「オリビア、あなた、計算のお勉強を全て終えたそうですね」
「はい」
「こんなことをあなたに頼むのはおかしいと思うわ。けれど、あなたに教えられたらあの子も少しは頑張ってくれると思うの」
なんのことを言っているのか分からず首を傾げると、お母様はすごく躊躇うような表情を浮かべて紅茶を飲んだ。
「レーベルトに、お勉強を教えてくれないかしら」
「えっと、お兄様に、ですか?」
ちょっと衝撃が強くてつい聞き返してしまった。
まさか、お兄様が勉強出来ないなんて思ってもいなかった。
毎日剣の稽古のために王宮に通っているから、てっきり全て勉強を終えた上でだと思ってたけどどうやらそうではないらしい。
「レーベルトはね、すごく身体能力が高くて騎士団からもその能力は買われているわ。だからといって、お勉強を全て放って訓練に行っているのはあの子のためにも良くない。それなのに旦那様もあの子の家庭教師も、騎士になるならお勉強はそこまで焦らなくても良いだろうって」
お母様の怒りが沸々と沸いてきているのが分かった。
確かに、騎士は文官になるほどの勉強は必要としていない。
あの量の勉強なら詰め込めば1年で終わるからまだ8歳のお兄様なら10歳までに終わらせることも可能だ。
だからお父様は、余裕を持って長い目で見ているのだろう。
ただ、普段から勉強をしていない子どもが急に集中して勉強をするようになるとは到底思えない。
お父様は自分が勉強が得意で、小さい頃からコツコツと勉強をしてきたから分かっていないのだろう。
その点、お母様は上に兄2人、下にも弟2人いてその兄弟たちが皆勉強から逃げ出しているところを見ていたそうだ。
だから、お兄様もその兄弟たちのように学園に入っても勉強から逃げ出さないか心配しているそうだ。
「………分かりました。私で良ければ、引き受けます」
「ありがとう、オリビア。きっとレーベルトも妹のあなたに言われたら少しは勉強をしようと思ってくれるはず」
「ただし、条件があります」
お母様の言葉を遮るように指を立てた。
お母様は頷いて私の顔を見る。
「わたくしが古語の教科書を終えてからでも良いでしょうか?」
「それだと、10歳になるまでに勉強を終えることは出来ないと思うのだけれど」
「少しの間、ルーディンクをお貸しします。歴史はわたくしよりもルーディンクに教えてもらう方が良いでしょうから」
「オリビアが良いのならありがたく借りるわ。それと、あの家庭教師には暇をだしましょう」
え、クビにされちゃった。
まあ、家庭教師としての役目を果たしていないのに高い給料もらってたらクビにされても当然か。
お茶会を終えて、部屋に戻って古語の教科書を開いた。
古語って思ってた以上に難しかった。
最初は何これ簡単って思ってたけど、時代によって言葉の意味や使い方がころころ変わりすぎて中々覚えられない。
あと少しで終わるっていう状態がずっと続いている。
これが終わる頃には春が来るだろうけど、お母様には内緒にしておこう。