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予備用①

 夢の中で子供に戻っていた。

 入道雲が膨らむ空の下、六七才くらいの僕は、燥ぎながら父親の車に乗り込み海に向かう。

 車中では、助手席の母に促されナップサックの中身を確認する。

 海パン、タオル、ビーチボールに泳いだ後の目薬。抜かりはない。

 浜辺に着くと、まだ昼前だというのに人が溢れていて、一段と気分は向上した。

 膨らましたボールを手に、空と同じ色の海面へとダイブし潜ったあと、波に揺られながら流されていく。

 もう、どこへ行ってもかまわない。監視員がメガホンで注意喚起をしても、聞こえないふりだ。

 突然浮力が消える。体は鳥達に突付かれながら落下していく。

 あれ? もしかして「空と同じ色」ではなく「空」そのものだったのかしらん。


 ビクリと上半身を揺らし、テーブルから顔を上げる。

「おお」と聞こえたので振り向くと、パジャマ姿の僕が立っていた。いや、これは息子だ。

「お父さん大丈夫?」

「うん。ちょっと夢を見てたんだ。ちゃんと布団で寝るよ、おやすみ」 

 息子が子供部屋に戻ったあと、パソコンを閉じて居間の灯りを消し寝室に入る。寝息を立てている妻の隣で横になると、夢の光景が脳裏に甦ってきた。

 いや、あれ全部嘘だろ。

 父は自動車免許を持っていなかったし、海なし県の山間育ちということもあり、夏の行楽地といえば谷川沿いのキャンプ場が定番になっていた。

 それゆえか、自慢気に海水浴での体験談を話す同級生を見る度に、歯噛みをする思いでいたのだ。

「夢は願望の表れ」とも言う。恐らく、最もその願望を抱いていた頃の自分と息子が同年齢になった事を切っ掛けに、心底から表出したのだろう。

 突然脳内の光景が一転する。それは夢ではなく、ぼんやりとした現実の記憶。

 空は茜色に変わり、賑わいは消え、野良着姿の男性がたった一人、畦の上からこちらを見ている。

 どこか哀愁を漂わせる立ち姿。そしてあの目……。

 来月は連休が取れるはずだ。

 久々に孫の顔でも見せに行こうか。


「とはいえ、悪かったね。忙しい時期に二人で押しかけて」

「いいのよ、なんだかんだで喜んでるんだから。それに、農家は一年中忙しいわよ」

 そう言って母は、縁側の向こうを見ながら微笑んだ。

 うろこ雲の下、庭では熟れた実をならした柿の木の下で、息子が土いじりをしている。

「本当に昔のあんたにそっくりね。そういえば前に話したっけ? 海のこと」 

「海?」

「そう。あの頃夏は近場のキャンプ場に行ってたでしょ。だから父さん、一回あんたに言ったことあるんだって。次の年は海に行こうって」

「ああ、そんなこともあったかな」

「でもあんた『遠いから大変だし川の方が好き』とか言ったんでしょ。それを父さん『子供に気を遣わせた』って気にしてたみたい。去年の里帰りの時にも思い出しててさ」

 卓袱台に差し出された茶を一口飲んだあと、母に倣って縁側の向こうを見る。

 だが視線は、庭の更に先に向かう。

「気を使ったことなんてないよ。本当に楽しかったしさ」

「そう、なら良かった。じゃあ、そろそろ戻るから」

「うん、何か手伝える事とかある?」

「ふふっ、ほら気を遣ってる。大丈夫よ、あんたも自分の仕事があるでしょ」

 障子横に置いた鞄の中には、ノートパソコンも入っている。

 結局、完全な連休などは取れなかった。今日もこれから画面を見続け、夜になれば帰路につく。

「泊まっていけばいいのに。無理し過ぎないでよ」

「ありがとう。次はちゃんと三人で来るから」

 庭に下りた母の隣に、息子が近寄り手を握る。これから二人で父のいる田んぼに向かうのだ。

 ─本当に楽しかったしさ

 それは嘘ではない。

 収穫期には父の手伝いとかこつけて、僕は稲穂の海に潜れたのだから。

 最初は時節を外した海水浴だと、無理矢理自分に言い聞かせていただけだった。

 だが秋風が吹き黄金色の波が立つ度に、寝転んだ小さな体はどこまでも揺られて、遥か海原の果てまで流されていくのではと錯覚するようになった。

 結果僕は、夏休みの埋め合わせをすることが出来たのだ。

 

「ふう……疲れる」

 鞄から愛用の目薬を出そうとした時、息子が縁側から上がってきた。

 両手には、黄色いビーチボールのような物を抱えている。

 夢に出てきたのと同じ色と大きさだ。実家の物置きにでも仕舞ってあったのだろうか。

「ああ、ごめんな。パパあと少しで休憩するから、それで投げっこして遊ぼうか」

「ううん、違う。爺ちゃんが目薬を借りたいんだって」

「爺ちゃんが? 一日中田んぼにいるのに、目も疲れるのか……」

「これに使うんだって」

 息子が両手を差し出しすと同時に、ボールがパチリと瞬きをした。

 ─どこか哀愁を漂わせる立ち姿。そして()()()……。 

「そうだよな。鳥達に突付かれないように、君も一日中見ていなくてはならないからな。疲れるだろう、海水浴のあとみたいに赤くなってる」

 そうして僕は、稲穂の海の監視員に目薬を一滴さしたのだった。 

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