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episode02 茜色のシャボン玉

 あっという間に年が明け、先週から桜が散り始めた。この3ヶ月の記憶が曖昧だ。元旦から今日までが異常に早かったのだ。つい先日、藤沢は40歳の大台に乗ってしまった。この歳になると誕生日はイベントではなく憂鬱な日となる。別段祝われたいとも思わない。

 40歳になって何が変わったか。何か感慨深いものはあったのか。答えは否である。変わったと言えば日付と体力が衰えた自分自身だ。彼は誕生日当日に「何事も粘るよりも諦めた方が楽になる」と言う悟りを開いた。要約すると「老化現象」である。



 その日は小雨が降っていた。傘を差そうか悩む程度、フワッと纏わり付いてくるような雨だ。場所は埼玉の県庁所在地より更に東、お世辞にも品があるとは言えない片田舎である。生活するのに困らないが、百貨店等は存在せず遊びたければ隣の駅に行かなければならない規模の街だ。


 藤沢は社用車の助手席に乗っていた。彼は典型的な中肉中背、髪色はダークブラウンで綺麗に整っている。表情は疲れており眉間にシワが寄っている。40歳だが老け込んで見えるのは目が死んでいるからだろう。

 運転席は社長が座っている。社用車の車種は三菱のアウトランダー。社長の竹腰は大の車好きだ。小柄の痩せ型で髪色は透け感のあるグレーブラウン。年は50代半ば。いつも笑顔で温厚な人柄である。気は弱いが手先が器用でメカやパソコンに強い。竹腰は福祉事業所の社長で藤沢の上司である。

 本業は福祉だが、竹腰は副業で不動産をやっている。彼は現場の経験があり、ハウスクリーニングを一人でこなす。今日は先日退去した部屋を片付けに行くのだ。事業所はサービス管理責任者に任せ、藤沢を連れてきたのである。この業界で40歳はまだ若い方だ。藤沢はまだ新人だった。



 今年の春は真夏日が続き桜が早く咲いた分、散るのが早かった。美しい桜を拝めたのは数日で、その後は長雨が続き、現在は花びらが道路を茶色く染めていた。社用車は線路脇の小道を進んでいく。辺りは良い意味でレトロ、控え目に言って場末である。


 藤沢がこの街に来て思ったことが二つある。一つ目はカラスが多い。藤沢はこれ程カラスが多い街を知らない。先日、事業所の窓を開けていたらカラスが部屋に入ってきた。カラスは歩いて部屋を一周し、そのまま玄関から事業所を出て行った。鳥が大好きな竹腰社長のセリフが今でも頭に残っている。


「ハシブトガラスだった? それともハシボソガラス? ちくしょう、オレも見たかったな」


 藤沢はそれまでカラスに種類があることを知らなかった。カラス事件の時、社長はタイミング良く事業所に居なかったのだ。悔しがる彼の目は真剣そのものだった。何が悔しいのだろうか。

 そして思ったことの二つ目は本屋が無いことである。駅ナカや駅周辺には大抵本屋がある。しかしこの街には本屋が無いのだ。社長の冗談が今でも耳から離れない。


「この街は識字率が低いんだよ」



 藤沢は社用車の中から寂れた住宅街を眺めて社長とのやり取りを思い出していた。その時、車が徐行に入った。どうやら物件は線路脇にあるらしい。小さな踏切が100メートル先に見える位置で車が停車した。いつの間にか小雨は止んでいた。看板を見ると『コーポ小林2』と書かれていた。

 マンションの外観はグレー、三階建てで一階に6部屋入っている。物件の北と南に駐車場があり、西側に住宅街がある。東側は線路だ。南の駐車場を挟んで向こう側にもう一棟マンションが建っている。あちらが『コーポ小林1』だろうか。


 立ち退いた部屋は一階の奥から二番目にあった。クリーニングの道具を持って通路を進んでいくと、どの部屋の前にもゴミが散乱し、壊れたテレビや灯油の缶、ビールの空き瓶が入っているコンテナケースが積まれている。通路に置かれた洗濯機は見るからに汚い。本当にここは日本だろうか。藤沢は異国に迷い込んだ錯覚に陥った。

 どのような連中が住んでいるのだろう。件の部屋の一つ向こう、つまり一番奥の部屋の前には何故か汚いポールハンガーが置いてあり、らせん状に伸びたフックに大量の傘が掛けられている。社長はクリーニングする部屋の玄関を開け、その傘を扉のスキマにブスッと差し込んで固定した。これで玄関は開放状態が維持される。

 しかし藤沢は驚愕した。その傘は隣人の私物ではないのだろうか。社長の所作からその行為がこの物件ではスタンダードだと理解できた。


(まあ……いいか)


 藤沢は動揺したものの社長に続いて物件に入った。



 その部屋は20.12平米で間取りは1kだった。極々普通の部屋である。そこまでは良い。そこから先が問題だった。部屋全体が茶色く染まっていた。道路を染めていた桜の花びらとは違う。これはタバコのヤニである。壁一面にヤニが染みついていた。

 とにかくタバコ臭い。壁に釘が刺してあり、その辺りは前方後円墳のような形の白い跡がある。跡というか、そこだけ茶色に染まっていない。時計でも掛けてあったのだろうか。退去する時、何故壁の釘を抜かなかったのか、藤沢には前住民の思考が理解できない。それにしてもこの形の時計を最近見ない気がする。住人の年齢が想像できそうだ。

 これだけのヘビースモーカーならトイレ中も喫煙していたはずだが、トイレの中はヤニが染みついていなかった。それは何故か。恐らく扉を開けて用を足していたのだろう。扉が開いていたら煙は外へ逃がせる。その芸当が可能だった理由は一人暮らしだったからだ。エアコンは謎の油脂でベタベタしている。これらを今からクリーニングするのだ。


「じゃあ藤沢さんは壁紙を剥がしてくれるかな。こうやってさ」


 お好み焼きをひっくり返す器具のようなものを壁の桟と壁紙の間に差し込み器用に剥がしていく。簡単に見えるが難しそうだ。力むと綺麗に剥がせず壁紙が途中で千切れてしまう。

 社長は藤沢に指示を出した後、電話を掛けに駐車場の方へ行ってしまった。玄関からではなく南側の窓から出て行った。いつもの頼りない社長ではなく、ワイルドに見えた。藤沢は一人で黙々と作業をこなした。その時、突然玄関から声を掛けられた。


「あれぇ? 親方はどこ」


 声の方に顔を向けると、ハゲた老人がこちらを見ていた。笑顔だが前歯が無い。服装は汚いジャージである。ヒゲは剃られていたが清潔感は皆無だった。眉毛は白髪、肌は褐色で土木作業の人にも見える。手にはプラスチックのバットを持っていた。


「この壁剥がすんだろう? なぁ?」


 汚い老人の挙動は不審だが、人柄は良さそうだ。彼の現場を理解していそうな言動から藤沢はこう思った。


(この物件のオーナーかな、失礼があったら社長に迷惑が掛かるな)


 藤沢は背筋を伸ばして答えた。


「社長は席を外しています! 壁紙は剥がすと言っていました」


 老人はうんうんと頷き笑顔で去って行った。どうやら納得してくれたようだ。それにしてもあの身なりでオーナーとは驚きだ。人は見かけによらないとつくづく思う。あのバットは何に使うのだろう。


 作業を終え、玄関から出ると、オーナーが北側の駐車場に居た。車止めに腰を掛けシャボン玉を吹いていた。片手にはプラスチックバットを持っている。茜色に染まった空と相まって郷愁を誘う光景であった。


(家賃収入で余裕があると優雅に暮らせるんだな)


藤沢はお辞儀をすると南側の駐車場にいる社長の元へ向かった。



 帰りの車の中、藤沢は程よい疲労感に身を委ねていた。しかし仕事はこれで終わりではない。事業所に帰れば雑務が待っている。事業所まで20分弱ある。


「そう言えば社長が席を外している間、オーナーが様子を見に来ましたよ。私の作業をチェックして出て行かれました」


 藤沢の発言を聞き、社長は怪訝な表情をした。


「オーナー? あそこのオーナーはオレだよ」


 社長の返答に藤沢は驚いた。では、あの老人は何者だったのか。藤沢が老人の特徴を説明すると社長は笑いながら驚愕の真実を言った。


「そいつは隣に住んでる山ちゃんだよ! 生活保護のおじちゃん! たまに小遣いやって手伝って貰ってるんだよね」


 何と言うことだろうか。藤沢が頭を下げたのは、不気味なポールハンガーの持ち主だったのだ。その上、生活保護らしい。謎の余裕は国からの保護に起因するものだったのかもしれない。社長はこう続けた。


「生活保護の人は家賃を払ってくれるから良いんだよ。蒸発もしないし」


 確かに生活保護を貰っているなら居なくならないだろう。オーナーからすると山ちゃんは良い住民なのかもしれない。


「一人でシャボン玉吹いてましたよ」


「あ、そうなんだ」


 社長はシャボン玉に興味を示さなかった。『コーポ小林』では見慣れた光景なのかもしれない。藤沢は無職の老人に頭を下げてしまったことに今になって後悔していた。しかし、茜色のシャボン玉を思い出すとどうでも良くなった。それに無断で傘を使用したのだから、こちらにも落ち度はあるのだ。


(最後にシャボン玉で遊んだのは何歳の頃だっけ)


 藤沢は助手席でウトウトしながらそのようなことを考えていた。

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