#02
どれくらい経ったのだろうか…
朱音はまだ落ち続けていた。
あまりに長いこと落ち続けているので、もはや、今の状況に、退屈さえ感じる。
「…これ、いつまで落ちるんだろう」
ずっと変わらない景色。
ずいぶん前から、ずっと遠くの下方から光が見え始めたが、それが一向に近づく気配が感じられない。
息も吸えるし、頭もハッキリしている。
「トイレとか、大丈夫かな…」
あまりのヒマさに、どうでもいいことまで心配しだしてしまう。
心配と言えば、最後に聞いた亜里沙の声が脳裏に焼き付いていた。
「亜里沙…泣いてないかな」
切り替えの早さは、家族一だが、なんだかんだお姉ちゃんっ子で、昔から朱音のあとに付いて回る子だった。
「私がいなくても、大丈夫かな…」
目を閉じると、さっきまでの光景がすぐ浮かぶ。水で無邪気に遊ぶ、大人っぽい体型からは想像もつかないほど甘えんぼうで寂しがりやのただ一人の妹。
その妹を泣き止ます唯一の方法が、歌だ。
昔から、何かあって泣いている妹を、歌をうたって泣き止ませるのが朱里の役目になっていた。
朱里は、目をつむると、先ほど泉で歌ったうたを口ずさみはじめた。
きっと自分がいなくなって泣いているだろう妹に届くようにと…。
その時、足元からぐっと引っ張られるような感覚に陥った。今までは、優雅にふわふわと漂っていたのに、今度は下の方へとまたもや見えない強い力で引っ張られていく。
そして、さっきまでは何も感じなかった体の周りは、少しずつ温かくなり始め、その温度はどんどん上昇していく。
なんだろう、何だか呼吸もしづらい…。
いや…呼吸が、できない…!!
(く、苦しい…)
今度こそ本当に死ぬ!
目を固くつぶり、見えない水に抵抗しようと必死に体を動かすと、手に何かが当たった。それが何かは分からないが、とりあえずそれを力の限り引っ張る。
そして、朱音は、勢いよく熱いお湯の中から顔を出した。
湯気が立ち込める大きな大理石の浴槽の中に、朱音はいた。
視界はぼやけてよく見えないが、とりあえず自分が生きていることは確認できる。
水を幾分か飲んでしまったせいか、咳が止まらない。朱音は手を胸元に当て、必死に呼吸を繰り返す。咳が落ち着き、呼吸が楽になってきた頃、ぼやけていた視界が段々とクリアになってきた。大勢の足音と、怒ったように叫ぶ声、そして、目の前には裸の男。
「…お、男!?」
朱音は思わず、後ずさった。
そして、自分が先ほど引っ張ったのはその男の腕だったのだと、今もなお掴んでいる自分の手で悟った。
しかし、慌てて離した時には事既に遅し。
大勢の衛兵たちに槍を突き付けられ、自分の立場を瞬時に理解した。顔から滴るのは、お湯のせいか、いきなり突き付けられた恐怖で流れた自分の汗なのか、分からなかった。
朱音は、びしょぬれのまま別室へと連れて行かれた。
両手は、タオルできつく縛られ背中に回されている。そして先ほど掴んでしまった腕の男の前に、膝をつかされていた。もはや裸ではなく、シルクのように滑らかで真っ白のローブに、金色と赤の刺繍が施された帯を締め、金の装飾が目立つ椅子に座っている。怖い顔をした男性を真横に複数人も従えていることから、おそらく相当位の高い人物だと理解した。
そして、自分がどんな悪いタイミングで、悪い場所に出てきたのかも、理解できた。両足は自由なものの、横を向けば槍の先端が光り、背中にも数人の視線が感じられる。下手に動こうものなら、すぐにその槍で刺されるだろう。
朱音は恐怖でガタガタ震える体をどうにか抑えようと必死だった。自分から滴る水で下に敷かれた赤い絨毯に、どんどん水たまりを作っていく。
顎の下にも上を向かせるよう、槍を構えられていたため、長い金髪を携えた椅子に座っている男と目を合わせないようにすることは不可能だった。
そのすぐ横に立っている、同じ金髪をした男が朱音に向かって怒鳴っているが、何を言っているのか全く見当もつかない。英語でもないし、大学の時に少し勉強したフランス語でもない。
男の声がどんどん荒く、大きくなっていくのは、自分が黙っているから。
それは分かっていても、何一つ聞き取れる言葉がない。理解できる言葉がない。男が一つ言うごとに、隣の槍が頬に触れる。恐ろしいほどひんやりした感触に、泣いても意味がないと分かっていても、涙を止めることが出来なかった。
しかし、このままでは埒があかず、本気で命の危険を感じた朱音は、勇気を振り絞って、喉の奥から声を無理やり絞り出した。
「わ、私は四宮朱音。とつぜん水に襲われ、気がついたらここに来ていました。私は何もしていません。何も分かりません。お願いですから、誰か言葉が分かる方を連れて来て下さい」
通じているか分からないが、とにかく言葉を選び、丁寧に話す。
だんだんと冷えて来た体の寒さと相まって歯がガチガチ鳴るが、朱音は涙を流しながら訴え続ける。
「どうか、言葉が通じる方を…」
椅子に座っている男が、近くの男を呼び、何かを伝えた。また、怖い顔をした人が力強い声で、朱音に向かって怒鳴るが、朱音は「言葉が分かる方を…」としか言えなかった。
すると、椅子に座っていた男がすっと立ち上がり、ゆっくりと朱音に近づいて来た。朱音は恐怖で目を見開いた。
なに、されるの…?
体が硬直するのが自分でもわかる位、恐怖が体中を駆け巡る。
しかし、淡いスカイブルーの瞳をした男は、朱音の前に来ると、小声で何か知らない言葉を呟いただけだった。
ふと、小さな光の粒がどこからともなく現れ、朱音の体の周りをクルクルと回り始めた。朱音はその様子を見ているしかなかった。その粒は、ゆっくりと朱音の体内へと入って行く。痛みはなく、ただ温かい感触だけが体中に広がった。
「私たちの言葉が分かるか?」
男が静かに聞き、驚きながらも朱音は頷いた。
「…わ、分かります」
言葉が通じるようになった朱音は、そのままの格好のまま尋問されるようだった。
「お前の名は?」
またもや先ほどの椅子に座り直し、男は何事もなかったかのように尋ねた。
「四宮、朱音…です」
「アカネ…。聞いたこともない名前だな」
顎の下にある槍のせいで、考え込む仕草をしている椅子の人から目を離すことは、まだ許されない。
「どこから入って来た?」
「…わ、分かりません」
朱音は正直に言ったつもりだったが、その隣で朱音を始終睨んでいた男性が声を荒げた。
「王子に嘘を申すと、あとでどうなるのか、まだ分からないのか!!」
「ほ、本当なんです!」
朱音の頬にまたもや涙が流れた。
「別の場所にいたはずなのに、水に襲われて、気づいたらここに来ていたんです!本当なんです!」
信じて下さい、と言うしか朱音には残されていなかった。
こんなところでまた怖い思いをするなら、水の中で眠っていた方がよっぽど良かった。
涙が滝のようにあふれ出すが、ぬぐうことも許されない。
「お前は西の女王に召喚された娘かもしれない」
王子がゆっくりと口を開いた。
「王子!しかし…」
「全ては予言通りだ」
有無を言わせない物言いに、立っている男性は静かになる。
朱音の頭は、「西の女王」「召喚」「予言」でいっぱいになった。
私が女王に召喚された…?意味が全く分からない。
私は満おばあちゃんのように予言も出来なければ、不思議な能力も少しも持ち合わせてはいない。
「これを使えば、すぐに分かるはずだ」
そう言って、王子は立ち上がり、朱音の目の前に来ると後ろに立っている衛兵たちに手のタオルを取るようにと命令した。
手が自由になっても、ガタガタ震える体を止めることは出来ない。
王子が厳重な箱に入れてある星型のネックレスを差し出した。
「これを持てば、お前が本物なのか分かるだろう」
断ることも許されないこの状況で、朱音はおそるおそる手を出し、それを手のひらに乗せた。
これで、何も起きなかったら、きっと私の命はない…。
さっきの光玉のように、何かしら起きることを心の中で念じた。
すこし冷たく重いネックレスは、朱音の手の中で何事もないようにじっとしている。
お願い…!お願いだから、何か起きて…!
しかし、朱音の切なる願いもむなしく、何かが起こる気配は全くない。
数分が数時間のように感じられた。側近が呟いた
「王子…これは」
王子がため息を吐いた。
「これで、はっきりしたな」
今度こそ殺される…
朱音は最後の希望さえも失くした。
これで終わり…
私の人生、これで終わりなんだ…
私はここで死ぬんだ…
王子が皆に聞こえるようにはっきりと凛と通る声で言った。
「正真正銘、予言の娘だ」
王子がそう言い放った言葉から、全てが一変した。
突き付けられていた全ての槍がどけられ、丁重に立たされと思ったら、また別の場所へと連れて行かれた。
想像していた牢獄ではなく、豪華絢爛というにふさわしい大きな寝室。
何が起きているのか訳が分からず、朱音は、ふかふかのベッドに座わらされた瞬間、脱力と共に意識を手放した。