#01
「ただいま~」
2つの声が重なり、平屋の家の前でこだました。
その声を聞きつけた、エプロン姿のお母さんが手を拭きながら、急いで玄関のドアを開けた。
「おかえり~!…あれ、なんで朱音はスーツなの?」
朱音は不機嫌そうに答えた。
「仕事してから来たから」
「ねぇ朱音、また太ったんじゃないの?」
話を聞いているのか、いないのか、仕事をしてきたという朱音の言葉を無視して、本人が一番気にしていることを平気で言う母。
「私も思った!お姉ちゃん、また太ったよね~」
朱音と一緒に帰省したのは、5つ下の妹、亜里沙だ。
「またお父さんに似たと思わない?小太りだし眼鏡だし」
軽快に笑いながら亜里沙は家の中へと入って行く。
「本当に、私の遺伝子どこに行っちゃったのかしら…」
お母さんが困ったように言った。
「ほっといて」
妹に続いて、朱音も家の中へと入る。
元モデルをやっていたお母さんを親に持っているにも関わらず、何一つ受け継いでいないのは朱音の外見を見れば一目瞭然だった。
低い身長に、ストレス太りしたぽっちゃり体型。パソコン仕事が長いせいで悪くなった視力には、大きなメガネが必需品だ。今は、ストレートパーマを当てているが、雨になるとせっかくまっすぐにした髪がすぐに巻かれてしまう天然パーマも持ち合わせている。
「あ、プリンだ!」
居間ですでにくつろいでいる妹が、母親の要素を全て兼ね備えていた。
170㎝近い身長に、すらりとした長い脚。綺麗なストレートの髪は、染めて金髪に近い茶色に染めている。二重のぱっちりした瞳に、長いまつげ、そして高い鼻。どのパーツを取っても、妹と似ている場所なんか一つもない。街で歩いていても、姉妹に見られることは一度もなく、妹がナンパされるところを助け出した記憶しかない。
「手洗ったの?」
もう何年も使っていない自分の部屋に行き、荷物を置きながら、既に居間で寝転がっている亜里沙に厳しく言う。
「お母さん、手拭き~」
自分は動かずに、誰かを動かすのが上手い妹は本当に人生楽していると思う。
「自分で洗面所に行きなさいよ」
「いいのよ、朱音」
お母さんは、朱音をなだめながら亜里沙に手拭きを渡す。
「そうやって甘やかすから…」
妹は本当に凄い。人を上手に動かす上、その動かした相手の気分も損ねないのだから。
18歳の時家を出て、東京で就職を決めてから既に5年が経っていた。その時の私はかなりの努力をしたのに、今ちょうどその頃の私と同い年の妹は、東京の美容専門学校に行っては、友達と楽しい東京生活を謳歌している。
親に説得され、家を貸すだけでなく食費もお小遣いも、全て姉の朱音が面倒を見ていた。
「さ、そろそろ夕飯にしましょ。朱音、手伝って」
「は?私、仕事して来て…」
疲れてるんだけど、なんて既に台所に向かっているお母さんの耳には届いてなかった。その様子を、プリンを食べながら、ニヤニヤして見ている亜里沙。
「はぁ…」
いつもこうだ。
朱音は、諦めて部屋着に着替え、プリンも説得も諦めて夕飯の手伝いをし始めた。
「そろそろ、着くころかしら?」
所せましと食べ物が置かれているテーブルの上に、最後の煮物を置いてお母さんが言った。
「誰か来るの?」
唐揚げをつまみ食いしながら、亜里沙が言った。
「うん、満おばあちゃんが」
時計を見ながら言うお母さんには、娘の表情が変わるのが見えなかった。二人は顔を見合わせた。
「うそでしょ…」
「マジ…」
満おばあちゃんは、お父さん方のお母さんで、二人とも小さい頃から苦手なタイプだった。
常に黒い服を着ているというのも理由の一つだが、口を開けば昔の都市伝説や、根も葉もない迷信を、低い声でいちいち二人に聞かせるのだ。基本的には、お父さんに似て寡黙なのだが、子供の頃にさんざん脅かされた記憶は決して消えない。
「私、無理だよ、おばあちゃんと話すの」
亜里沙が隣でこそっと呟いた。
「私だって嫌だよ」
外で庭いじりをしていたお父さんが合流し、あとはおばあちゃんを待つだけとなったが、何となく空気が重たい。
「私なんて、小学校入る前にサンタはいないって言われたんだから」
亜里沙が朱音の袖口を引っ張った。朱音も負けじと言い返す。
「私は、運動会に出たら骨折るって言われたよ」
結局、その予言が怖かったせいで、ゆっくり走り、ビリになってクラス全員からひんしゅくを買うという、ある意味骨折より怖い結果になったのだが。
「今日は、お姉ちゃんがどうにかして!」
そう話している内に、チャイムが鳴りお母さんが玄関を開けに行った。
「遅かったですね~」
「時間を遅くしないと不吉って、予言に出たからね」
また、怖いこと言ってるよ、と朱音と亜里沙は顔を見合わせる。
「こんばんは」
声に不信感が出ないように、今回もまた全身真っ黒のおばあちゃんに二人で挨拶をする。
普通であれば、ここ何年も会っていないのだから「久しぶりだったか」とか「元気か」と挨拶をするものだろうが、満おばあちゃんにそんな平凡な会話は必要ない。話しかけたところで無視されるのがやまだ。
そして気まずい夕食が開始した。
「今日は、仕事だったんだって?」
久しぶりに帰省した娘を気遣ってか、珍しくお父さんが口を開いた。
「うん。まだ仕事が残ってたから。それに、まだ未熟なのに有給取らせてもらうのも、気が引けるし。出来ることは早めに終わらせたくて」
「仕事は順調なの?」
今度はお母さんが会話に加わる。
「一応…」
「でも毎日遅いよ、帰って来るの」
亜里沙が、エビフライを口に運びながら言った。
「この前、仕事場に遊びに行ったんだけどさ、めっちゃ仕事押し付けられてた」
「いいから、そういうこと言わなくて」
妹に負けじと、おかずに手を出しながら朱音は言った。
「仕事のしすぎじゃないのか?」
お父さんは心配そうに片方の眉を上げた。
「お姉ちゃん、容量がいい方じゃないから、仕事が終わらないんでしょ」
「余計なお世話」
あながち間違いでもないから、言いかえせない。
「それでそんな太っちゃったの?」
お母さんが哀れみのまなざしを向けた。
「まあ、妹の分も生活費を稼いでいるものですから」
ストレス溜まっても一生懸命働かないと。と言葉の端に棘を含む言い方をして返してみるも、天然が混じっているお母さんと妹には通じない。
「でも、最近いいことあったみたいなんだ、お姉ちゃん」
「え、何かしら?」
「職場に好きな人がいるんだって」
「ちょっと、亜里沙」
「あら!誰なの、朱音?」
止めようとするが、新しいおもちゃを見つけたかのように喜ぶ妹は、目の前に座っているお母さんに聞こえるように、身を前に乗り出した。
「営業課の、高森って人。お姉ちゃんと同い年なんだって」
「なんで、高森さんのこと知っているのよ…」
「で、どうなの?その人とは?」
お母さんは楽しそうだ。
「こんなお姉ちゃんを相手にすると思う?」
「言ってくれるね」
「誰とも全然打ち解けられてないじゃん」
一度職場に来ただけで。
洞察力がある妹が時々恐ろしく感じることがある。
しかし、その恐怖のさらに上を行くおばあちゃんが、突然、ガチャンと茶碗を下におろした。
一瞬にして、その場が静かになる。
「どうかされました?」
お母さんが、口に合わないものでありました?と聞くとおばあちゃんは、ふと呟いた。
「明日は、蒼月だね」
また始まった。
朱音と亜里沙は、無言で目を合わせる。
どうせ、不吉とか言うんでしょ。
「月が蒼くなる日は、不吉なことが起きる」
ほらきた…。
すぐさま亜里沙がスマホを取り出して、明日の月の動きを検索する。どんなに調べても「月が蒼くなる」という予報は出ていない。
「おばあちゃん、明日は普通の三日月みたいだよ」
おばあちゃんは亜里沙の言葉を無視し、「不吉じゃ」と言ってその場を離れた。
「自分が不吉なのを、そろそろ気づいた方がいいよね」
亜里沙が大きな声で言うのを、朱音が止める。
「やめなさい」
「おばあちゃん、友達がいなくて寂しいのよ」
お母さんが、同情を買うような表情でおばあちゃんの部屋を見つめた。
「あれじゃあね」
呆れたように亜里沙が言い、朱音も同感せざるを得なかった。
久しぶりの実家は、思った以上に羽が伸ばせそうだ。
食事の準備は手伝うものの、早起きをしたり料理をしたりする必要がない。目覚ましもかけずに眠ったが、いつも早い時間に起きるため、結局いつものように目を覚ましてしまった。しばらく布団の中で、ゴロゴロしているとお母さんの「朝ごはんよ~」という声が聞こえた。
朝ごはんが出来たと起こされるなんて、いつぶりだろうと、パジャマのままリビングへと向かう。
食卓の上は、まだ用意されていなかった。
「あ、朱音おはよう。用意お願い」
お母さんが目玉焼きを作りながら言った。
みんながすぐに集まらないのを見越して、早めに声をかけたのだろう。
結局、朱音は食卓の準備をするはめになり、いつもタイミングがいい妹亜里沙は、全員がそろい、全てのセッティングが終わったあとに姿を現した。
「その能力欲しいわ…」
ぼそっと呟いた朱音の言葉は、まだ半分も覚醒していない亜里沙の耳に届くことはなかった。
相変わらず黒いパジャマを着ているおばあちゃんは、静かに味噌汁をすすっているかと思えた。しかし、その眼は何か言いたげにずっと朱音を見ている。
「どうかした?」
その視線に耐えきれなくて、朱音は魚をほぐしながら聞いた。その質問を投げかけるまで、ずっと視線を送って来るだろうことが分かったので、しぶしぶだ。
朱音が自らおばあちゃんに声をかけたのを聞いた亜里沙が、ここでやっと覚醒した。
「朱音、お前は…水難の相が出ているよ」
何となくおばあちゃんの口から出る言葉は覚悟していた。
どうせ、何の根拠もないあてずっぽうだろう。
「気をつけなはれや」
しかし、朱音は一瞬だが恐怖めいたものを感じてしまった。
「もう、やめようよ。おばあちゃん」
呆れを通りこして、怒りを覚えながら亜里沙が言った。
「こう見えてお姉ちゃんはビビりなんだから」
「ビビり言うな」
「怖がって、亜里沙と遊んでくれなくなったら、おばあちゃんのせいだよ」
「なんで、あんたと遊ぶこと前提なの」
お母さんとお父さんも同じように、全く気にしていないようだ。朱音と亜里沙が仲良さそうに話しているの、微笑ましそうに見ている。
おばあちゃんは、亜里沙の言うことを聞いたのか、言いたいことを言って満足したのか、ご飯が終わると部屋へと戻って行った。
夏が終わりに近づき、秋の心地よい乾いた風が吹いている。
庭先にあるベランダから、外を眺めていると木がさわさわ揺れているのが見える。
なんてのんびりした時間だろう…
東京で仕事をしていた昨日までが、まるで夢のように感じる。
朝5時には起きて、朝ごはんも食べずに出社する。基本的には一番乗りし、まだ終わっていない仕事を片付ける。そして、糖分が必要になる頭のために買ってきた、生クリームが沢山乗った甘いドリンクと菓子パンを食べ終わった頃に、少しずつ人が増えてくる。もちろん夜も遅くまで仕事をするのが日課になっているため、休憩時間にコンビニまで走り夜食用の食べ物を引き出しの中にストックしておく。
お腹が空いたらそれを食べ、最終電車まで粘って仕事を続ける毎日を送っていた。
それが染みついているせいか、じっとしているのが落ち着かなくなり朱音は立ち上がった。奥にいるお母さんに声をかける。
「ちょっと散歩してくる~」
お母さんの「はーい」という声と共に、亜里沙もやって来た。
「私も行く!」
「道がきれいに舗装されているね」
数年ぶりに帰って来た田舎は、もっと住民が住みやすいように山道も改善されていた。昔はうっそうと茂っていた森林も、木の数がだいぶ減り、薄暗くて不気味だった山道は遠くまでもよく見通せるようになっている。
少し前を亜里沙が歩き、それに付いていくように朱音は周りを見渡した。
「少しずつ変わっていくんだね」
ふと亜里沙が立ち止まって、振り返った。
「ねえ、こんな道あったっけ?」
広い砂利道の脇に、人、一人は通れるだろう細いレンガ道が新しく作られていた。
観光客が分かるようにか、きちんとした看板も立っている。
「鏡の泉、だって」
最近造られたであろうキレイな木目の看板を読みながら、亜里沙は言った。
「こっち、行こうよ!」
腕を引っ張られ、半ば強制的に朱音は細い道へと入って行く。
少し歩くとすぐに、水の音が聞こえてきた。
「へぇ、こんなところあったんだ」
朱音は思わず顔がほころぶのが分かった。
林を抜けた先には、まるで空の色をそのまま映したかのような色をした泉があった。
「すごい、きれい!」
亜里沙ははしゃぎ、何の躊躇もなくサンダルのままバシャバシャと水の中へと入って行く。
純度の高い透明感のせいか、浅瀬であることは一瞬で分かった。
朱音は、近くの岩場を見つけ、そこに歩いて行って腰かけた。
静かな、午後だ。
森が風を受けてさわさわと音を立て、鳥が楽しそうに鳴く。自然に囲まれるのはいつぶりだろう。目をつむると、風の音と、亜里沙が楽しそうに水と遊ぶ音で脳内がいっぱいになる。東京では当たり前だった頭が痛くなるほどの騒音と、下水臭のない、この空間。
何だろう、この気持ち…
朱音は心の奥から込み上げてくる、幸せを感じていた。
そして、鼻歌を歌いだした。
「昔から、歌だけは上手だよね」
いつの間にか目の前にいた亜里沙が、嬉しそうに言った。
「だけ、は余計」
そう言いながらも、気分がいいので鼻歌を続ける。
「ねえ、お姉ちゃん。水に入らないのって、おばあちゃんの言葉気にしてるから?」
ニヤニヤしながら亜里沙が、水をひっかけてくる。
「べ、別に気にしてないし…」
半分嘘で、半分本気だ。
おばあちゃんの予言が当たったことは、人生において一度もないが、おばあちゃんの放つ言葉にいちいち反応してしまうのは、子供の頃からの抜けない癖だった。
「気持ちいいのに」
気持ち良さそうに泉を歩いている亜里沙を見て、朱音も靴と靴下を脱ぎ、足を水に付けてみる。
ひんやりして気持ちがいい。
まだ夏の暑さが残るので、Tシャツに短パンというラフな格好をしていてもお日様が頭上に来ると暑く感じる。
にもかかわらず、この水は一定の温度なのか、ぬるくはない。
「確かに気持ちいいわ…」
思わず呟くと、亜里沙も「でしょ~」と言いながら浅いところをぱちゃぱちゃと歩きまわっている。
水も風も、太陽も、土の香りも、全てが心地いい。
朱音はまた、目をつむり、今度はうたを歌いだした。
「な、なにあれ!」
突然、亜里沙が大声を出すのを聞き、朱音は歌うのをやめた。
亜里沙は後ずさりをしながら、朱音の岩場の方へとやってくる。
妹の視線の先を辿ると、先ほどまで、何もなかった泉の真ん中から水の泡がコポコポと噴出している。そして、それが次第に大きくなりどんどん高く上へと上がっていく。
2人は何が起きているのか分からず、ただその状態を見つめるしかなかった。
水がどんどん一か所に集まりはじめ、泉だった水は一つの大きな柱になっていく。
「何アレ…」
亜里沙が恐怖におののいた顔で呟いた。
「こっち…ありさ、こっち来て。早く!」
普段なら全くいう事を聞かない亜里沙が、朱音の言葉に従おうとした瞬間、水柱がまるで生き物のように二人に襲い掛かって来た。
亜里沙が悲鳴を上げる。
朱音の頭には、とにかく妹を助けないと、という思いしかなかった。
すぐさま亜里沙の腕を掴み、今来た道を全力で走ろうとする。
しかし、亜里沙の足が水にすくわれ、転んだ。水柱が二人めがけて襲って来た時、とっさに朱音は亜里沙の前に立ちはだかった。
「お、お姉ちゃん!?」
朱音の体が水柱に吸い込まれていく。
「逃げて、ありさ…」
水に呑み込まれながら必死で朱音は叫んだ。
しかし水柱は、標的は一人で十分とでもいうように、朱音だけを、まるで生き物のように強い力で水中へと引きずり込む。
そして、そのまま水の泡となって消えて去った。
「おねえちゃああああん!!」
亜里沙の悲鳴に似た叫び声が、森中にこだました。