プロローグ
空が高く見渡せる石造りの神殿で、静かに一人たたずむ女性がいた。
頭上できれいに縛られている漆黒の髪は、床に付きそうなほど長く、月明りで照らされた痩せこけた顔は、青白く輝いている。一見普通の女性に見えるが、耳は鋭くとがり、見開かれた瞳は真っ赤に燃えていた。
「もうすぐか…」
声は夜空にかき消されそうなほど、か細く弱々しい。
突然、ドクンと体中の血液が波打ち、女性はその場に崩れ落ちた。荒く肩で呼吸をしながら、「時間がない」と小さく呟く。
その時、階段の下から大きな声が響いた。
「女王陛下!」
数人の階段をかけあがる靴音と、何かを引きずるような重い金属音が響く。
「間に合ったか…」
陛下と呼ばれた女性は、未だ苦しそうに息をしたまま、早足で近づいた男性に抱えあげられる。
「私を水鏡へ」
静かに、しかし威厳を保ったまま女王は言った。
「はっ」
女王の三倍はあるだろう体格の男性は、すぐに言われた通りに動いた。壊れ物を大事に抱えるかのように女王を石段の頂上へと連れて行く。
着いた先には、巨大な鏡のような水盆があるだけだった。一面に広がる水が静かにたゆたい、空に浮かぶ大きな蒼い月を映し出している。
「ブルームーン…」
女王の近くにいた男性が、空を見上げて呟いた。女王は何も言わず、水盆の近くに歩み寄り、数段ある階段の前で止まった。
「生贄はどこだ」
冷たい声でそう言い放つ。
男性の後ろから、口を塞がれ、両腕を背中で縛られている若い女が、複数の男性に鎖で引きずられるようにして現れた。
「ここに」
「連れてこい」
女王の命を受けて、大木のような男性が代わりに女の鎖を掴む。そして強く引っ張りながら女王に差し出した。
女は、大きな緑色の瞳から大量の涙を流すしか出来なかった。自分がどうしてここいるのか、なぜこういう状況になったのか、分からないのは自分だけだ。
女王は、女の鎖を受け取ったあと、階段を一番上まで上るよう指示した。
この状況下で命令に逆らえるはずがない女は、両腕と口を縛られたまま、恐怖で震える足を一つずつ階段に乗せて昇って行く。
足下には巨大な水盆があるだけで、これから何が起こるのか全く見当がつかない。その場に座りこみ、隣に立った女王に救いのまなざしを向けるが、女王の冷徹な目は、一度も女と合うことはなかった。
女王は、床に跪き、何かを呟き始める。
最初は何か呪文のように聞こえたが、どこか子守歌のようにも聞こえる。不思議なその音色に、その場にいた全員が少しずつトランス状態になり始めた。しかし、下から響くゴゴゴゴという地を揺るがす音で、一斉に我に返った。
なんと、水が動いている。
だんだんとせりあがって来る水に恐怖を感じた。
さっきまで静かに、ただ風に揺られていた水がどんどん怪物のように変化し始める。女王の呪文は止まらない。ついに、腹の底に響くドンっという大きな音がしたかと思うと、突然石段と共に、女は水に飲みこまれた。
まるで生き物のように力を得た水が水盆からあふれ出し、辺り一面に流れ出す。
「女王陛下!」
大男が、慌てて女王に駆け寄り、意識を失い倒れている女王をかかえて急いで小さな神殿を駆け下りていく。その後を数人の部下たちが追いかけるようにして、留まることを知らない洪水から必死に逃れる。
その光景を見ていたのは、夜空に薄気味に輝く、ただ蒼く光る月だけだった。