すれ違う君へ。
私は今日という日を犠牲にして、家族が生きる糧を得るために電車に揺られる荷物になっている。
大学という最後のぬるま湯から抜けだして、社会という大海原に放り出され、会社という組織の歯車になって気が付けばもう20年の歳月が経っていた。
それは誰もがやっている事で誰もが諦めている事だと自分を慰めて、ただ静かに人生というレールの上を電車に乗って運ばれて、家族と自分のために自身をすり減らしていく日々を繰り返す。
私は初めから妻に愛情など初めからなかった。
友人に無理やり連れられた飲み会で意識が無くなるほど飲まされて、気が付いた時には裸の嫁が居た。
そしてそれがきっかけで子供が出来たと言われ、だから責任を取って結婚をした。
妻だって私に初めから愛情を感じては居なかった。
ただ子供が出来たから仕方なく結婚すると私に言い切った、彼女の苦虫を噛むような顔をよく覚えている。
これが互いに愛情など存在せず、ただ責任感だけで結ばれた婚姻関係の始まりで、レールの上を走るように、顔合わせと結納をした。
私達よりも、両家の親兄弟の方が嬉しそうで幸せそうだったのが印象的で、私はその姿に何も言えずただ愛想よく笑っていた。
そうして迎えた結婚式では、どうして私は酔った勢いとはいえ、この家族の情すら湧きもしない人に手を出したのだろうと、人生唯一の性行為を振り返りながら神様に嘘を付き祝福に駆けつけた人々を欺いた。
それが自身の30年を掛けて買った一軒家の一番狭い一部屋、冷め切った適当な惣菜、安い発泡酒だけが私の人生の慰めになった瞬間だった。
そうして生まれた娘は嫁に似たのか可愛いと言えるのかもしれない、だが朝早く夜遅い私に全く懐かず、結果として全く娘に愛情を抱けずにいる。
ここ数年は避けられるようになり、一緒に暮らしていても殆ど話したことがない。
私は家族にとってはただのATMという様な存在で、きっと家族は仮に今日私が死んでも死よりも金銭的な問題を気にすると思う。
そんな枯れ木のような人生を過ごす私でも、朝のこの電車で一つだけ楽しみがある。
平日の朝の7時25分の駅のホームに彼女を見つけて、私は安堵のため息を零す。
白く透き通る肌をセーラ服に包んだ黒く長い髪が文学少女然としている立ち姿、何かの本をいつも楽しそうに読む微笑みが私の瞳に映る。
私は今、この名も知らぬ少女に、声すらも掛けることも許されない恋をしてしまった。
下手をすれば自身の娘といえる年の離れた少女へ、倫理的も社会的にも許される筈も無い恋、まるで手の届くことない星に手を伸ばす、愚かで救いようのない秘めることしか許されない愚者の恋だ。
彼女はいつも私と反対の立って、出入口の反対側に立ったままで静かに本を読んでいる。
永遠とも思える僅か数メートルの距離の届かぬ星を、2つ先の停車駅まで私はただぼんやりとしているように観測する。
これが私に与えられた至福の時間で、落ち着いた品の良い女子校のセーラー服を身に纏う彼女は、いつも決まった場所で長くて綺麗な黒髪を時々掻き上げながら、ただ静かに本を読んでいる。
周りの若い子達が友達と騒ぎながらスマホでSNSやゲームをやっていても、彼女だけはいつも静謐だった。
少し俯きがちの物語を追う彼女の視線は、驚きや喜び、時に悲しみや恋慕など様々な色を放ち全てが輝いて見えた。
この僅かな時間の中、世界中で彼女の持つ二つ瞳という星の瞬きを観測している者は私だけだと思うと、なにかとても高尚な事をしていると錯覚する。
その錯覚は、私の心になんとも言いようのない充足感を与え、暖かさと共に広がっていく。
そんな事はあり得ない大人げないことをするんじゃないと、自身の冷静な部分が否定を投げかけ警鐘を鳴らすが、私は観測するのをやめることが出来ない。
そうして彼女が降りる駅に辿り着いた時、私と彼女の人生がほんの少しだけ近づく、この瞬間が私の至福で、一番悲しい別れの時間だ。
こうして今日も彼女は、私の存在など気にも留めずにすれ違い、僅かにその髪が纏う香りと私の存在を残して電車を降りる。
今、私は生まれて初めての『恋』を、感じている。
私はきっと愚者だろう、人生が半分終わって初めて人を心から愛することを知り、そしてそれが遅すぎたと気が付いたのだから……。