その10
「まずは自己紹介を。私は三年の扶桑ヒトミという。この部活の部長にして唯一の部員だ。活動内容は受験勉強、部活動として大学の二次数学試験に向けて勉強を進めているよ。以上、何か質問があれば受け付けるけれど」
ヒトミ先輩はそう言い放つと、やるべきことはやったと言わんばかりに読書を再開した。困惑に顔を見合わせる俺とユイカだが、果たしてこの先輩に何を尋ねたものだろうか。
今日一日怒っていなかったユイカの視線が期待しているぞと語りかけてきているようだった。前髪が邪魔で表情は読めなくとも、なんとなく伝わってくるものである。仕方なく、意を決して口を開く。
「あの、扶桑先輩? 質問いいですか」
「いいよ、何かな」
歓迎していない様子に反して、取り付く島もないというわけではないらしい。話しかければ目線はしっかりこちらに向くし、自分の時間を邪魔されてイライラしているといった風でもない。少しだけ緊張は解けた。
「まず聞きたいんですけど、部員は募集してるんですかね?」
「ん……そうだね。来る分には拒むことはないよ」
言い淀んだところから察するに、あまり勧誘に熱心ではないらしい。まあ、部屋に入ってからの彼女の態度からすれば妥当なところである。
「他の部員はいないんですか?」
「ああ。去年まではもう少し人がいたんだけど、卒業して残ったのは私一人だけさ。一応、幽霊部員はいないこともないけど、今年で部としては終わるかなと考えていたところだよ」
「なるほど。あとは、部活内容についてなんですけど、やることって受験勉強だけなんですか?」
「別に数学系のことなら何やっててもいいと思うよ? 過去の先輩たちが残していった参考書も色々あるし、必要なら自分で持ち込んでもいい。何もしなかった、じゃ成果発表で少し困るけど」
「結構自由なんですね。じゃあ、活動日とかって決まってますか?」
「私は放課後なら大体部室にいるけど、基本的に活動日は自由だよ。それが祟って段々人が減っていくんだけどね」
「わかりました、ありがとうございます」
他に何か質問はあるかな、とヒトミ先輩の視線がユイカに向けられる。初対面の年上相手、ということもあってか、ユイカは逃げるように俺の後ろに隠れた。
ヒトミ先輩は厳しい表情を浮かべる。たぶん怒ってはいないと思うが、声をかけただけで避けられるというのは気分が良くはないだろう。元々キツめの顔つきなのもあって、怒っているように見えがちだ。
一方のユイカは萎縮しっぱなしである。結局どうしたいのかもわからないし、一度相談する時間が必要か。
「何もないのなら帰ったらどうかな。見ての通り、この部屋じゃ座る場所も用意できないからね」
「あー、すみません。ちょっと廊下でコイツと話し合ってきます」
「そうかい、じゃあね」
ひらひらと手を振るヒトミ先輩に礼をして、ユイカの手を引いて部室を出る。
扉を閉めると、ユイカの大きなため息が聞こえた。緊張しっぱなしだったのだろう。部室に入ってからは終始無言で、ずっと制服の袖を掴まれていたくらいである。
それにしても、ここまで人見知りが酷くなっていたのは予想外だった。なんだかんだミズキとは仲良くやっているようだが、あれはあちらの遠慮なく距離を詰めてくる物言いがいい方向に作用しているのか。少し冷たい態度を取られただけで口を閉ざしてしまうというのは、あまりよくない傾向である。
ひとまずは部活の話だ。個人的には手芸部と茶道部に比べれば、おそらくマシな部活ということになるだろう。男女比は1:2に収まるし、活動内容も程々に緩く、軽く話してみた感じでは先輩も悪い人ではなさそうだった。
問題はユイカだ。数学部は人数の少ない部活だ。人間関係が上手くいかない場合、長く続けるのは難しいことは想像に難くない。
「で、どうする」
「どうする、って言われても」
「数学部だよ。扶桑先輩は苦手か?」
「うーん……どうかな、まだわかんない」
おや。てっきり苦手という答えが返ってくると思ったが、少し予想外だった。
悩んで唸り声をあげている姿は端的に言って近寄りがたいが、その思うところを聞いておきたく、続きを促す。
「こーくんはそんなにあの先輩が苦手じゃないんでしょ? だったら、私も仲良くなれるのかなって」
「いや、俺があの先輩と仲良くなるのと、お前が仲良くなるのじゃ別問題だろ」
「そうだけど……」
あーうーと呻いているところを見るに、確固たる理由があるのではないらしい。ただ、人と交友を深めることに前向きなのは歓迎すべきだ。
「それで、数学部に入ることはアリかか、それともナシか」
「ま、前向きに検討したいと思います……?」
「そっか。まあ手芸部と茶道部見てから判断してもいいしな」
「……」
「どうした?」
声をかけると、何でもないとの答え。とりあえず、保留という事でもヒトミ先輩には伝えておくべきか。
再び部室の扉をノックし、憮然とした様子の先輩に迎えられる。
「別にそのまま帰ってくれても構わなかったのだけどね」
「いえ、一応方針は決めたので。とりあえず、他の部活もいくつか見て判断したいと思います」
「それがいいだろう。所属している私が言う事ではないだろうが、折角の高校生活における部活をこんなつまらない場所で消費するものではない」
「そうですかね。悪くないと思うんですが……」
「人によりけり、という事だよ。無論、私にとってはここは好ましい場所だからね」
ヒトミ先輩の表情から険が取れて微笑みが浮かんだ。だがそれも一瞬の事で、すぐに元に戻ってしまう。
すると、縮こまっていたユイカが俺の背後から顔を出し、ヒトミ先輩に向かって頭を下げた。そのまま後ろに戻ってしまい、何が何やらという気分である。
「しかし、なんだ。そっちの彼女はまた変わった髪型だな」
「そうなんですよ。コイツとは幼馴染なんですけど、昔からこんな感じでして」
「ほう。だが、そこまで前髪が長いと日常生活でも邪魔にならないかな。一思いに美容院で切ってもらったらいいんじゃないかと思うが」
「あー、えっと、これもコイツの個性って事で」
「ふむ」
ぽんぽんとユイカの頭を撫でる俺のことを、ヒトミ先輩はどこかうさんくさいものでも見ているようで、
「なるほど。つまりは女たらしなのかな、君は」
「いえ、違いますが」
何故か出てきたそんな言葉への反論は、ヒトミ先輩にはまったく信じられていないようだった。




