《エレベーター》
「レナーテぇ」
酒臭いあくびをしながら名を呼ぶと、するするっと音もない足運びでやってきたレナーテという少女が、ハンカチを使って口の周りの汚れを拭き取ったり、ブラシで髪の毛を整え始めた。
「うぅん。そんで、なんのよう? わたし眠いにゃ」
「仕事だ、姐御。こいつを《乳白色の森》に潜らせるから、《乾き》と《暗視》の加護をつけてやってくれ」
ユーリはジャンを示して言った。
フェアラートはゴミ山の上にあぐらをかき、にへらと笑う。
「えぇよ。お値段はぁ、お気持ち次第でぇ」
そこまで言ったとたん、レナーテが片手でフェアラートの口をふさぎ、もう片方の手で五本の指を広げてみせた。
「銀貨五枚でいいとよ」
「それって相場からしてどうなの?」
「コスパ最高。さっき言った半人前の連中も同じぐらいの値段を請求するだろうが、効果は不安定だし、一週間ぐらいで消えてなくなる。姐御のはいったんつければ一年間は持続する」
「へぇ。本当にすごいんだ」
ジャンは感心して言った。見た目はこんななのに、と続けたくなったが。
フェアラートはぐもぐもと不明瞭な声を出していたが、手を離してもらうと、「ぶへ」と息を吐いた。
「にゃのよ。わたしすごいんです。ウェヒヒヒヒ」
「じゃあ、お願いします。……大丈夫かなぁ」
ジャンは、財布から出した銀貨五枚をレナーテに渡す。
「あい、まいどありなんす。レナーテ、準備よろしくぅ」
フェアラートが言うと、レナーテはすでに用意していた筆と小皿を渡した。
フェアラートは蠱惑的な紅い唇と舌で筆先をたっぷりと舐め、小皿を満たす水に浸した。
「こっちゃ来て、おめめ閉じてな」
「ん、こう?」
「そそ。まぶたに文字魔法刻むから動かんとぃてね」
眼を閉じて顔を突き出す、ジャン。
フェアラートは繊細かつ素早い筆さばきで、両方のまぶたに紋様を描いていく。
蛇がのたくったような不思議な線は、一瞬だけ妖しく光り輝いたが、すぐに消えた。
「あぃ、《暗視》は完成。おつぎは《乾き》ね。服、上だけ脱いで、せなか見せてんちょ」
「え。脱ぐの?」
初対面の女の前で裸を見せることには抵抗があるのか、難色を示す、ジャン。
フェアラートは「ウェヒヒ」と面白がるように笑った。
「なんじゃおぬし、うぶよのぅ。ほれ、へるもんじゃなし、とっととお姉さんに見せなさい」
たおやかな腕が伸びて、意外な力強さでジャンの服をはぎ取ってしまい、背中を向けさせる。
「ういやつ、ういやつ」
「このひと痴女だ」
「へっへっへ、いまごろ気付いても遅いわい。さ、すぐ終わるから壁の染みでも数えてなさい」
「ゴミしか見えない」
「うっさい。ゴミじゃないですぅ、大事なうちの商品ですぅ」
ぶーぶーと唇を尖らせながら、ふたたび筆先を走らせる。
大きく描いた紋様が、また光り輝き、そして消えた。
「はい、できあがり。ちゃんと動かなかったわね、いいこいいこ」
フェアラートは優しい手つきでジャンの頭を撫でて、それからギュッと抱きしめた。豊満な乳房がジャンの背中で潰れる。
「いい子ね」
その瞳には深い愛情があふれていた。
ユーリはなぜか、そんな彼女に哀れむような視線を向けている。
ジャンは、照れたように顔を赤くすると、むりやり手を振り払ってユーリの横に戻った。
「あん、もっと抱かせてよぅ」
「や、やだよ。酒臭いんだから」
「んん、けちんぼ」
フェアラートは子供のように頬を膨らませている。
ユーリが言った。
「ありがとな、姐御。じゃあ俺たちはもう行くわ」
「そうなん? もっとゆっくりしていけばいいのにぃ」
「また今度な。これから迷宮に潜るんだ。それと、借りた金だが、もうすぐ返せそうだ」
「そっかぁ。でも、そんなことよりお姉さんは、ユーリの元気な姿を見られるだけで、しあわせなのです」
フェアラートは「気をつけていってらっしゃいね」と手を振ってくれた。
服を着たジャンをつれて、店を出る。
振り向いてみると、フェアラートは酒を飲みながらゴミ山の上で仰向けになっていた。
「本当にユーリの師匠なの? そんなふうにはぜんぜん見えないけど」
「むかしは、ああじゃなかった。……人生にはいろいろあるんだ」
ユーリはそれ以上、彼女について語ろうとはしなかった。
◆
「奴隷はいらんかねぇ。奴隷、奴隷。あなたの命を守る盾にしてもよし、お宝を背負わせる荷運びにしてもよし、たまったものを吐き出す便所にしてもよし! 健康で従順、良質な奴隷がそろってるよぉ」
大通りを歩き、冒険者ギルド本部の手前にやってくると、道端の大部分を占領するように、奴隷を並べて商売している男がいた。相手と定めているのは、これから迷宮に潜る冒険者だ。
奴隷たちは、屈強な大男から若く美しい女までそろっていて、一様にボロ雑巾のような服を着せられ、首輪から伸びた鎖で隣の人間とつながっていた。
「買うのか?」
ユーリが言った。
ジャンが奴隷商人のほうに目を向けていたからだ。
「他人の商売が気になっただけだよ。買ったほうがいいの?」
「やめておいたほうがいいだろうな。奴隷なんぞ当てにならん。すぐ逃げるし裏切る。迷宮で、命や荷物を任せられるのは、信用のある仲間だけだ。それがいちばん、難しいんだがな」
このリメインでは、奴隷の売買が完全に合法である。
が、一方的に隷属を強いられて、気分のいい者などいるはずがない。
奴隷は、おそろしい奴隷商人の目が届かない迷宮にもぐると、主人を裏切り、逃げようとすることが、よくあった。
だから、物事を見る目のある者ほど、奴隷など買おうとは思わない。
戦う仲間は、ちゃんとした冒険者から選べばいい。
荷物を運ばせる人夫が欲しいなら、それ専門の業者を雇えばいい。
ならば、なぜ奴隷の商売が廃れないのか。
それは、安価、という一点が非常に大きい。
上を見れば切りがないが、安い者では、銀貨十枚から買えるのだ。
たった銀貨数十枚で、人間の人生を思うがままにできる。
屈強な大男を肉の盾にすることも、美しい女を性奴隷にすることも自由だ。
それは、荒くれ者どものちっぽけな征服欲を満たすため、充分に魅力的すぎた。
彼らの下劣な欲望が、奴隷商を支えているのだ。
しかし、真の理由は、そこにはない。
「あの奴隷、どこから調達してくるんだろうね」
「もちろん、これから行くところだ」
「えっ」
「あいつらも、昨日か一昨日までは、冒険者だったのさ」
奴隷たちは、下をうつむいて絶望していた。
「迷宮で遭難すると、まず野垂れ死にだ。だが、そうならない場合もある。仲間か、たまたま善良な冒険者に発見されるか、それとも、ヨルムガルドの奴隷狩人に見つかるか、だ」
「ヨルムガルドって、あの、有名な傭兵団?」
「ああ。迷宮の第五階層を根城にしている狂った連中だ。あいつらのいち部隊が迷宮内を常にうろついていて、怪我で動けなくなったり遭難した冒険者を見つけては、身ぐるみはいで地上に持ち帰るのさ。行き着く先はあそこだ」
ユーリは奴隷を指し示した。
「元の身分に戻るためには、それ相応の対価を奴隷商に支払うしかないが、なにせ身ぐるみはがされてるからな。ギルドの貸金庫か仲間に金を預けてない奴は完全にアウトだ。逃げだそうとでもしようもんなら、奴隷狩人に地の果てまで追いかけ回されて、むごたらしく拷問されて殺される」
ジャンは身震いした。
ヨルムガルド傭兵団といえば、その武勇と悪名は世界中に広く知れ渡っている。
地獄の底から這い出てきたかのような不死身の悪鬼ども。
彼らと敵対して生き残った者は、ただひとりも存在しないという。
この都市が、無尽蔵の資源を産み出す迷宮という土地を有しながら、近隣諸国の武力による侵攻をゆるさない理由が、ここにあった。
リメインはヨルムガルドと契約を交わし、彼らによって守られているのである。
そして、奴隷商売は、ヨルムガルドの王の意向で存続している。
この街から奴隷がいなくなることのない、真の理由だ。
冒険者ギルド本部一階に到着した、ユーリとジャン。
そこは、これから真っ暗な地下へ潜ろうという人間を戸惑わせるように、磨き抜かれた白い石の床と、高級ホテルのラウンジを思わせる洗練された調度品を配置した、荘厳にして巨大な一室である。
部屋の左右には、二階へと上がるための階段。
そして真正面の奥には、大迷宮の入り口へと続く、巨大な白い扉がある。
開け放たれた扉の奥は薄暗くてよく見えないが、すさまじい轟音が鳴り響き、多くの人間の怒号が聞こえてきた。
扉の左右に長机が置かれ、リメイン冒険者ギルドの制服を身にまとった受付嬢たちが、列を作って並ぶ冒険者たちの名前や素性をチェックしている。
だいたい三十分程度の待ち時間のようだ。
だが、ユーリは列の横を平然と通り過ぎていく。
「あれ、いいの?」
「いいんだよ。俺は顔パスだ」
新参者の冒険者などは怪訝な顔をしていたが、受付嬢や、すでに熟練している古株の冒険者などは、それを当たり前のこととして受け止めている。むしろギルド関係者は、ユーリと目線が合うと恐縮した面持ちで目線を下げた。
「ユーリってもしかして、えらい人?」
「そうらしいが、どうでもいいな。そんなこと、これから降りるところでは、なんの意味も持たん」
扉を守る衛兵に、「よう」と声をかける。
五人の衛兵は、冒険者たちの所持品をチェックしていたが、ユーリが来たとわかると、二人がきびきびした動作でやってきた。
「出勤ですか、ユーリさん」
「おう。今日はこいつの案内にな」
ごつい手のひらでジャンの頭を叩く。
甲冑に身を包んだ衛兵が、兜の奥で顔をほころばせるのがわかった。
「ごくろうさまです。それでは規則ですので、申し訳ありませんが、依頼人の方の所持品を検査させていただきます」
衛兵は丁寧に頭を下げてから、ジャンを簡単にボディチェックして、荷物を入れるための袋などを調べ、中身をノートに書き記していった。
「これってどういう意味があるの?」
「探索税を徴収するためだ。迷宮に潜る前と、帰ってきた後の所持品を比べて、探索して得たと思われる物の半分から七割を、リメインが受け取る」
「ぼーりだ」
「まぁな。だが文句は評議会に言え」
ユーリは肩をすくめた。
ジャンは気付いた。
「でもユーリはチェックされてないじゃん」
所持品検査を受けているのはジャンだけだった。
「俺はいいんだよ。案内人は、ランクに応じて、探索税を免除されるんだ。だから必要ない」
「えー。ずっこい」
「そう思うなら、おまえも案内人になればいい。もっとも、免除にも限度ってものがあるし、そもそも依頼人を放り出してせっせと荷物を増やすような案内人はクビだがな」
そうやって会話しているうちに所持品検査が終わり、ふたりは扉の奥へと進むことになった。
轟音。
ジャンの顔を、すさまじい熱風と、音の振動が襲う。
「さあっ、グズグズすんなよ、ひよっこども!」
「後がつかえてんだ! さっさと歩け!」
「行くぞ、俺たちの伝説はここから始まる!」
男たちの罵声が飛び交う。
熱気がこもった、背後のラウンジよりもさらに巨大な部屋。
ここが、五百年前、第一のダウンホールが見つかった、迷宮都市リメインの起源。
そして、この街で、ある意味もっとも重要な発明品、エレベーターが導入された、最初の場所。
直径五十メートルを超える縦穴、リメイン最大級のダウンホール。
鉄骨による足場が縦横無尽に組まれ、縦穴の中央では、真横に十基が並ぶかたちで、エレベーターが設置されている。
リメイン大迷宮のエレベーターは、各階層をつなぐための唯一の道だ。人間は、これがなくては、数キロメートル以上に達する縦穴を、自力で垂直に上り下りすることは不可能である。
鋼鉄線のロープと滑車によって上下に人間を運ぶ、頑強な鉄の箱。
頭上の滑車は、最新鋭の魔導機械によって制御され、数百キロの重量をも苦もなく巻き上げる優れ物。
籠は、ガイドレールの軌道に導かれるがまま、昇降路を走り、目的地へと冒険者を運ぶ。
武装した冒険者たちが、意気揚々と格子状の扉を開いて籠に入り、地下へと降りていく。
かと思えば、パワーあふれる滑車と頑丈なケーブルによって地下から巻き上げられてきた籠から、疲れ果てた顔や満足げな顔の冒険者たちが現れて、よろよろと出てくる。
「……すっごいや。これはすごい。うん、すごい」
ジャンはしきりに「すごいすごい」と繰り返していた。
このような光景は、リメインでしか見られないだろう。
ほかの国では、エレベーターなど、まず存在していない。
あったとしても、どこかの貴族の豪邸だとか、王城に、もっと小型の代物が置いてあるだけだ。
リメインのエレベーターのサイズは縦に四メートル、横に三メートル。この重厚な鉛色の籠のド迫力さ、魔導機械の放つ熱と光と駆動音、ケーブルと滑車が見事に噛み合いながら滑らかに動く機能美を目の当たりにして、好奇心旺盛な少年の心が揺さぶられないはずはない。
「こっ、これ、ほしいぃぃ」
「守り人に聞こえたら殺されそうだな。ほら、さっさと行くぞ」
ユーリがジャンの背中を押した。
エレベーターに乗り込む流れに加わり、二人も籠に入る。
「それでは、下に参ります」
乗務員が言って、扉が閉まった。
格子の扉が開くたび、中身の人間を吐き出し、あるいは呑み込んでいく。
それは、見ようによっては、エレベーターもまた迷宮の魔物であるかのようだった。
魔物が人間を食うのと、エレベーターが人間を食うのは、同じことだ。
どちらも、行き着く先は迷宮である。
籠は、暗闇に向かって下降を始めた。