「星を……渡る?」
オールで水を漕ぐ音だけが、永遠に続くかのような静寂を規則正しく切り刻んでいく。
小船は、漆黒の油を流したような湖面を滑るように進んでいた。
頭上には無限に広がる夜空のような虚無。
その暗黒の中枢を貫いて、樹高三〇〇〇メートル近い威容の巨樹が圧倒的な質量で鎮座している。それはもはや植物という生物の枠組みを超えて、神がこの地下に突き立てた巨大な墓標のようにも見えた。
枝葉の隙間からあふれ出すのは、淡いエメラルドグリーンの燐光。過飽和した魔力が結晶化し、雪のようにしてゆっくりと降り注ぐ。
音もなく舞い落ちる光の粒子は、触ってみてもなんの温度も手触りも感じない。ボートの縁に、ユーリの肩に、そして水面に、触れては儚く溶けていく。
水面は、波ひとつない鏡となってその光景を完全に映し出していた。
上を見ても、下を見ても、輝く巨樹と光の雪。
一行を乗せた小船は、まるで重力から解き放たれ、星屑の光り輝く宇宙空間を漂流しているかのような錯覚に陥らせる。
だが、その美しい光景はどこまでも死の気配を纏っていた。
船首でオールを操る人狼、ラスヴェートの背中は、緑色の蔦が絡みつき、血管のように皮膚の下で脈動している。
空虚な眼窩を虚空に向け、ただひたすらに、主人の待つ方向へと船を進める異形の船頭。 その痛ましい姿と、周囲を取り巻く美しすぎる光景との落差が、この場所に満ちる狂気をよりいっそう際立たせていた。
誰も口を開かない。
レンヴィクセンですら、圧倒的な魔力の本流の具現化を前に言葉を失い、貪るようにその光景を目に焼き付けている。
シェラザードは、光の中で輝く故郷を、憎悪と哀愁が入り交じった瞳で見つめ続け、ルエンは岩のように動かず、その視界に映るものを警戒していた。
そして、小船はついにその巨大な影の足元へと差しかかろうとしていた。
接近するにつれ、巨樹の根元に広がる都市のディテールがあらわになっていく。
あまりに巨大すぎて遠くからでは全容がまったく掴めなかったが、それは、自然界に存在する曲線ではなかった。
鋭角的なライン、規則的に打ち込まれた無数の鋲、そして計り知れない歳月を経てもなお鈍い輝きを放つ、装甲版の重なり。
「……なんだ、あれは?」
さすがのユーリも目を細め、呻くように言った。
巨樹セイジュサージュ。その根幹を成しているのは、植物ではなかった。
この途方もない巨木の根が絡みつき、飲み込んでいるのは――、圧倒的な質量を持つ鋼鉄の塊だったのだ。
「とんでもなくデカいな。鉄で出来てるのか?」
「いや、あまりに巨大すぎる。明らかに人工物のようだが……。この規模の金属加工など、我が帝国の最新技術をもってしても絶対に不可能だ」
レンヴィクセンは身を乗り出し、震える手で眼鏡の位置を直す。
彼らの前に横たわっているのは、太古の遺跡などという生やさしいものではない。
全長はおよそ二八〇〇メートル。幅は六〇〇メートル。
地底湖の湖底にゆるやかな角度で突き刺さるようにして半ば水没したその姿は、巨大な神の死骸そのものだった。
「私たちにも、詳しいことは分からないが……あれは、『船』なのだそうだ」
シェラザードは巨鉄を見上げながら言った。
ユーリは眉をひそめた。
「船!? バカを言え。どう見ても水に浮かぶような規模じゃないぞ。しかも、どこからどうやってここに持ってきたんだ?」
「目的は分からない。千年以上も昔、あれはエルフの祖先によって作られたらしい。だがもちろんその技術も知識も、すでに失われている。今となっては、かろうじて稼働している機械の装置を生活に利用しているだけだ」
物語のスケールの大きさが桁違いだ。
ユーリが絶句していると、いつのまにか実体化していたクラティアが、ユーリの肩に腰掛けながら言った。
「そうね。あれは確かに船よ」
彼女は、湖底に突き刺さる金属の巨体と、そこから天を裂くように伸びた巨樹を見比べ、ふん、と鼻を鳴らした。
「星々を渡る船。厳密には、渡ろうとした船、と言った方が正しいわね」
「星を……渡る?」
「ええ。そう。この世界の外側へ行こうとしたのよ。愚かにもね」
クラティアは、巨樹の根元であろう部分を指さした。
「だから、この巨大樹が生まれたのね。おそらく、メインジェネレータに残っていた莫大なエネルギーを、植物の種子が吸い上げた。そして際限なくあふれ出る魔力を養分にして、鉄を食い破り、同化しながら、あんなデタラメな大きさまで成長したんだわ」
巨大な鉄の船と植物の融合。
鋼鉄の装甲を樹皮が覆い、砲塔があった場所からは太い枝が伸び、艦橋は完璧に根が張り巡らされて破壊されている。
かつて文明の粋を集めて作られたであろう超巨大戦艦は、いまや寄生植物の苗床となり、歪んだ生態系を形成していたのだ。
「我が師よ。では、この船はまだ生きているということではありませんかな?」
「そうね。そうでなければこんな粒子が降ったりはしない。肝心のジェネレータはまだ稼働している。……頑丈に作りすぎだわ」
レンヴィクセンは飲み込みが早かった。彼には細部こそ理解できないものの、クラティアの言葉のニュアンスからその意味をたちどころに汲み取り、その解釈を咀嚼して仮説を組み立てたのだ。腐っても偉大な魔法使いだ。
そして、小船は波止場へと近づいていく。金属板と樹木を組み合わせて作った代物だ。
ラスヴェートは特になにも言う様子がない。
「……ボロ小屋が密集してるな」
ユーリがボートから降り立ち、第一声と共に顔をしかめた。
鼻腔を強烈に刺激するのは、吐き気をもよおすほどの悪臭だ。
泥濘の中で腐敗した魚の内臓と、長い年月をかけて酸化した鉄錆の臭気。それらが湿った空気に閉じ込められ、煮詰められたような濃厚な淀みがここにはある。
「湖岸貧民街だ」
シェラザードが、感情を押し殺した低い声で言った。
先ほどまでの幻想的な美しさからはかけ離れて一切の光が降ってこないこの場所は、頭上を古代船艦の金属板と、それに絡みついて締め上げるように太った樹木の根に塞がれてしまっている。
そして戦艦の壁面にへばりつくようにして、トタンや流木、上から剥がれ落ちてきた廃材を継ぎ接ぎして作ったバラック小屋がひしめき合っていた。
「ここが、セイジュサージュの最下層。地底湖の泥にまみれ、船から脱落した廃材を拾い集め、危険な漁で食いつなぐ者たちが住む、もっとも貧しい場所だ」
「なら、おまえたちはどこで暮らしてるんだ? まさか姫さまがこんな木くずや鉄くずの中で寝起きしてるわけじゃないんだろう」
「ああ。私たち王族や特権階級は、この頭上……世界樹の樹上に作られた都市で生活している」
シェラザードが指さした先は。はるか彼方、巨大樹の樹冠に近い上層部だった。
「なるほど。わかりやすいヒエラルキーだな」
レンヴィクセンが無遠慮に杖で地面を小突いた。カツン、と硬質な音が響く。そこは土の地面ですらない。巨大な根の隙間に、脱落した装甲板を無理やり敷き詰め、リベットと蔦で固定しただけの不安定な足場だ。
「上を見れば、魔物や気候に脅かされることなく安全な場所に暮らす特権階級。下を見れば、泥をすすり、鉄くずにすがりつく労働者。構造そのものが支配の図式というわけか」
「船底にへばりつくフジツボみたいな連中ね。……本来、ここの区画はメンテナンス・ハッチでしょうに。こんなただの排熱空間に居住するなんて想定されていないのよ」
クラティアは黄金の瞳でバラックの群れを一瞥し、侮蔑と憐憫がないまぜになったため息を漏らす。
「それで……結局、その貧民街の連中とやらはどこに行ったんだ?」
ユーリが指摘したとおり、ここには異様な点があった。
無人。
誰もいないのだ。
腐臭と鉄錆の匂いが充満する貧民街に足を踏み入れ、錆び付いた金属板が踏まれて悲鳴を上げるものの、聞こえてくる音はそれだけだ。
本来ここにいるべきエルフたちの喧騒、生活音など、なにひとつ聞こえない。
バラック小屋の扉は開け放たれ、粗末なテーブルの上には食事の残骸が置かれたままだ。
ある小屋では、煮炊きしていた鍋が吹きこぼれ、火が消えたばかりの炭がわずかに赤熱を残している。洗濯物は干されたまま、湿った風に揺れている。
生活の痕跡はあまりにも生々しく残っているのに、それを営む主役たちだけが、綺麗さっぱり消え失せていた。
「おかしい。だれひとり……衛兵も、住民の気配すらない」
シェラザードの顔色は蒼白だった。
彼女がバースデイによって脅かされてこの聖都から逃走するまでは、たしかにここには下層階級のエルフたちがごった返して暮らしていたはずなのだ。
「争った形跡はないな」
レンヴィクセンは興味深そうに、誰もいない小屋の中をのぞき込む。
血痕は見当たらず、家具が倒された様子もない。
「まるで食事の最中に呼ばれたからそのまま整列して出て行ったかのような、奇妙な秩序を感じる」
「分からないの? あれを見れば答えは出ているでしょう」
クラティアはつまらなそうにラスヴェートを指さす。
それの意味するところを悟って、ユーリは背筋が粟立つのを感じた。
ここで暮らしていた数千のエルフたちが、ああしてバースデイの植物に寄生されて自由意志を奪われた奴隷と化していたとしたら? 暴力で制圧された方がまだマシだろう。あまりに救いがない。
シェラザードもそのことに気づいたのか、皮膚が破れるほどに強く拳を握りしめている。
「行くぞ。ラスヴェートも黙りこくってやがる。もっと奥で歓迎会をやるつもりなんだろう」
ユーリは剣の柄を握り直しながら、死に絶えたゴーストタウンを早足で抜け出した。
キャラのイラストとか挿絵として作品に貼り付けたら需要あるのかな。悩み中。
ぜんぜん死ぬほど久しぶりに投稿したのにまた読んでくださってる方々がいらっしゃってありがたいです。
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