外伝《先駆者達のオーケストラ 前編》
外伝です。時系列としては本編の一年くらい前になります。
前編後編合わせて28000字くらいの文章量。
この時代、先進国が競い合うように新たな魔導機械を開発し、様々な分野にて次々と導入され、実用化されているとはいえ、まだまだ現役で働いている道具は数多くある。
ランベルツ侯爵家所有の大型ガレオン船、《猛る黒獅子》号もそのひとつだ。
三本の巨大なマストと重量一〇〇〇トンを超える船体。五〇〇人以上の船員を乗せることが可能とされるこの帆船は、もともと商船の護衛のために王国海軍が運用していた戦艦である。商船の積み荷を狙って現れる海賊を撃滅するため、左右の側面に都合五〇門もの放題が設えてあった。
酔狂かつ派手好きで知られる侯爵は、老朽化が進んだこのガレオン船を莫大な金額を支払って買い取り、おのれの所有物としたのであった。
その主な使用目的は、港から別荘――沖合に浮かぶ孤島に建設した居城への移動手段だ。
太陽はつい先ほど地平線に沈んだ。
暗闇が落ちる甲板にユーリはいた。いつものラフな格好ではなく、上下を黒で纏めた礼服であった。
甲板には、同じように身なりを整えた紳士淑女の姿がちらほらと見える。一見して上流階級の出身であると分かる空気を身にまとっていた。星空を見上げるなり、知人同士で会話を弾ませるなり、思い思いに過ごしている。
ユーリはといえば、ラウンジバーからかっぱらってきた酒のボトルを傾けると、中身を一気に呷る。さすがに侯爵が自分や客人を乗せるために用意したバーの酒だ。味といい芳醇な香りといい申し分ない。
「わかっているでしょうけれど、あちらに着く前に酔っ払って無様なところを見せないでちょうだい」
落下防止用の手すりに腰かけているクラティアが、片手で栗色の髪を押さえながら「風が強いわね」と呟く。
色素の薄い華奢な肩を露出させた、深い蒼のドレス。
どこまでも広がる満点の星空の下、夜の海を背景にした少女の姿は、一枚の絵画のごとく幻想的ですらあった。
普段とはまた異なる美しさに、ユーリはしばし見惚れる。
クラティアは怪訝な顔をして言った。
「なに?」
「いや。似合ってると思ってな、そのドレス」
「……そ、そう? ありがとう。職人に仕立てさせた甲斐があったわね。……やっぱり酔ってるんじゃないの?」
顔を赤くして上目遣いでこちらを見てくるクラティアを尻目に、ユーリはさらに酒をラッパ飲みしてみせた。
「こんなもん水だろ。今日は家族サービスの日だから特別だ。――ほら、見えてきたぞ」
もうほとんど中身の残っていないボトルで、ガレオン船の行く手を示す。
海の彼方の暗闇に、不自然なほど明瞭に姿を現したその島こそ、ランベルツ侯爵の誇る別荘の建つスケルディア島。
今回、ユーリが招待された夜会の行われる場所だった。
◆
島の船着き場に船を停泊させると、すぐに船員たちが板を渡して夜会の招待客たちを誘導し始めた。
ユーリとクラティアもそれに従って船から降りる。
この船着き場からしばらく石畳に舗装された道を歩き、門をくぐった先に、侯爵の城はあるようだ。すでに見上げればライトアップされた城がそびえ立っている。
「失礼ですが、招待状を拝見させていただいてもよろしいでしょうか」
若い使用人の男が恭しい口調で言った。
ユーリは自分とクラティア、ふたりぶんの招待状を手渡す。
この夜会は招待制であり、当然、招待状がなくては参加することはできない。
「ありがとうございます。それでは城へご案内させていただきますが……その前に、失礼ですが、武器などの危険物はこちらでお預かりさせていただくことになります。お帰りの際にご返却させていただきますので、どうかご協力をお願いいたします」
「まあ、そうなるよな」
ユーリは携えていた剣を素直に渡した。
なにより大切な道具とはいえ、時と場合をわきまえないわけではない。
「それでいい。そんな時代遅れの古くさい代物を持ち込まれたのでは、城の品位が汚れるからな」
酒臭い息とともに、嘲弄の色を含んだ声がかかる。
ユーリがそちらに目を向けると、仕立てのいい礼服に身を包んだ美貌の青年がふらつく足で立っていた。ウェーブのかかった金色の髪を顔半分に垂らし、気障な笑みを浮かべている。 ユーリは当然の疑問を口にした。
「だれだ、おまえ」
「――なんだと? 俺を知らないだと? 俺の父上は侯爵の弟だぞ! おい、この無知な礼儀知らずを誰がこの島に上がらせたんだ」
ただでさえ上気している顔に、さらに朱色が増す。
使用人は困り果てたように頭を下げた。
「は、侯爵様からの直接のご招待でございます、エルネスト様」
「ふん、見せてみろ」
エルネストと呼ばれた若者は使用人の手から招待状をひったくると、充血した目を落とす。
「ユーリ……リメインの冒険者と、その妻クラティアか。ふん、冒険者だと? ゴロツキではないか!」
あろうことか招待状をゴミのように投げ捨てると、酒臭い息を吐きながら懐に手を入れ、不格好な手つきで鉄の塊を取り出した。
それはこの時代にあって最先端の武器――回転式六連発銃、すなわち拳銃である。
「教えておいてやる。これが本物の武器だ。引き金を引くだけでどんな相手でも一発で殺せる。おまえの持っていた骨董品など比べものにならん」
引き金に指をかけたまま銃口をユーリに向け、
「ゴロツキごときがこの島に土足で上がり込むなど許しがたい。お帰り願おうか……ああ、その女はここに残しておけ。酔いも覚めるような美しさだ。ゴロツキなんぞにはもったいない。俺の妾にでもしてやろう」
毒々しい欲望の宿った瞳をクラティアに向ける。
彼を知る貴族たちは「また悪い病気が始まったか」と眉をひそめた。この貴公子の醜聞はたびたび社交界を騒がせている。
幼い頃から甘やかされて育った放蕩貴族。
その悪癖がただの女遊びや酒癖の悪さ程度ですめばよいのだが、たちの悪いことに、その姿が奴隷商人の館へ消える瞬間がたびたび目撃されていた。そのくせ、館の使用人の数は変わらない。
年端もゆかぬ少女を買い漁り、館へ連れ帰っては地下室で拷問したあげく殺害している――まことしやかに猟奇殺人の疑いを囁かれるのも無理はないほど、彼の視線はねっとりとなめ回すようにクラティアを品定めしていた。
仮にここがリメインの迷宮であったなら、ユーリは容赦なくエルネストの顔面に鉄拳を叩き込み、永久に原型を思い出せぬほど無惨に陥没させてから、その頼りなく細い首を片手でへし折り死体を地面にうち捨てて何事もなかったかのように歩き始めただろう。
だがここは迷宮ではない――ゆえに、時と場所をわきまえたユーリは、隙だらけのエルネストが反応するよりもはるかに素早く銃身を摘まみ、圧倒的な指の力で反対方向へねじ曲げた。
自分自身に銃口を向けている、飴細工のごとく変形した自慢の武器を凝視しながら、エルネストは一瞬で酔いが冷めたように青ざめていく。
「いい武器なのは確かだが、向ける相手はよく選べよ。次は殺すぞ」
金縛りにでもあったかのように身動きがとれないでいるエルネストの肩を優しく叩き、ユーリは歩き出した。
追随するクラティアはエルネストに対して何らかの言葉を発するということはしなかった――ただ一瞬だけ、道端のゴミでも見るかのように冷めきった視線を投げただけだ。
それに気づいた若い御曹司は、侮蔑への怒りが沸騰したのか、へし曲げられた銃を放り捨てて、クラティアの肩へとその手を伸ばしている。
だが少女に触れる寸前、まるで弾かれたようにその手が跳ね上がり、「あぎゃっ!?」と情けない悲鳴を上げた。狼狽してもつれた脚は体重を支える役目を放棄し、その身体は大きく後ろへとバランスを崩す。
そしてそのまま、冷たい夜の海へと落下した。
華やかな喧噪とは明らかに質の異なる派手な着水音と悲鳴に、その場の使用人や招待客たちの視線が集まる。
「がっ、がぼっ、は、はやく助けろっ……俺は泳げないんだ……っ」
慌ててロープなどを用意して救助のために駆け寄る使用人たち。
貴族たちは、無様に海面で踊り続けるエルネストの姿を見下ろして盗み笑いを浮かべていた。
「なんだったんだ、あいつ?」
「さあ? 放っておけばいいのではなくって?」
呆れた顔のユーリに、クラティアはすました顔で応える。
――ちょっとした電磁場を生み出して手を突っ込ませたなど、魔神にとってはほんの悪戯程度の児戯に過ぎない。触れたものすべてを骨まで焼き尽くす炎で包むことも、肉体と血の一滴までガラス化させて粉々に砕くことも簡単にできる。
本来ならばただひとりにのみ許したこの身体に触れようとした罪はその命でもって贖わせるところだが、これから行われる夜会の場を人死にで白けさせるのは得策ではない。――クラティアは最近ますますもって円熟を増してきた自分の采配に満足した。
「お二人とも、本当に申し訳ありませんでした」
城へと続く石畳の坂を、ランタンを手に持って先導する若い使用人が言う。
「あの方はエルネスト様といいまして、侯爵様の弟君のご子息であらせられるのです。この島を警備している侯爵様の私設軍の隊長でもあられるのですが、ご覧になったとおり、お酒をお召しになられると……その……」
「あんなボンボンが隊長で大丈夫なのか?」
「そ、それはもちろんです。ご安心ください。隊員の皆様はとても優秀ですよ」
苦笑いを浮かべる使用人。
まあ、貴族の子弟に箔をつけるためお飾りの役職に任命するというのは、どこの国でもやっていることだ。実際の権限は別の者が握っているのだろう。
「――ああ、そうだ」
道中、ユーリはふと思い出したように言った。
「俺たちが乗ってきたあの船だが、やけに火薬を積んでたよな。何に使うんだ?」
「……火薬、でございますか?」
「かなり臭ったぞ。戦争でも始めるつもりか?」
軽い口調で物騒なことを言って使用人を驚かせる。
臭ったと言ってもそれはユーリの野獣並みに優れた嗅覚だからこそだろう。一般の乗客達は船の貨物室から漏れ出たあずかな異臭などにはまったく気づかなかったに違いない。
使用人はちょっと思案を巡らせた様子だったが、すぐ答えに思い至ったように笑顔を見せた。
「ああ、花火ですよ花火。今夜の宴は格別に盛り上げたいとのことでして、侯爵様が花火をお取り寄せになったんです。真夜中になれば打ち上がると思いますよ。ぜひご期待ください」
「へえ。そいつは豪勢だな」
夜空に咲く大輪の華はさぞかし見応えがあることだろう。
やがて城門に到着すると、ユーリは使用人に礼を言いチップを渡して下がらせた。
前庭に並べられた無数のテーブルには所狭しと料理や酒が置かれている。
「意地汚く食べちゃダメよ。常に誰かの視線があると思って、気品のある行動を心がけるの。よくって?」
「おまえ、俺のことをガキだと思ってるのか? だいたい俺はこういうパーティーが苦手なんだよ……窮屈で仕方ない」
いまにも礼服の襟首を引きちぎりたそうにしているように、今回の夜会への招待に応じたのは、ユーリの本意ではなかった。
辞退しようと思っていたところ、クラティアから猛烈に参加を勧められたのでしぶしぶとやってきたのだ。
「そんなにパーティーが好きだったのか?」
「馬鹿を言わないで。あなたのためでしょう。こういった場所で顔を広くしておくことが、のちのち役に立つのですよ。いずれあなたがもっと貴い地位に立ったときにね」
「おまえは俺を王様にでもしたいのかよ」
「そうね。この私が主人と認めた殿方なのですから、そのくらいは当然です。では行きましょうか、あなた。未来の後援者を見つけておかなくてはね」
クラティアはそう言って、おどけたようにウィンクして微笑んでみせる。
と、そのとき。
歓談に興じていた貴族のひとりが、ユーリの存在に気づいて満面の笑みを浮かべた。
太鼓腹を揺らしながら歩いてくる男こそ、この城の主人、ランベルツ侯爵である。
「お待ちしておりましたぞ、ユーリ殿。船旅はいかがでしたかな?」
「快適だったな。特に酒がうまかった」
「それはよかった。――失礼ですが、そちらのレディは」
クラティアは両手でスカートの裾をつまみ上げ、腰を折って深々と頭を下げた。完璧な作法に基づいたカーテシーである。
そして艶然と微笑んで「妻のクラティアと申します。お目もじ叶い光栄ですわ、侯爵閣下」と言った。
芸術の神が技巧の粋を凝らしたがごとき美貌に、侯爵の喉が鳴る。無理もない。ここには目鼻立ちの整った紳士淑女たちが集まっているものの、この少女に並ぶ者は皆無だろう。
もしも天使が実在するのなら、神はこの姿を与えて世に使わすはずだ。
「おお、これは、お初にお目にかかる。こちらこそお会いできて光栄だ。……思っていたよりずっとお若いので驚きました」
「ええ、よく言われますわ」
一瞬、ランベルツの瞳に鋭い光が宿る。それは目の前のクラティアという存在について注意深く観察し、計算高く推察していた。
完璧な微笑だが、これは作り笑いだ。いわば精巧な造花である。社交界では必須の技能だが、いかんせん幼すぎるのが気になった。
外見の幼さゆえの拙さというものがまったく感じられない。あまりに完成しすぎている。
五十歳を過ぎたランベルツからすれば孫ほどの年齢だろうに、ともすれば自分以上に齢を重ねているかのように錯覚するほど老成しているのだ。不自然なほどに。
芸術的なまでに体現した完璧な作法、そしてなんという輝かんばかりの高貴さか――どう見ても十代前半という少女の身に備わっていて然るべき風格ではない。
生まれながらにして貴い身分の出自であることは疑いようもないだろう。それも、かなり高位の。
おそらくは、いずこかの国の大貴族、あるいは皇族の忘れ形見だろうか? そんな少女がなぜ冒険者ふぜいの妻に納まっているのかは分からないが、注意しておくにこしたことはない。
もしかするとこれを機会として遠方の皇族と縁を結べるかもしれない。
自分の利益になるような縁ならば、これを利用しない手はない。
そのような思考などおくびにも出すことなく、ランベルツ侯爵は人好きのする笑みを浮かべた。
「さあ、さあ。どうぞ中へお入りください。狭い城で恐縮ですが、客人に退屈だけはさせぬよう心を砕いておりますでな」
「あんたに呼ばれた例の件を最初に片付けておきたいんだけどな」
「おお、なるほど。よろしい、では喫茶室にご案内いたしましょう。積もる話はそこでゆっくりと……」
クラティアが「急かさないで、順序を考えなさい!」とでも言わんばかりに睨み付けてきたが、ユーリは気づかないふりをして城の中へ足を踏み入れた。
ふたりが通された喫茶室は、いかにも成金趣味の侯爵が好みそうな派手な内装で整っていた。狭い城とランベルツが言ったのはもちろんただの謙遜であり、実際はこの喫茶室ひとつ取り上げてみても十分にゆとりのある広さを誇っている。
ランベルツはユーリとクラティアに来賓用のソファを勧めると、自分は主座に腰かけた。
三人分の紅茶をティーカップに注ぎ終えた侍女が退席し人払いをすませると、ランベルツはさっそく切り出した。
「さて。では単刀直入に伺いましょう。例の件――つまり、リメインにおける私の経済活動へのご協力の件ですが、色よい返事はいただけるのですかな?」
「あんたを五階層まで連れて行けって話なら、残念ながら答えはノーだ」
そもそもユーリとランベルツが知己の間柄となったのは、この侯爵がリメインの迷宮に眠る莫大な財に食指を伸ばし、自らが現地に出向いた折、たまたまユーリを案内人として雇ったことに端を発する。
ランベルツは直接その目で見たユーリの実力、そして五階層案内人という肩書きに惚れ込み、幾度となくラブコールを送ってはあえなく失敗していた。
どうにかして地下迷宮の財宝を持ち帰りたい。できれば最下層の第五階層まで到達したい。そのためには優秀な案内人が必要だ。しかしユーリは首を縦に振ろうとしないのだった。
「俺は理由あって《乳白色の森》でしか仕事を受けない。それより下に潜りたいなら別の案内人を雇うしかないな。だが、あんたが体験した一階層から下は本物の地獄が待ってる。そんな腹をした客の依頼を引き受ける案内人はそうそういないぞ」
侯爵の見事な太鼓腹を指さす。
渋面を作ってランベルツは言った。
「理由を聞かせていただいてもよろしいですかな」
「……案内人の仕事の成功率がどのくらいか、分かるか?」
突然の問いかけにランベルツは首をひねった。
「さあ……危険な仕事ですからな、五割、六割といったところでは」
「十割だよ。一〇〇パーセントだ。いま生きてる案内人の中に、仕事を失敗した奴なんてひとりもいない」
誇るでもなくユーリは言う。
ランベルツは眉を持ち上げた――そして、静かに問う。
「からくりがあるということですか」
「依頼人を死なせた案内人はその時点で処刑だ。どんな理由があろうともな」
生きている案内人の中には――ユーリはそう言った。
それはつまり、失敗した案内人はすでに全員死亡しているということだった。
「リメイン評議会が恐れているのは案内人のブランドが価値を損なうことだ。依頼人をたやすく死なせるボンクラばかりで信用できないとなったら、案内人を雇う冒険者がいなくなるからな。そうなると冒険者たちはますます下層に降りられなくなる。結果、リメインが得られる探索税も枯れていく」
一度たりとも失敗を許さないという過剰に厳しいルールを課すのは、万が一にも依頼人を死なせてしまう案内人を出してしまったとして、すぐさま極刑に処すことで罰すれば、リメインの自浄作用を内外にアピールできる。案内人ブランドのイメージダウンを最小限に食い止める狙いがあるからだ。
「だから俺たちは依頼人を慎重に吟味する。案内人がついているだけで難なく攻略できるほどリメインの迷宮は甘くないからな。最初から生きて返すのが無理だと分かりきっているような冒険者の依頼は絶対に引き受けない。なんせ、俺たち自身の命もかかってるんだ」
「では私自身ではなく我が私設軍の兵に行かせるというのはどうですか? 自慢ではありませんが選りすぐった屈強な猛者を集めています」
「兵隊としての優秀さと冒険者としてのそれはまったく別物だ。残念ながらあんたの兵はあそこではまったく使い物にならんだろうよ」
ランベルツは難しい顔のまま紅茶を一口すすった。砂糖の代わりに蜂蜜を使ったお気に入りのレシピだ。自然な甘味が脳をうまく回転させてくれる。
「どうするのが最善と思われますか?」
「あんた個人がSS級の冒険者パーティーを雇って、案内人もつけて迷宮に送り込め。とりあえずは成功するだろう」
「ですがその場合、私の取り分は……」
「まあ、微々たるものになるだろうな」
ユーリは肩をすくめた。
そもそもSS級の冒険者や五階層案内人を雇うとなれば莫大な費用が必要となるうえに、彼らが迷宮で得た財宝をすべてランベルツの懐に入れるというのは難しいところだろう。
「なるほど。うまい具合に作られたシステムですな。迷宮の富が容易には流出しないようになっている」
リメイン評議会としてはあくまでも肥え太りたいのは自分たちだけであり、他国に利益をもたらしてやるつもりなどさらさらない。せいぜい平等にチャンスがあるように見せかけて上前を騙し取るだけのつもりだ。
そのため、リメイン地下迷宮の財宝を持ち帰る権利を持つのはあくまで迷宮に潜った本人のみ、という法律を敷いている。
こうすることで、ランベルツのように自力で迷宮を攻略できない貴族がリメインの財を汲み上げられないように計算しているのだ。
「――侯爵閣下。お話の邪魔をしてしまうようですが、私からひとつよろしいでしょうか?」
控えめな声、しかし絶妙なタイミングの良さでクラティアが言った。ランベルツは「どうぞ」と先を促す。
「ありがとうございます。差し出がましいことを申しますが、常日頃から主人の仕事のお話を小耳に挟んでいますと、ふと気付いたことがありますの」
「ほう……気付いたこと、とは?」
「冒険者とは、とてもお金がかかる職業だということですわ」
ランベルツはこの少女の言葉の真意を計りかねた。これが市井の小娘だったならば一笑に付して終わっていただろう。
だが初対面からずっと不気味に感じていたこの少女への興味が、その先を続けさせた。
「たとえば彼らが身につけている剣や鎧ですが、使い続けているとすぐに刃こぼれもしますし壊れてしまいますわよね? 打ち直して修理したり新品に買い換えるにはたくさんのお金が必要となるでしょうね」
「まあ、それは、そうでしょうな」
「ええ。様々な消耗品にしてもそう……食料、傷薬、燃料……そういったものをいちいち調達しているので、せっかく迷宮に潜って得た財宝もほとんど手元に残らないのだそうです」
そうですよね、あなた? と、ユーリのほうを向いてにっこりと微笑む。
「あ? あー、まあ、そうだな。ランクの高い冒険者になればうまく金が回り始めるが、ルーキーの頃はとにかく万事においてうまくいかん」
「でしょう? ですから、まずは侯爵がそういった貧しい冒険者のパトロンとなってみてはいかがですか?」
「パトロン……つまり、財政的な支援をせよということですか」
我が意を得たりとばかりクラティアは頷いた。
「要するに侯爵の思い通りになって、なおかつ優秀な冒険者がいれば問題は解決するのです。で、あれば話は簡単。持たざる者に手を差し伸べて恩を売り、義理によって縛ればよいのです」
「あ、うむ……なるほど。しかし支援したとしても、いずれ私を裏切って手を切られる心配もあるのでは」
「そのときはその者たちの風評が地に落ちるだけでしょう。横の繋がりを絶って生きていける世界ではないようですし、それこそ侯爵の権力を振るって煮るなり焼くなりお好きなように。そのリスクを考慮できない愚か者がそうそういるとは思えませんが」
そしてクラティアは再びユーリに視線を向ける。先を促すように。
「あー……侯爵、それでだ。その点なら俺も協力できると思う。素質はあるが金に困っていて満足に活動できていない冒険者なら心当たりがあるし、これからそういう連中を見つけ次第あんたに報告してもいい。大概の貴族は冒険者のことなんか使い捨ての便利屋ぐらいにしか思ってないからな、本格的に援助する気があるならあんたは貴重な存在になるだろう」
「私がパイオニアになるというわけですか。面白いお話ですな……実に興味深い」
ランベルツは低く唸った。顎を撫でながら思案する。
初期投資の額はけっして少なくはないだろうし、長期的な計画になるだろうが、しかし見返りは莫大なものになるかもしれない。明確なビジネスチャンスだ。血が騒ぐのをおさえられない。
そしていよいよクラティアへの興味が大きく膨れあがってきた。内心では舌を巻いている。
これだけの深謀遠慮な計画をさらりと世間話でもするように提供してみせるには、ずば抜けた教養が必要――いったい何者なのだ?
ランベルツは世界各地をその目で見て回った若き日の記憶をフルに思い起こして考えを巡らす。
栗色の髪や顔立ちは明らかに西欧諸国出身者のものだが、あちらにこれほど若く高貴な人間がいただろうか? あちらの国々の王族とも顔を合わせた経験はあるが、クラティアの顔にはまったく心当たりがない。
「お伺いしたいのですが、クラティア殿」
「なんでしょう?」
ランベルツは意を決して言った。「あなたはいったい何者なのですか?」と。とにかく直接問いただしてみればはっきりすることだ。これでもしも知らぬまま他国の皇族と会話していたとなったら、のちのち赤っ恥をかく羽目に陥るのは目に見えている。聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥というやつだ。
「若くしてそのただならぬ見識、私などとは比べものにならぬ高貴な振る舞い。よほど貴い血筋の出なのであられましょうが、恥ずかしながら私にはまったく心当たりがありません。よろしければあなたの素性をお聞かせ願いたい」
「私などつまらない女でしかありませんよ、侯爵閣下」
クラティアは落ち着いた様子で紅茶を口に含んだ。かすかに微笑んだのは、その味と香りが気に入ったからだろうか。
「私の家は遠く離れた地では確かに名の通った古い血筋でしたが、それだけですわ。とっくに権力を失って、権威だけが辛うじて残っていたようなもの……それも、お父様もお母様もすでにお隠れになり、私が唯一の生き残り」
「と、いいますと」
「ある夜、賊に家を焼かれ、そのときに……」
「な、なんとお労しい……」
しおらしく語ってみせるクラティアに、ランベルツは我が事のように嘆いた。貴人の中の貴人とでも言うべき血筋があわや絶えようとは、世界の損失に他ならないからだ。
「命からがら身ひとつで逃げ出し、あてもなく国々を彷徨った果てにリメインにたどり着いて、主人と出会いましたの。主人は私にとても良くしていただいて……ですから、今度は私が主人のために、陰になり日向になり尽くす覚悟ですわ」
ランベルツは熱くなった目頭をハンカチで押さえ、あふれた涙を拭った。
握手する反対の手に握ったナイフで相手を刺すような貴族社会に慣れきった彼は、かえってこのようなロマンスにはめっぽう弱い。
こっそりと「そうだったのか?」とでも言うような怪訝な顔をしているユーリの尻を「いいから黙って話を合わせなさい」とばかりクラティアがつねり上げた。
そのときであった。
にわかに廊下が騒がしくなり、言い争うような声が聞こえたかと思うと、喫茶室の扉が勢いよく蹴破られたのだ。
「伯父上! 火急の用件ゆえ失礼します! 賊です、賊がこの島に侵入しました! すぐに伯父上の兵をお借りして捜索を――あっ」
頭のてっぺんからつま先まで全身ずぶ濡れで磯の香りをふんだんに漂わせる、金髪の貴公子。
エルネストはユーリとクラティアの姿を発見するなり指で示して大声を上げた。
「きっ、貴様らっ!? どうしてここに!? いやっ、ちょうどいい。伯父上、こいつらは賊です! すぐに捕らえて地下牢に連行します!」
「……落ち着け、エルネスト。いったいどうしたというのだ」
「伯父上。私は先ほどこいつらに突然襲いかかられて海に突き落とされ、あやうく殺されそうになったのです。この島で伯父上の次に貴い身分である私の命を狙い、そして次はあろうことか伯父上に近づきそのお命を狙っている! こいつらは薄汚いクズの凶賊です!」
ランベルツは頭痛でも覚えたのか眉間にしわを寄せてため息をついた。
エルネストは唇を捲り上げ、毒々しい笑みを浮かべて勝ち誇る。
「残念だったな? どうやってここまで潜り込んだかは知らんが、俺に見つかったのが運の尽きだ。おまえら二人とも地下牢でたっぷり可愛がってやるから覚悟しておけ。そっちの娘は特にな……」
「いい加減にしろ、エルネスト」
絞り出したような低い声は、ランベルツ侯爵のものだった。
ユーリと会話していたときの柔和な物腰は消え去り、こめかみに青筋を立てて怒りに震えている。
エルネストは臓腑に氷塊を突き刺されたかのように硬直し、自分に向けられた侯爵のあまりの険しい眼差しに狼狽した。
「ど、どうしたのです伯父上?」
「いい加減にしろと言ったのだ。貴様にはうんざりさせられる……海に突き落とされただと? そんな見え透いた嘘に私が騙されるとでも思っているのか! どうせ酔って自ら海に落ちたのをこのお二方の仕業とでっち上げたのであろうが!」
「いっ、いやっ、それは……この賊どもがですね」
「しかも言うに事欠いて賊だと? 恥を知れ愚か者が。こちらにおわすクラティア殿は、世が世なら大陸をしろしめす貴人の中の貴人たるお方ぞ。それを貴様ごとき寄生虫ごときが、なんたる無礼な!」
「きっ、寄生虫ですと!? 甥であるこの私を寄生虫と申されるのですか、伯父上!」
頭に血を上らせて吠えるエルネストを、ランベルツは鼻で笑った。
「私の名と財を振りかざして貴様がこれまで重ねてきた愚行を、知らぬとでも思っているのか? 弟には若い頃から何度も世話になってきたゆえ、甥である貴様についても見捨てはすまいと思っていたが、その結果がこれだ。もう我慢がならん。貴様の名も財も領地もすべて没収して、国外に追放する。今夜中に荷物を纏めて、明日の朝には島を出て行くがいい」
「馬鹿な。そんなことを父上が許すはずがない!」
「弟からは貴様の処遇について一任されている。……肉親としての最後の情けだ、命までは取らん。いさぎよく沙汰を受け入れるがいい」
とりつく島もない侯爵の決然とした態度。
エルネストは愕然と目を見開き、がっくりとうなだれ、それから肩をふるわせると――
「っ、ふざけるなブタぁ! この俺を寄生虫だと? ほざくな、クズが!」
怒りによって暴走した狂気は、エルネストの手を懐の拳銃へと導いた。
正規の訓練を受けたとは思えないほどたどたどしい手つきで撃鉄を起こし、照準を侯爵に合わせる。
さすがに突然この凶行に及ぶとは予想していなかったのだろう、侯爵はろくに反応もできない。
「死ね! ブタが!」
だが、その指が引き金を引くことはなかった。
ティーセットや茶請けを乗せたテーブルがバネ仕掛けのごとく跳ね上がり、貴公子の鼻面に天板が激突したのだ。
潰れた蛙のような悲鳴を上げ、逆さまのテーブルに押し潰されるエルネスト。
ユーリはテーブルを蹴り上げたその足で、地面に転がった拳銃を遠くへ蹴り飛ばすと、中身を半分ほど絨毯に零してしまったティーポットを拾い上げた。
「夜の海で泳いだから冷えただろ。紅茶でも飲んで暖まれよ」
安心させるように言いながら、無慈悲にポットを傾ける。
エルネストの顔面めがけて湯気の立つ熱湯が容赦なく降り注ぐ。
「あづっ! あづうううっ、やっ、やめろっ、熱いいいいっ」
「なんたることだ……衛兵! この痴れ者を捕らえろ!」
すぐさま駆けつけた衛兵たちが、エルネストの身体を起こして後ろ手に手錠をかける。
海水と紅茶まみれの貴公子はそれでもなお狂ったように怒鳴り散らしていたが、その声も衛兵と共に部屋の外へと消えていった。
「感謝しますぞ、ユーリ殿。まったくお恥ずかしい。あのような慮外者を今日まで放置していたことは我が身の不徳のいたすところ。どうか許していただきたい」
「俺はかまわんが……いい絨毯と茶器が台無しだな。悪かった」
「ああ、なんの。こんなものはまた買いそろえればよいだけですよ。お二人にも大事がなくて本当によかった。とはいえ、ここでは話の続きができそうにありませんな」
ランベルツは室内を見渡して言った。
テーブルはひっくり返り、ぶちまけられた紅茶や茶菓子が絨毯に染み渡っている。
「今宵はささやかながら催し物を用意してございます。お二人にもきっとお楽しみいただけるでしょう。話の続きはその後でまた改めて、ということで……」
◆
「くそっ、離せ! この下郎が! 俺を誰だと思っている!」
長い階段を下って地下牢に連行されている道中、エルネストの狂態はずっと続いていた。
髪を振り乱し、視界に映るなり誰彼かまわず罵詈雑言をまき散らし、隙あらば脱走しようと身をよじって暴れ続ける。
衛兵たちは表情ひとつ動かすことなく無言でその動きを封じ込め、ついにこの薄暗く底冷えのする地下牢までやってきた。
鉄格子が並ぶカビ臭い空間――ここに自分が投獄される側となるなど、つい数時間前までは予想もしなかった。
「俺は侯爵の身内なんだぞ! 分かっているのか! 俺がその気になればお前らなどいつでも消せるんだ! お前ら、顔を覚えたからな! 後悔しても遅いぞ……親や兄弟、周りの人間、みんな殺してやる……貴様ら全員、ブタの餌にしてやるからなあ!」
貴公子エルネストにとって、もっとも我慢ならないのは、おのれの思い通りにならない物事がこの世にあることだった。
大貴族たる侯爵家の近縁者――そう、ただ産まれたというだけですでに偉い、この世でもっとも得がたいはずの絶対的な力。それを持って生まれたエルネストは、選ばれし特別な人間のはずだった。少なくとも本人はそう自負してこれまでの人生を送ってきた。
物心ついたときからいつでも甘い菓子を腹いっぱい食べられたし、「あの玩具が欲しい」と言えば、貴公子の歓心を買わんとする周りの大人達が我先にと差し出してくる。
女などは欲しいと言うまでもなく、数えきれぬほどの美女達が勝手にすり寄ってきては股を開いて媚びてきた。
だがごく稀にだが、エルネストの機嫌を損ねる愚行を犯す不届き者も存在する。
いつだったか町で見かけた市井の女は、なかなか美しい容姿をしていたので、エルネストがじきじきに手を取り、館に来るよう誘ってやった。酒と麻薬と乱交の快楽をたっぷり味わえる特別の夜会に招待してやろうとしたのだ。
だが、こともあろうにその女は誘いを断った。
それがエルネストの逆鱗に触れた。下民の分際で貴族からのありがたい誘いを拒むとはどういう了見なのか。
すぐさま配下に命じて女の素性を調べ上げ、名前や住所、家族構成、交友関係にいたるまで把握した。すると近日中に婚約者と結婚式を挙げる予定だということが判明した。そのときエルネストはおぞましい邪悪な笑みを浮かべた。
結婚式当日、教会で美しい花嫁衣装に身を包んだ女が、花婿と誓いの口付けを交わそうとしていたまさにその瞬間、覆面をつけたエルネストは取り巻きと共に乱入した。
銃を乱射し剣で斬りつけ、結婚式に出席していた新郎新婦の親族や友人達を虐殺すると、泣き叫ぶ花嫁の目の前で花婿をも斬り伏せた。
そしてまだかろうじて息のあるその男の目の前で花嫁の衣装を破り捨て、泣き叫ぶ女を二十人の男達でかわるがわる犯し尽くした。
男が絶望の表情を浮かべながら失血死したとき、女はすでに心が壊れて廃人のごとく変わり果てていた。そしてエルネストは笑いながら、「飽きたな、この玩具」と、女の頭に向かって銃の引き金を引いたのだった。
それだけのことをしでかしても、エルネストに対してなんらかの法の手が伸びることはなかった。犯人の正体は不明ということで決着し、事件の真相はすべて、闇へと葬り去られた。
そう、この世には絶対的な力というものが存在する。
それは、尊い血の権力だ。
血筋の持つパワーには何者であろうと逆らえない。
なにをしても許される。誰を殺しても許される。下民を縛るための法律など貴族には無意味だ。
エルネストはそれを持って生まれてきた。
生まれただけですでに世界のすべてに対して勝利している。
そのはずだったのに――
「くっそおおおっ! なんなんだ! どいつもこいつも! ふざけるなあ! 俺は侯爵家のエルネストだぞ! 俺は偉いんだ! 俺が何でこんな目に遭わなきゃいけない!? ふざけるな! ふざけるな! ふざけるなあああ!」
「――声が大きいですよ、エルネスト殿。どうか落ち着いてください」
声は、すぐ近くから聞こえた。
その聞き覚えのある声に驚いたエルネストは問いかける。
「ティベリウスか? どこにいる!?」
「ここに」
地下室の影がひときわ濃い一角から、滲み出るようにして人影が浮かび上がった。
若い使用人の姿であった。
「ティベリウス……さっさと俺を助けろ。俺は何もしていないのにこんな目に遭わされた。クズどもの罠に嵌められたんだ! 今すぐになんとかしろ!」
「ええ、もちろん。エルネスト殿をお救い差し上げるために罷り越しましたとも」
青年は、指をパチンと鳴らす。
するとエルネストを両脇から拘束していた二人の衛兵が、おとなしく従うように離れたではないか。
同時に、魔法のように手錠が外れ、床に落ちる。
「ははっ! いいぞ! これで自由だ!」
手首の調子を確かめ、笑い声を上げる。
やはり貴族とは選ばれし特別な人間だ――なにをやっても結局は許される。けっして罰されることのない聖域に立っている。そう、それも当然。罰するのは貴族であり、罰されるのは下民でなくてはならないのだから。エルネストは上機嫌で笑った。
「おいティベリウス。それで、計画のほうは順調に進んでいるんだろうな? 失敗は許されないぞ。この俺が完璧に協力してやったというのに、おまえのせいで仕損じたのではたまらんからな」
「ご安心ください。我らの聖務はすべて順調に、完璧に推移しています。船に爆薬や機材を積み込めたことも、城内にこちらの工作員を潜入させられたことも、すべてはあなたのご協力があってこそ。教団を代表して心より感謝を申し上げます」
ティベリウスと名乗るこの男の素性は、エルネストとて深く知っているわけではない。
もう半年も前になるが、ある日いきなり、この男のほうから接触してきたのだ。
《髑髏の先駆者》と称する邪教団の司教――最初こそ警戒したが、彼らが持ちかけてきた取り引きの内容を聞くと、すぐに理解した。この男とそのバックの組織は、エルネストにとって有益な存在だと。
「ではいよいよ今夜、伯父上……いや、あのブタは亡き者となるというわけだ! はははっ! 最高に愉快じゃないか!」
教団の提示した取り引き――それは、ランベルツ侯爵を殺害する計画、その準備のために協力を願うというものだった。
そもそも、エルネストにとって伯父のランベルツは最大の目の上の瘤であった。
もちろんエルネストが傍若無人の限りを尽くせるのは伯父の権力を笠に着ているからだ。
しかし、いつ頃からだったか、常にこう思うようにもなっていた。
――俺は俺であるだけで偉いというのに、なぜ伯父だけが注目されているのか?
他人がエルネストの顔色をうかがい、ご機嫌取りのへつらいを見せるとき、常に、その視線はエルネスト本人ではなく、その背後にある伯父の姿に向けられていた。まるでエルネストを無価値な者として素通りするように。
それは我慢がならないことだった。誰よりも偉く誰よりも優れているはずの自分が無視されたようで、非常に気分が悪い。ゆえに、殺す。
幼女ばかり選んで猟奇的に殺すのは、それゆえなのかもしれなかった。
縄で縛り上げ、ナイフで切り刻み、煮え立つ油で皮膚を焼いて拷問すると、相手は泣き叫んで許しをこう――侯爵ではなくエルネスト自身に対して。
この島の警備を任されているエルネストの協力もあって、殺害計画は順調に進んでいた。
今夜この島には、ランベルツ伯爵とその妻、そして年若い息子と、侯爵の家族が全員そろっている。ターゲットは、そのすべてだ。
「どうぞ。あなたの銃です」
「気がきくな。よし……こいつで目にもの見せてやる。あのブタが鉛弾をぶちこまれるときにどんな顔をするか楽しみだ」
拳銃を渡されると、そのずっしりとした鉄の重みがエルネストの自尊心を大きく膨れあがらせた。
そう、こいつがある限りなにも怖くなどない。
銃とは、エルネストの考える権力を象徴するかのような武器であった。
しょせん剣で人を斬り殺すのは匹夫のやり方である。あれで人を殺そうとすると相手に近寄らなければならないから反撃される危険があるし、なにより返り血で手が汚れる。
その点、銃は最高だ。安全でけっして反撃されない離れた位置から、一方的に相手の頭を吹き飛ばして殺すことができる。そして、手が汚れることもない。
権力とは本来そういうものでなくてはならない。
「ブタとその家族を殺せば侯爵の席は空になる。そうしたら次の後継者は俺の父上だ。我が家が正当な侯爵家になるって寸法だ……いや」
エルネストの頭脳が、邪悪な計算をはじき出した。
尖った舌で唇を舐める。
「この際、父上も始末するか? 俺のやることにいちいち口出ししてきやがって、邪魔だと思ってたんだよな。それに、どうせなら俺自身が侯爵閣下と呼ばれてみたいもんだ。ティベリウスよ、どうだ。カネならいくらでもくれてやる。俺の親父も消してくれないか」
「ご冗談を」
ティベリウスはエルネストの提案に対して、一顧だにもせずにそっけなく返した。
「なぜ私達が、あなたの個人的なくだらない欲望を満たすために動かなくてはならないのですか? 勘違いされてもらっては困ります。あなたと接触したのは、聖務を遂行するために必要であったからに過ぎません。無抵抗な女子供を嬲り殺しにすることしかできない変質者でも、使いようによっては役に立ちますからね」
「な、なんだと!?」
素早く拳銃の撃鉄を起こす。「この無礼者が!」と、至近距離でその頭部に銃口を向けようとして、エルネストは異変に気付いた。
――なぜ俺は銃身を口で咥えているのか?
引き金にかかった右手の人差し指はそのまま、両手で拳銃を構えて自分の口内に突っ込んでいる様子は、あたかもこれから自殺しようとしているかのようだった。
無理やり鉄の塊を突っ込んだために前歯が砕けて流れ出た血と激痛にいまさら気付く。
慌てて銃身を引き抜こうとするも、腕がまったく動かない。いや腕だけではなく、全身がまるで自分のものではなくなったように微動だにしない。
「単純な後催眠暗示ですよ。私に殺意をもって危害を加えようとすると、そうなるように設定しておきました」
出来の悪い生徒に教鞭を執る教師のように、ティベリウスは言った。
「エルネスト殿。あなたは本当に生きている価値のない人間だ。肉欲、物欲、権力欲。なんの能力も持たず努力もしないくせに自己顕示欲だけは凶暴。あらゆる醜い欲望をむき出しにして周囲の人間に犠牲を強いておきながら、自分だけはのうのうと裕福に生きようとする我欲の塊とでもいうべき、あきれ果てた人間だ。もはや生きているだけで罪深い」
ですが――と、ティベリウスは恐怖に震えるエルネストの肩に手を置いた。
「そんなあなただからこそ、私はぜひとも救済して差し上げたい。あなたが醜い欲望を捨て去り、その汚濁にまみれた魂を浄化するお手伝いをしたいと思っているのです。ああ、遠慮などは不要ですよ。これもまた我が教団の教義にして聖なる務めなのですから」
「なにを――なにを言ってるんだ! やめろ、この手を自由にさせろ! やめさせてくれ!」
「やめる? なにをおっしゃるのです……言ったはずですよ、これは救済だと。人間はね、死という昇華によってはじめて醜い欲望を捨て去ることができます。死後の世界には肉も物もありません。ゆえに人は死後でこそ、どんな物欲をも忘れて魂のありのまま清らかに過ごすことができる。あなたはこれからそういう正しい存在になるため旅立とうとしているのですよ。喜ぶべきではありませんか?」
エルネストは初めて目の前の若者に対し底知れぬ恐怖を抱いた。
――この男は狂っている。
理解できない狂気に触れることへの根源的な嫌悪感が、貴公子の精神をズタズタに蹂躙した。
銃口の存在すら忘れるほど震え上がり、失禁が股を濡らす。
人差し指がおのれの意思とは無関係に折れ曲がり、渇いた銃声が地下室に木霊した。
炸裂した銃弾が脳漿をぶちまけて後頭部を貫通する。
顔が紙屑のようにしわくちゃとなった貴公子が、糸の切れた人形のように倒れ伏すと、ティベリウスは満足げに微笑した。
「さて。これで私の仕事は終わりましたね。ではそろそろ離脱するとしましょうか。次の聖務が待っています……ようやくリメインの古代ハイエルフをサルベージすることに成功しましたから、あちらもいよいよ大詰めだ。おっと、そうそう」
忘れていた用事でも思い出したかのように視線を向けたのは、エルネストをここまで連行してきたふたりの衛兵だ。
彼らは直立不動。ここまでの異常事態を目の当たりにしておきながら言葉を発することもなく、表情すら動かそうとしない。そう、まるで死人のように。
「司祭アレクシアにはくれぐれも、最後まで細心の注意を払って聖務を遂行するようお伝えしなさい。神の地上代理人たる我らが人々の救済に失敗するなど、絶対にあってはならないことですからね」
「はっ。承知しました」
「よろしい……そして案内人のユーリには特に警戒するように。あの男は船に積んだ爆薬の存在にも気付いていました。放置すれば大きな障害となるでしょう。例の仕掛けはどうですか?」
「すでに準備は完了しております」
「それを使って動きを封じてしまいなさい。――では、無事に救済の聖務が成功することを祈っていますよ」
そう言ってティベリウスは床に落ちている拳銃を拾い上げると、まるでドアノブでも捻るように躊躇なく、自分のこめかみに向けて発砲した。その体は音を立ててくずおれる。
衛兵――いや、衛兵に偽装した二人は、それでもなお、顔に感情の色を浮かべなかった。もし彼らを注意して観察している者がいれば気付いただろう。その瞳が一度たりとも瞬きをしていないこと、その吐息があまりに冷たすぎることに。
そして、暗い地下牢の床に沈んだエルネストの死骸は、自分の流した血溜まりに浸かったまま、誰にもその死を悲しまれることなく捨て置かれたのだった。