《樹神と魔神》
「誰が出てこいって言った、ババア。すっこんでろ」
ユーリが低い声で言う。
クラティアは、バースデイから視線を外さないまま応えた。
「下がっていなさい。この男はあなたの手に余るわ」
「……ッ」
歯ぎしりの音。
クラティアの助けがなければ、先ほどの攻撃で全員の命が奪われていた。そしてバースデイの底知れぬ実力に、ユーリではかなわない。その事実について、他ならぬ彼自身がもっとも痛感しているのだ。
「あなたでは、まだ早いというだけよ。――だから、ここは私に任せなさい」
やわらかい視線を、ユーリに向ける。
ユーリは、渋々といったふうに、舌打ちしてから頷いた。
矜持が傷つけられたどころの話ではないだろう。
だが、駄々をこねて事態を悪化させる無能ではない。
「ねえ、話は終わった?」
バースデイが言った。
《樹神》は、その両腕から伸ばした無数の触手を蠢かせ、獲物を品定めするかのように楽しげに言った。
「――じゃあ、もう殺していいかな?」
「――ええ。もう、殺すわ」
《魔神》の笑みは、これから破壊の限りを尽くす快感に酔っているかのように、楽しげだった。
二柱の亜神の対峙は、それだけで周囲に甚大な被害をもたらす。
際限を知らず高まり続ける、両者の強大すぎる魔力は、大地に亀裂を走らせ、空間を軋ませた。
目を閉じ、神経を集中させたクラティアの全身を、紫電が覆う。ショートボブの髪が重力に逆らって浮かび上がり、左右の手の平には特に膨大な電力が膨れ上がりつつあった。
バースデイたちは、全員で一斉に攻撃を仕掛ける瞬間をうかがっているようだ。
先に仕掛けたのは、クラティアだ。
腕を広げ、左手と右手の五指、都合十本の先から電撃を放つ。
メガボルト級の発電をそのまま攻撃に使用した雷撃魔法。
それはバースデイたちの胸の中央を正確に貫くや、直後にその体中の水分を沸騰させた。
反撃することもままならず、目玉が飛び出し、開いた口から絶叫と火花が散る。
「やったな!」
ぷくーっと頬を膨らませたバースデイは、その腕をクラティアに向けて伸ばした。
残った他のバースデイたちも、同様に腕を伸ばす。
無数の触手が、剣や槍に姿を変えてクラティアを襲った。
「ぬるいわ」
冷淡に告げたクラティアの周囲で、空間が陽炎のように揺らめいた。
金属の刃同士が擦れ合うような、風を切り裂く甲高い音。
優美なる栗色の髪が、突然発生した風の流れに靡く。
風切り音は無数に生まれ、鼓膜が痛みを覚えるほど反響し合うと、外へ向けて放たれた。
目には見えない鋭い牙、真空の刃だ。
全方位を蹂躙する不可視の刃は、絶大な威力で触手の群れを無残に切り裂いた。再生が追いつかないほど細切れにし、一本残らず叩き落とす。
クラティアはさらに、その右手の人差し指を天に向けて掲げた。
指先の空間に、小さな紅い点が輝く。
その輝きは瞬く間に膨れ上がると、巨大な業火の球体と化した。
生き物のごとく荒れ狂う、幾重もの炎の螺旋の集合体。
落ちていた樹の破片や、家の壁などが、炎に触れたわけでもないのに勝手に発火した。
かつてセラフィーナが唱えた火炎魔法とは、桁違いの熱量。
まるで地獄の罪人を焼き尽くすための炎を、そのまま取り出したかのようだ。
ユーリたちが熱さを感じていないのは、クラティアの魔力で守られているからだろう。
身構えるかのように膨張した火球が、破裂した。
幾多にも分裂し、ひとつひとつが強大な破壊力を誇る火炎弾となって、バースデイたちを襲う。
高速で着弾した火炎弾は、砲弾をも凌ぐ威力で、凶悪な災禍を撒き散らした。
轟音と共に地面を深々と抉り、そこにあった物体を跡形も残さず蒸発させる。
あの炎に焼き尽くせない物質など、この世にあるまい。
目に見える限りの場所から、バースデイの姿が消えた。
これで終わったのだろうか?
《樹神》と《魔神》の戦いは、《魔神》の勝利に終わったのだろうか?
こんなにもあっけなく?
戸惑う、ユーリたち。
その答えは、険しい表情を崩さないクラティアが持っている。
――轟音。
町長の館が、中央から真っ二つに割れた。
ウエハースのように粉々に砕け散り、倒壊する館を押しのけるように、巨大すぎる人影が姿を現す。
緑色の、太い蔦で覆われた四肢。
身長十メートルはあろうかという、樹の巨人だ。
頭部にあたる部分は、包帯でぐるぐる巻きにされているかのように、蔦が渦巻いている。
その額の中央から、バースデイの上半身が突き出していた。
「けっこうやるねえっ! じゃあさぁ、これはどう!?」
巨人は、腕を大きく振りかぶる。
ぎちぎちと硬く密集する蔦の拳。
十メートルの高みから逆しまに繰り出される、圧倒的質量攻撃。
先ほどのクラティアの火炎魔法と同じく、やはり、これを受け止められる生物など存在しまい。
――まさかその拳を、指先ひとつで受け止めようとは。
たいして力を込めているとも思えない、白魚のごとき華奢な指先が、拳の落下を支えていた。
単純な腕力などではありえない。
これも、魔神の驚異的な魔力のなせる業なのか。
指先で発生した斥力が、巨人だけを一方的に吹き飛ばす。
たたらを踏んで姿勢を大きく崩した巨人。
クラティアは、指先をそのまま下へと向けた。
まるでその動きに操られたかのように、巨人が膝をつく。
あまりの質量の落下に耐えきれず、地面が陥没し亀裂が走った。
それだけではない。
巨人の身体は、立ち上がろうとする意思に反して、より無様な格好で膝を屈し、両腕までも地に落としている。
その周囲の限定された空間だけ、重力が増しているのだ。
地面だけでなく、小石や建材の破片までもが重圧に耐えられず粉砕され、細かな破片となっていく。
重力操作。人間の社会では遙か昔に失われ、禁忌として伝わる系統。
「あっばばばばばっ。やーめーてーよー」
いったいどれだけの重さが加わっているのか。蔦の手足がグシャグシャに潰れ、見るも無惨な姿へと変わり果てていく。
もはや身動きすらとれなくなったバースデイが、泣き言のように抗議をした。
だがもちろん、クラティアはまったく聞き入れることなく、駄目押しとばかりに両腕を高く掲げる。
頭上で、暗雲が不気味な胎動の音を響かせた。
この第一階層の上空にはどす黒い色合いの雲が常にたまっており、雨が降ることもある。
もちろん、雷もだ。
「あ、ありえん……なんだこの、馬鹿げた魔力は……。完全に常識を越えている!」
レンヴィクセンが喉を鳴らし、愕然として上空を見上げた。
雲が、クラティアの頭上の一点に集まろうとしている。
ユーリたちの衣服に、バチバチと青白い静電気が弾けた。
空気中のイオンが異常に増加している。
頭上の雲は雷雲と化し、ゴロゴロという重苦しい低音と共に、あたりを照らす稲光を発生させていた。
「終わりよ。――豪雷」
直後、ひときわ強い稲光が、階層全体を真昼のように照らした。
雲の中で無数に生じた静電気が桁外れのエネルギーを発生させ、行き場を求めて荒れ狂う超大電圧は、最終的な捌け口を真下へと定める。
禍々しい輝きを帯びた光の束が大気中を走り、バースデイを直撃した。
稲妻が巨人の全身を駆け巡り、破壊し尽くすと、手足を破裂させる。
真っ二つに引き裂かれた巨体の断面から炎が生まれ、瞬く間に燃え広がった。
雷とは、古くから、畏れ多き者の象徴として扱われることが多い。
人間は、自分たちの理屈では説明のつかない現象を恐れ敬い、擬人化して祀る。
特に雷は、天から来たる絶大な災厄として、神の怒りの顕現、または神そのものの降臨と認識される例がある。
人々は、荒れ狂う風雨をともない、強い光と共に地上を焼き払う稲妻に、真の恐怖と絶望を見た。
やがて、それを神と見なすようになった。
神を象徴する雷が、神を名乗る男を討ち滅ぼす。これほどの皮肉もあるまい。
バースデイは、もはや軽口すら叩けず沈黙している。額から二つに裂けている上に、身体が炭化しているのだから当然だ。
「やったのか?」
ユーリが言った。
クラティアは険しい表情のまま口を開こうとした。
「すごいねぇ~~」
遮ったのは、間延びした軽薄な声だ。
振り返った先に、ダメージらしいダメージを受けた様子のないバースデイが立っていた。
「すごいすごい。たいした魔法だ。普通のハイエルフなんて相手にならないね。僕の部下にハエレティクスってのがいるけど、そいつ以上かもしれないなあ」
「しつこい男だこと。まだ殺され足りないようね」
強い殺気を纏う、クラティアの瞳。
バースデイは、へらへら笑って首を振った。
「いや、もう充分だよ。さすがにいつまでもやられっぱなしじゃあ、神様の沽券に関わるんでねえ。そろそろ、本気を出して反撃しちゃおっかなーと」
ずん、と。
地響きがユーリたちの足下を襲った。
否、それはこの町全体に広がる規模での地震だ。
なにか、とてつもなく大きな物が、地下で蠢いているかのような。それもひとつやふたつではない、無数の物体が一斉に轟き始めている。
クラティアは、すぐさまバースデイへ向けて手の平をかざした。
なにをするつもりなのか知らないが、それを実行する前に叩き潰せば問題ない。
すべてを切り裂く真空の刃が、弾丸以上のスピードでバースデイに放たれる。
だが、必殺のはずであった真空魔法は、バースデイの指先に触れるや否や、そよ風と化して霧散してしまった。
《樹神》の不気味な薄ら笑い。
「もう、無駄だよ。《生命の樹》の稼働率を、五十パーセントまで上げちゃったもん」
町のあちこちで、この世の物とも思えぬ悲鳴が聞こえ始めていた。
この町に暮らしていた住民たちの身に、異変が起こっているのだ。
同時に、いたるところで家屋を突き破って樹木が姿を現し、地面がひび割れ、陥没していく。
「さーて、小手調べはここまでだ。……僕がどうして神様なのか、教えてあげるよ」
神とは。
恐怖と絶望の象徴である。
それこそが、神なのだ。