《髑髏の影》
エストレアの五体投地と巨乳によって危うく頭蓋骨を粉砕されかけたユーリであったが、幸い、生来の石頭ゆえに大事には至らず、軽い目眩を覚えただけで事なきを得た。
「ごめんなさいですわ」
床に正座して、すっかりしょぼくれてしまったエストレア。チャームポイントの縦ロールも心なしか萎れてしまったように見える。
「謝るだけですまされると思ったら大間違いよ、ドリル小娘!」
「ひーん」
目を三角にして怒り狂うクラティアの剣幕に、泣きべそをかいて許しをこう。
「もういいって。気にするなよ」
「ユーリ!」
「俺がいいって言ってるんだから、いいんだよ。わざとじゃないんだからしょうがないだろ」
ユーリはすでに復活していて、何事も無かったかのように振る舞っている。
エストレアは涙をぽろぽろこぼして「ごべんなざい」と謝った。
クラティアはまだ納得がいっていない様子だったが、結局は「ユーリがそう言うなら」ということでひとまず怒りをひっこめたようである。
騒ぎに決着がついたところで、気を取り直して風呂に入ることになった。
「はぁぁ。いい気持ちですわ」
湯で温められてよほど気分が良くなったのか、とろけきった表情で言う、エストレア。
乳房の上半分がぷかぷかと浮いて水面から顔を出している。
クラティアがものすごい視線で凝視していた。
「それにしても、おふたりとも羨ましいですわ」
その言葉がなんのことを指しているのか理解できず、ふたりは、きょとんとしてしまう。
エストレアは、ぽややんとした笑顔で続けた。
「だって逞しい殿方と、剣に宿った精霊さまの恋愛なんて、おとぎ話みたいで素敵ですもの」
ぽやややん。
手を合わせ、うっとりとため息をつく、エストレア。
「なにが素敵なんだって?」
「わたくし、ずっと憧れていましたの。邪悪な竜を退治する騎士様の英雄譚や、王子様と人魚姫の美しくも切ない恋物語……物語のご本をたくさん読み耽りましたわ。でもそれだけでは満足できません。お城にいたのでは見ることも触れることも出来ない外の世界を、どうしても味わってみたかったのですわ」
エストレアの生活がどのようなものであったのか想像することしかできないが、おそらく相当に窮屈を極めるものであったのだろう。
そうでなくてはこのように熱っぽく語りはしない。
しかしユーリはシニカルな笑みを浮かべた。
「この世はそんなにいいことばかりじゃないし、美しい物語ばかりでもない。みんな無意味に汚く生きて、死んでいく。ただそれを繰り返しているだけだ。わざわざお城から出てきてまで見る価値はないかもな」
「あら、そんなことはありませんわよ」
エストレアはユーリの言葉を、美しい微笑みを浮かべながら否定した。
「案内人さんとクラティアさん、とてもお似合いの恋人同士ですわ。わたくし、あなた方とお友達になることができただけでも、はるばるこの街にやってきた甲斐がありましたわ」
「いっ、いつから友達になったというの。調子に乗るものではなくってよ」
「いつからもなにも、裸のお付き合いをしたならお友達ですわ。わたくし、案内人さんのようにお強い戦士の方とも、クラティアさまのように可憐な天使様ともお友達になれて、とっても嬉しいですわ!」
エストレアは湯槽の中をスイーっと素早く移動すると、感極まったようにクラティアを思い切り抱きしめた。
ぎにゃー、と、悲鳴が上がる。
「ちょっ、こらっ、離しなさいよドリル小娘!」
「やーですわ。クラティアさま、すごくすべすべで可愛らしくてたまりませんの」
「暑苦しい! ユーリ、助けなさい!」
クラティアとエストレアは、組んずほぐれつ、ぎゃーぎゃーと騒ぎながらじゃれ合っている。
湯槽のふちで岩に背を預けたユーリはひとり、素知らぬ顔をして天を仰いだ。
触らぬ神に祟りなし。
じゃれ合う女に近付いても、ろくなことにはならないのだ。
◆
扉をノックする音。
シェラザードはまどろみの最中から、ゆっくりと覚醒した。
ここは町長の館の一室。
シェラザードに貸し与えられている、来客用の部屋だ。
ベッドにうつぶせになっていた彼女は、いつの間にか睡魔に負けていたことを知り、それを恥じた。
どうも最近の激務と緊張感から、自分でも思ってみないほど疲労が蓄積していたらしい。だがそんなことは言い訳にもならない。あらゆる難題が累積している状況で、一族を舵取りすべき自分が無意味に時間を浪費するなど。
現在、聖都を神によって制圧され、国王を筆頭に首脳陣の安否さえ分からないエルフたちは、第一王女シェラザードを旗印として掲げ、脱出に成功したわずかな戦士たちをかき集めて、仮の拠点としたこの町に集結し、神の討伐と聖都の奪還をめざし再起の機会をうかがっているところだ。
数千年の封印から解き放たれた《樹神》バースデイ。
奪われた聖都。
安否の定かではない国王たちの救出。
やるべきことは山積みしており、まったく片付く気配がない。
好転しない事態を少しでもいい方向へ向かわせるため、一秒でも時間が惜しいのだ。
だがそれはそれとして、部屋を訪ねてきた人物と会わなければならない。
誰であるのかは見当がついている。
遠慮がちに鳴り響くノックの音。
ベッドから身を起こしながら返事をした。
「入ってくれ」
「……失礼します」
扉を開けて入ってきたのは、エルフの戦士、ルエンであった。
静かに扉を閉めると、几帳面に敬礼してみせる。
「部隊の編成が完了した件をご報告に参りました。……お休みのところ、たいへん申し訳ありません。」
「いい。休むつもりはなかった……情けない。そんな暇はないというのに」
「なにをおっしゃるのです。休息も仕事のうちと言うではありませんか。姫様は充分に努力しています。森の民ならそれを知らぬ者はいないでしょう」
主人をねぎらう言葉をかけるときでさえルエンは表情を動かさなかったが、その仏頂面がシェラザードにはなにより優しく感じられた。
幼少時代より、彼女がもっとも信頼する臣下がこの男だ。
立ち上がり、正面に歩み寄る。
わずかに腫れている頬に視線をやり、悲しげに目を伏せた。
「すまない。痛かっただろう……納得いかないこともあるだろうが、今は耐えてくれ」
一族の運命を背負う者として、固い決意を秘めた声で言った。
「ユーリは強い。なんとしても彼の力を借りたいんだ。神を倒さなければ、私たちに未来はない。エルフはこの森から出られない、エレベーターに近づいただけで殺される。上にも下にも行けない私たちが、ここで暮らしていくためには、あの暴君を倒さなければならない」
「……私や部下たちでは力不足とおっしゃる?」
「ルエン……そうではない。私はただ、一族のためを想って」
「存じております。――ですが姫様、これだけはお心にとどめておいていただきたい。人間などの力を借りずとも、あなたの傍らにはこの私がいるということを。姫様をお守りすること、ただそれだけが私の喜びであり、存在意義なのですから」
◆
ルエンは、簡単な報告だけすませると、部屋から退室した。
無人の廊下を歩く。
すでに、外の世界でいうなら深夜に当たる時間に差し掛かろうとしていた。
家の者は寝静まり、誰一人として目を覚ましている者はいない。
壁に設置された証明器具の魔法光が、彼の背後に長い影を作っている。
「状況は順調に推移しているようですね、ルエン殿」
ぴたり、と足を止めた。
彼の背後で、影が立ち上がろうとしている。
光をさえぎった物の形を反映するだけの単純な現象。床にへばりついた紙より薄い存在であるはずの影が急速に厚みを持ち、軟体動物のごとく、不定形のねっとりとした動きで立体化し、人の形を形成しつつあった。
異常なる奇事に対し、ルエンは動揺しなかった。
それどころか、臆することなく声をかける。
「ティベリウスか。――ああ、すべて計画通りだ。神は復活し、好き放題に暴れている。そして我らの戦力も予定通りに絶望的だ。万が一にも、神を倒せる者はいない」
「けっこうです。あの方が倒されてしまう状況は想像しにくいものですが、障害となるものを放置していては、のちのちのスケジュールに支障が出てしまいますからね」
いまや完全に人の形に完成した影は、闇夜のように黒いローブを身に纏った男となっていた。
その顔は、禍々しい髑髏の仮面によって隠されている。
異形の風貌でありながら、声だけは礼儀正しく丁寧に言った。
「ルエン殿。あなたの的確な情報提供のおかげで、神殿の位置、警備隊の戦力、封印を解く方法まで完璧に入手することができました。さらに、聖都の戦力もあなたの協力により壊滅状態。我が聖なる任務の円滑な運びに、神もたいへんお喜びになられているご様子。教団を代表し、心より感謝の意を表します」
慇懃に頭を下げる、この男。
ルエンもこの男の正体を熟知しているわけではない。
知っているのは、ティベリウスという名前と、ある教団における司教の地位にあるということ――そして、神を復活させることによって何らかの計画を進めようと企てているらしいということだ。
ふむ、と、思い出したように言う。
「そういえば、シェラザードが妙な人間たちを連れてきたな」
「と、いいますと?」
「三人組の人間だ。女と老人、そして若い男。特に男はなかなか戦い慣れしているようだった。黒い髪と褐色の肌が珍しい、体格のいい人間だ」
ティベリウスの驚いた気配が、あからさまに伝わってきた。
「まさか、案内人のユーリでしょうか」
「ああ、たしかそんな名前だったか。知っているのか。たいした人間には見えなかったが」
「……すこぶる危険ですぞ。五階層案内人、十傑第四席のユーリ。希代の使い手です。なぜ今ここに? いやそれはともかく、いくら彼でも《樹神》を倒せるとは思えませんが、それが目的ならば、大きな障害となるであろう事は確かです」
「なにを焦っている? たかが人間の一人や二人、どうとでもなる」
ルエンの言葉には、おのれの実力に対する不遜なまでの自信がみなぎっていた。
だが、ティベリウスの声は、冷ややかだ。
「我らが神は、聖なる任務が滞ることを良しとしません。魂の救済は何の問題もなくスムーズに進行せねばならないのです。毎日スプーンでスープをすくうように何事もなく、絶対に、完璧に、遂行しなければ。私がこの地に派遣された以上は失敗など許されないし、許さない。……そのことをあなたにもよく肝に銘じておいていただきたい」
底冷えのする声である。
口調は丁寧ながら、有無を言わせぬ迫力があった。
ルエンは鼻を鳴らした。皮肉を込めて言う。
「いいだろう。ふん、神か。おまえたちの神とやらは、信ずるに値する存在らしいな。私たちの暴君とは違って」
「ええ、それはもう。我らが至尊の神は慈悲深きお方。この世のあらゆる苦しみから人々をお救いくださるのです。お喜びください、ルエン殿。もうすぐです。もうすぐ、神がこの地に降臨されます。そしてその聖なる御手により、か弱き人々を楽園へと導くでしょう」
その声は、どんな苦痛も耐える強い心と肉体を持つルエンですら、怖気の奮うがごとき狂気の信仰を孕んでいた。
「すべての世俗の救済……《髑髏の先駆者》が征くところ、すべての命に等しく永遠の幸福がもたらされるのです」