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彼は迷宮の案内人  作者: あすてか
第二章《樹神の聖都》
30/43

《MONKEY MAGIC》




 ――その男たちはおそらく、「命が惜しけりゃ、黙って身ぐるみ置いていきな!」とでも言いたかったのであろう。

 霧深い森の奥、目的地に向けて歩くユーリたちを包囲したのは、いきなり飛び出てきた六人組のパーティーだった。

 いずれも薄汚れた武具に身を包んでおり、最低ランクの冒険者だと分かる。

 男が四人と女が二人。

 彼らの殺気を帯びた瞳を見れば、その目的は明白だ。

 

 迷宮内では、出会ったのが魔物ではなく同じ人間であったとしても、油断はできない。

 危険な魔物と闘うよりは、人間を襲って金品を奪うほうがはるかに安全で見返りも大きい――そう考える輩はいくらでもいるのだから。

 その典型例である彼らからしてみれば、ユーリたちの姿はさぞかし美味しそうな獲物として映ったに違いない。

 ごつくて手強そうなのは先頭をいく大男だけで、残りのふたりは明らかにお荷物と見える老いぼれとお嬢様だ。

 男がどれほど凄腕だったとしても、先んじて女か老人を人質にとってしまえば身動きがとれまい。

 そう、戦う前から勝利を確信していた。


 案内人の仕事は、あらゆる危機から依頼人を守ること。

 ユーリの反応は素早かった。

 前方に姿を現した男に対し、驚くべき瞬発力で接近すると、「命が惜しけりゃ――」と言いかけていた顔面に、右ストレートを叩き込む。

 鋼鉄をも陥没させる拳を受けて吹っ飛ぶ男。血と前歯が飛び散り地面に落ちる前に、近くの女の膝を蹴り砕いた。激痛のあまり姿勢を崩した女の肩を踏み台に、数メートルも跳び上がる。着地点に立っていた男の頭にかかとを振り下ろした。頭蓋骨がへこみ絶命した男の死体をボールのように蹴り飛ばし、膝を抱えて呻き声を上げている女の背中にぶち当てる。鈍い音は、背骨でも折れたか。

 最初に拳で吹っ飛ばされた男は、仰向けで大地に転がり、ぴくぴくと痙攣したまま起きあがってこない。


「なんの用だ?」

 

 道でも尋ねるような調子でユーリは言った。

 一瞬にして仲間を半数も戦闘不能にされた男たちは、直前までの楽勝気分もどこへやら、顔から色を失っている。


 そんな彼らに対し、ユーリは肉食獣を想わせる獰猛な笑みを向けた。


「俺の客に手を出そうとは、いい度胸だな。無事に帰れると思うなよ」

「ふ、ふざけるんじゃねぇ! 動くな!」


 震え上がり武器を落としそうになる男たちだったが、ひとりだけ、なんとか意味のある動きができた者がいた。

 横手の茂みに隠れていた若い男が、クロスボウを手にして、照準をエストレアへ定めている。


「動くと、その女を撃つぞ」

「やってみろよ」


 ユーリは平然として言った。


「ただし、引き金を引いたら最後、死ぬのはおまえだがな」


 人間離れしたユーリのスピードをもってすれば、男が引き金を引く前にクロスボウを粉砕することも、発射された矢がエストレアを貫く前にそれを掴み取ることさえ容易だ。

 男は息をのむ。脂汗を流し、錆び付いた頭脳をフル回転させていた。

 楽なハンティングのはずが、いつの間にかそこは死地。どうすればこの状況から生きて帰ることができるのか。

 黙っていても、おそらくユーリは男たちを見逃さないだろう。

 ならば最後のあがきとして引き金を引くのか。それとも、武器を手放して命乞いをしてみせるのか。

 果たして、決断は。


「ひとつ、忠告だ」


 ユーリが言った。


「使うなら、上の奴にしておけ」


 背の高い木々の葉が重なり合い、密集した地点を指さす。

 思わずそれに従って視線を頭上へ向けてしまう、男。

 仰ぎ見た先に、逆さまの顔があった。


「お――」


 男は声を上げようとしたらしいが、それさえも不可能だった。

 漆黒の巨大な影が降りてきたと見えた次の瞬間、それは恐るべき俊敏さで男を抱きしめると、まぼろしのように消失した。


 ごきゅ、ごき、ごきゅり、と、胸の悪くなるような音が頭上から響いてくる。

 男が手にしていたクロスボウが地面に落ちた。

 ざざ、ざああ、ざざざ、と、密集した葉の中を移動する気配。


 ぽたぽたと垂れ落ちる血液が、ユーリたちを囲うように円を描いた。

 肌を突き刺す殺気の主は、木の幹や枝を足場代わりに、樹上の空間を平地のように駆け回っているようだ。それも、男をひとり抱えたままで。

 ユーリと同様、人間離れした身軽さだ。

 いや、この者の正体は人間ですらない。


 エストレアは不安を隠し切れぬ様子でレンヴィクセンに寄り添う。


「なんですの、これは……」

「ウェンディゴ、ですな」


 老魔法使いは微動だにもせず言った。

 ユーリは振り返らずに答える。


「ご名答。ここらでは《闇猿》とも呼ぶがね。よく知ってるな、爺さん」

「……倒せるのだろうな? これは、S級冒険者の仕事だぞ」

「ああ、問題ない」


 ユーリは剣を抜いた。濡れたように妖しく輝く刀身。


 襲撃者たちは、まだ生きているのはいいものの、この場の恐怖に呑まれて身動きひとつとれない。

 残ったふたりの目の前に、先ほどのクロスボウの男が落ちてきた。

 尋常ではないパワーによって全身の骨という骨を砕かれ、手足がまるで出鱈目な方向を向き、ボールのように丸く折り畳まれた姿。目玉はふたつともくり抜かれている。


 無惨にも変わり果てた仲間の姿を前にして、男と女は恐慌状態に陥った。

 全身全霊をこめて絶叫を上げようと、口を大きく開く。

 ――降ってきた影が両者の顔を掴むと、キスさせるように、激突させた。

 まるで粘土細工をぶつけ合わせたかのごとく、両者の顔面が破裂する。そしてひとつとなって、崩れ落ちた。


 きゃっきゃっ、と、甲高い奇声が響く。

 異様に手足の長い巨大な猿が、木々の枝に尻尾を巻き付けてぶら下がった姿勢から、逆さまの顔に笑みを浮かべていた。分厚い唇をめくり上げ、歯茎をむきだしにしている。


 この魔物の名は、ウェンディゴ。

 《闇猿》の名を冠し、《破壊者クラッシャー》と恐れられる殺し屋だ。

 漆黒の体毛に包まれた巨躯と、それに見合ったパワー、スピード、樹上を自在に走り回るトリッキーな身のこなし、人間と同等の知能を誇る、第一階層最強クラスの魔物である。何頭かが集まれば、地竜を狩ることもあるという。


 血に飢えた魔猿はまたしても樹上へ姿を消すと、周囲を高速で駆け巡った。

 変則的な動きで、ユーリを攪乱しようというのか。

 

 ユーリは動かない。

 ただ、なにかを待つように、じっとしている。


 ざわめく音が消えた。

 そして次の瞬間、黒い影が降ってくる。

 ユーリは背中から倒れ込むように、わざと身体のバランスを崩した。

 目と鼻の先で、ウェンディゴの伸ばした腕が空を掴む。

 不自然な姿勢から、縦に剣を振り下ろす。

 血が飛び散り、獣の不気味な雄叫びが轟いた。


 剣はウェンディゴの両手首を断ち切り、顔面を真っ二つに切り裂いた。 

 だが、顔の傷は、致命傷に至るほど深くはない。

 ユーリの動きに直感的な危機を覚えたウェンディゴは、すんでのところで尻尾に力を入れて、下降にブレーキをかけていたのだ。

 そうでなくては、切っ先は一撃で脳に達し、命を奪っていただろう。


 ユーリは片手を剣から離すと、地に着けてバネ仕掛けのように跳んだ。二転三転して距離をとる。

 両手を失ったウェンディゴが大地に降りた。血塗れの顔面。双眸が煮えたぎるような殺意を帯びている。


 エストレアの耳を、突き刺すような痛みが襲った。

 空気そのものが震え、鼓膜に鋭い刺激を与えてくる。


 ウェンディゴの全身が、陽炎のように揺らいでいる。

 正確には、その肉体を覆う漆黒の毛並みが細かく振動しているのだ。

 微細な針のような剛毛が超振動を起こすことによって、触れるものすべてを砕く武器と化す――《破壊者クラッシャー》と呼ばれるゆえんだ。

 この状態となったウェンディゴは、接触するだけで剣も魔法も弾き飛ばし、人体をグシャグシャの挽き肉へと変える。攻防を同時に果たす無敵の武器。

 両手がなくとも、それを補って余りあるほどの危険に満ちている。


 前触れもなく、ユーリから仕掛けた。

 触れれば挽き肉となる超振動に対して怯懦もなく、真正面から飛び込んでいく。

 ウェンディゴも、すでに遊びの余裕はない。牙をむき、低い姿勢からタックルをぶちかます。

 激突する寸前、ユーリは跳躍した。

 ウェンディゴの頭上を飛び越えながら、空中で一回転。

 剣を振り抜いた姿勢で、地に降り立つ。

 その背後で、頭頂から背中にかけてぱっくりと断ち割られたウェンディゴが、地響きを立てて崩れ落ちた。今度こそ、頭蓋を断ち脳に達する致命傷である。


「今日の晩飯が決まったな」


 剣を鞘に納め、ユーリが言った。

 変な声を出す、エストレア。


「ま、まさか、ですわよね?」

「心配するな。ゲテモノだが、うまいぞ。保釈金を支払ってくれた礼に、猿のフルコースを振る舞ってやるよ」


 白い歯を見せる、頼もしげなユーリの笑顔が、いまのエストレアにとっては死神の鎌にも等しかった。


 ◆



 ユーリはさっさと野営地を定めると魔物除けの結界とテントを張り、川から水をくんできて火をおこした。

 担ぎ上げて運んだウェンディゴの死骸に剣を振り下ろし、ざくざくと切り刻んでいく。


「いつも言っているでしょう。私を包丁代わりに使わないで」

「文句言うなよ、客のためだ」


 まずえぐり出した心臓に木の杭を突き刺して火にさらした。肉は筋張っていて硬いので、食用に適しているのはもっぱら内蔵部分となる。

 小腸を裏返して水で綺麗に洗い、腹腔に溜まっていた血の塊を詰めたものを、鍋いっぱいの湯に沈める。

 さらに、ウェンディゴの頭部に剣を突き刺し、深く貫きすぎないよう慎重に切れ目を一周させ、カパッと蓋開いた。


 火を囲むかたちで手頃な石に座り、簡易的な食卓についた三人。

 

「さて、これがとれたてのウェンディゴのフルコースだ」

「あ、ああ……」

「心臓の丸焼き」

「ひっ」

「血の腸詰め」

「ひいいっ」

「脳味噌そのまんま」

「いやあああああああああああっ」


 エストレアは顔を両手で覆うと、そのままうずくまってしまった。


「い、いやですわっ。食べたくありませんわっ」

「見た目は悪いが、味は――」


 そう言いながら、ユーリは串刺しにした心臓にかぶりつく。

 弾力ある肉質を、ガツガツとかみ砕く。


「うむ。噛めば噛むほど血の味がしてうまい」

「血の味しかしませんわよっ、このメニュー!」


 エストレアは縦ロールの金髪を振り乱しながら叫んだ。

 ユーリは心外だと言わんばかりの顔をした。


「ぜいたく言うなよ。ここではまともな食事にありつけるだけでも幸運なんだぞ」

「ですがっ! もっと他にあるでしょう、乾パンとか干し肉とか、ぶどう酒とか!」

「そいつは非常食だ。いよいよ食うものがなくなったらそれに頼るが、基本は現地調達だよ」

「だかといって魔物を食べるだなんて……ひ、非常識ですわっ」


 エストレアは、見るのもおぞましいと言いたげに顔をそらす。

 日頃から食に不自由していない貴族であるということを横に置いても、魔物の肉を食する文化には強い抵抗があるようだ。

 レンヴィクセンはというと、猿の首を手に取り、ぼそりと呟いた。


「小僧。酢はあるか」

「酢?」

「そうだ。猿の脳味噌には酢であろう」

「あるよ。ほれ」


 小瓶を手渡してやると、それを脳味噌の上から盛大にふりかけ、銀のスプーンですくいとって口へ運んだ。

 むっしゃむっしゃと咀嚼する。


「うむ、うまいな」

「俺はレモン汁が一番合うと思うがね。爺さん、意外といける口だな」

「かつて修行中の身であった頃は、どんな物でも口に入れていたからな。さすがに、ウェンディゴを食らうのはこれが初めてだが」


 レンヴィクセンは、がらんどうとなったウェンディゴの死体へ目を向けた。


「まさか本当に、あのようにあっさりと倒してしまうとはな。ウェンディゴといえば、各地の禁域で冒険者が恐れる強大な魔猿。ときには騎士団が討伐に赴かねばならんほどの獣だというのに」

「言ったろ。この大迷宮は、よそとは違う。ウェンディゴごときに手こずっているようじゃ、案内人なんてつとまらんよ」


 心臓を貪りながら淡々と言う。

 案内人としての責務を確実に果たすためには、その階層に存在するあらゆる魔物を倒せる程度の力量は必要不可欠だ。

 

「……その剣、並みの代物ではないな。毛並みを震わせたウェンディゴを斬れば、ただの武器など粉微塵に砕けるはずだが」

「ああ。これか」


 ユーリの腰に吊ってある一振りの剣。

 鋼鉄を粉々にする超振動をものともせず美しい断面を切り開き、刃こぼれひとつ見せていない。尋常ならざる、業物である。


「相棒だ。俺はこいつを手に入れるために案内人になった」

「アーティファクトか。どんな魔力をそなえている?」


 レンヴィクセンは瞳に強い好奇心を光らせた。

 魔力を帯びた道具のことをマジックアイテムと呼ぶ。炎をまとう剣だとか、風に乗り空を飛ぶことができる靴などだ。とりわけその効果の強力なものは、現代の魔法使いでは再現できないほど高度な技術と魔力が作製に用いられていることから、遺産アーティファクトと呼ばれ、珍重されている。

 その性能はさまざまだが、ユーリの魔剣は、というと。


「折れない。曲がらない。よく斬れる」

「――それだけか?」

「それで充分なのさ。剣として、こいつ以上のものはない」


 拍子抜けしたように言うレンヴィクセン。ユーリは軽くうなずいた。


「あんたの言うとおり、並みの剣じゃあ、《闇猿》さえまともに斬れやしないし、下層のもっと手強い魔物を相手取るなんて不可能だ」

「ウェンディゴを超える魔物が潜んでいるというのか」

「いくらでもいるさ。この階層で言えば吸血鬼や地竜、《叫喚者スクリーマー》だな。第二階層には人食いドワーフとマグマの化け物なんかもうようよしてる。だが、全体から見ればそいつらはたいしたもんじゃない。地獄を見るのは第四階層。上級古代龍ハイ・エンシェントドラゴンが無数に飛び回る雲海で、鋼の剣など棒きれと同じだ」


 老魔法使いはごくりと息を呑んだ。

 五百年を生きる彼とて上級古代龍をその目で見たことなどない。今では完全に地上から姿を消し、伝説のみで語られる存在だ。封印されし禁断の書物が語るところによれば、その暴威はゆうに国家を震撼させるに足るという。

 だがユーリは不適な表情を見せる。


「――どんな奴が来ようが、こいつさえあればブッた斬れる」

 

 まるで実際に龍を斬ったことがあるかのように。

 いや。

 あるのだ。

 そう確信させる説得力が、ユーリの全身からみなぎっていた。


「それと、斬れるのも大事だが、折れない曲がらないってのは重要なんだ。普通の剣で斬ってると、すぐに血と油でなまくらになっちまう。日銭を稼いですぐ帰る連中ならそれでもいいかもだが、もっと下層まで潜ろうとするなら剣を選ぶのは正解じゃない。だからマジックアイテムを持ってない連中の間では、棍棒とか戦槌ハンマーみたいな鈍器が人気だな。刃こぼれを気にせず、常に同じパフォーマンスを期待できるのは大きい」

「ほう。そこをゆくとその魔剣なら、劣化を気にせずに斬り続けられるというわけか」

「戦闘はなるべく避けるのが基本だけどな。――まあ、長々と語ったが、俺がこいつを使うのは結局、手になじむってのが一番だ」

「……なんだか、震えていませんこと、その剣?」

「気のせいだろ」


 ぺし、と鞘を叩く。

 しゃべりすぎた、と後悔するような表情を見せてから、エストレアに視線を向けた。


「ほら。食わないのか?」

「うっ。ですが……」


 なおも躊躇する、エストレア。

 嫌悪感をあらわにして、猿のフルコースを視界から外す。


「冒険に憧れてたんだろ? 冒険者ってのは体力が資本だ。そのためには精のつくものを食べなくちゃな」

「うぅぅぅぅ」


 涙目になりつつ、串刺しの肉を手に取る。

 それを親の敵のように睨みつけると、ついに観念したのか、かぷりとかわいらしく口をつけた。

 ほんの少しだけ肉を噛み千切り、もぐもぐ、と咀嚼する。

 そして、しばらくが経つ。

 きつく閉じられていた目蓋が、驚いたように見開かれた。

 

「お、おいしいですわ、これ!」

「だろ」

「ええ。見かけはちょっと――かなりアレですけれども、ぷりぷりした歯ごたえといい、たっぷり染み出る肉汁の旨みといい、とてもあの恐ろしい魔物のお肉とは思えませんわ」


 エストレアは実のところ、道中の運動のせいでかなり腹が空いていたらしい。いったん勇気を出して口をつけてからは、遠慮なく肉にかぶりついている。


「上品な料理に慣れてるお嬢様の好みに合うか心配だったんだが」

「あら、わたくし、そういったことは気にしませんわよ。どんなお料理でも感謝していただかなくてはなりませんわ。……まあ、魔物のお肉はちょっと想定外でしたけれど……でも、本当にとてもおいしいですわ!」


 満面の笑顔を広げるエストレアは、かなり大きい肉の塊を、あっという間に半分ほど平らげてしまった。

 腹が満たされてくると気持ちに余裕が生まれたのか、今まで気にならなかったことまで疑問に思うようになってしまう。


「ところでこのお肉、あのお猿さんの、どの部分ですの?」

「ああ。それか。さすがお嬢様はお目が高いな。いちばん滋養のつく部分だよ」

「……? なんですの? このお肉、まるで亀さんのような形ですけど」

 小首を傾げる、エストレア。

 うつむいて肩を震わせていたレンヴィクセンが、こらえきれぬといった様子で「ぶっふぉっ」と吹き出した。彼は、令嬢の口にした部分の正体を知っているようだ。

 ユーリは、肉をすっかり食べ終えた杭を火にくべると、まじめくさった顔つきで言った。


「つまりだな、それはチン――」


 エストレアにとっては幸か不幸か、異変が起こったのはそのときだった。

 周囲の空間が、激しく歪む。

 

「なんだ!?」


 レンヴィクセンが声を上げた。

 ユーリは無言ですばやく立ち上がり、まわりに視線を巡らせた。

 

 森も、霧も、闇も、大地も、蜃気楼のようにぼやけて歪む。

 モザイクのように焦点が分散して、そして再び結合したとき、そこには、今までとはまったく異なる光景が広がっていた。


 そこは、まるでどこかの城の廊下のようであった。

 延々と続くかと思われる、石造りの長い通路。左右には燭台が無数に並び、蝋燭の炎があたりを照らしている。

 床に敷かれた絨毯は赤く、くるぶしまで埋まりそうなほどにふかふかと柔らかい。


「いったいなにごとですの!?」

「く、空間ごと歪めて私たちを転移させたとでもいうのか……」

「いや、飛んできたのはこの城のほうだ。俺たちのいるところを狙ってな」


 ユーリは剣を抜きながら冷静に言った。


「《霧の城》。俺も噂でしか聞いたことがない。高位の吸血鬼が住むとか言われているが――」


 台詞の後半を遮る、爆発音。

 廊下のはるか彼方で、天井を突き破り、巨大な物体が落下した。


 同時に吹き付けてくる、圧倒的な、負の臭気。

 腐った血と泥と臓物の臭い。


 それは、醜かった。

 醜い。

 とてつもなく醜い。


 ユーリたちの脳裏によぎったのは、視覚によって得た情報からの率直な感想だ。


 皮膚が存在しない、てらてらといやらしく光る、湿り気を帯びた全身。ピンク色の大きな肉団子を無数に合体させ、胴体を模し、四肢を模し、人間の容貌を辛うじて模したかのような異形。

 そう、異形だ。模したとはいえほとんど失敗しているのと変わらない。手にも足にも指はなく、耳も鼻も口もない。首もない。ひときわ大きな肉団子が胴体の上部に半球状になって結合していて、そこの右側と左側に、血走った眼球が取り付けられている。目蓋はない。

 まるで狂った子供のきちがいじみた創作の結果。狂気の産物。

 肉の化け物は、その背丈が三メートルを超え、横幅も二メートル近い。

 巨大な、肉の、異形の塊。

 ユーリは、嘲笑もあらわに、叩きつけるように吐き捨てた。


「ブッサイクなもんを繰り出しやがって」


 その耳朶を打ったのは、暗く冷たくおぞましい、狂った悪意に満ちた声。

 男と女の楽しげな声が、重なり合うように響きわたる。


「ゲーム・スタート」


 それを合図として、肉の巨人が、重々しく床を蹴った。


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