《CITY HUNTER》
とにかく退屈な仕事である。
男は本日、何度目になるかわからない欠伸を漏らした。
扉を挟んで反対側に立つ男がそれを軽く咎める。
「おい。気を抜くなよ。ラグファルさんに見つかったらタダじゃすまないぞ」
「わかってるよ。だがこうも暇だとな」
「たしかに」
ラグファルが根城とするこの建物の出入り口を固めるだけという簡単な用心棒の仕事。
金払いのいい雇い主だし待遇にも文句はないが、こうも連日、何事も起きず平和に時間が流れていくと、目新しい刺激を欲してしまう。
「どっかにおもしろいことでも転がってねぇかなあ」
「バカなこと言ってないでまじめにやれよ」
「へいへい、わかってますよ」
うるさい相方だと思いながら、頭をかく。
「ねえ、おじさま」
清水で耳を洗われたかと錯覚するほどの美声。
それはまるで天使の歌声であった。
驚いて前を見ると、いつ近寄ってきていたのか、ふたりの少女がたたずんでいる。
片や、漆黒のゴシックロリータに身を包んだ銀髪の少女。すらりと伸びたスレンダーな体つきと人形めいた顔立ち、浮き世離れした茫洋たる視線が幽玄の美を想わせる。
そして片や、男に声をかけてきたのは、教会の聖画からこっそり抜け出してこのうらぶれた闇市場に降臨した天使。栗色のやわらかなショートボブに大きな瞳、純白のドレスが神々しい輝きを放つ、十二歳ほどの幼女だ。
「すてきなおじさま。私たちと遊んでくださらない?」
天使は、小首をかしげてにっこりと微笑んだ。
たったそれだけで男の喉はからからに乾き、心臓が高鳴る。
相方も同様に、呼吸さえ忘れたように口をあんぐりと開き、硬直してしまっている。
さもありなん、神の創り出した究極の芸術品を前にして、人間の感性など粉々に打ち砕かれるのみ。
なんとか言葉を絞り出すことができたのは、自分自身をほめたたえてやりたいほどだ。
「あ、遊ぶ……って」
「いやよ、おじさま。私たちに言わせるつもり?」
ころころと無邪気に笑う。
そして、繊細な白い指先で、狭い路地裏への入り口を指さした。
「ねえ。あの奥で、私たちと楽しいこと、しましょう?」
「た、楽しいこと」
「そう。楽しくって気持ちのいいこと、たくさん、ね?」
その妖しき声が耳朶を打つだけで、背筋を恍惚が駆け抜ける。
どう考えてもこれは、誘われている。
この少女たちは高級娼婦なのか? ただの夜鷹とは身なりも風格も明らかに違いすぎる。別次元だ。
抜け目なく周囲を見渡すと、あいかわらず多種多様な人間の往来と喧噪が渦巻いているが、不思議なことに誰もこの少女たちには気付いていないようだ。
男たちにとっては望外の幸運だった。
こんなご馳走を他人に分け与えるなどありえない。
「お、おれたち、か、金、あんまり持ってないんだけど」
「お金なんていらないわ。おじさまたちは特別よ。さ、いきましょう?」
男たちはついにこらえきれず唾液を垂れ流し、がくがくと首を振り前屈みになりつつ、先をいく少女たちに誘われるがまま路地裏に消えた。
直後、鈍い打撲音が二度、連続した。
そして重々しく何かが倒れる音がふたつ。
やがて戻ってきたのはクラティアとレナーテだけだった。
それを見計らって姿を現したユーリが、「お疲れさん」と声をかける。
「最低よ」
むくれたクラティアが言った。
腰に手を当てて、いかにも不機嫌そうだ。
「妻に娼婦まがいのことをさせるなんて」
「悪いな。おかげで楽に進入できそうだ。騒ぎを起こしてラグファルに逃げられたら、面倒だからな」
「ふんっ。この埋め合わせは必ずしてもらうわよ」
「わかってるって。それにしても名演技だったな。さすがだ」
ほめそやしてやると、顔を赤くして照れ隠しのように髪をかきあげる。
「と、当然よ。これが大人の魅力というものよ。ふふん。よくって、獣娘? おまえのような未熟者にはまだまだたどり着けない、本物の色香を見たかしら?」
自慢げに胸を張る。
レナーテは何も言わず、じとーっと視線を向けている。
「もちろん彼だって私の魅力の虜なのよ。毎晩ひぃひぃ言わせているわ!」
ちなみに昨晩の某夫婦の様子。
――ごがあ゛あ゛あ゛あ゛!!! くそがあああ゛あ゛あ゛っ!!! 壊れる、壊れる壊れるごわ゛れ゛る゛ううううううっ!!! ふんぎいいいいいいいっ!!! 死ぬっ! 死ぬ死ぬもう死んじゃううううううっ!!! ごあああ゛あ゛あ゛あ゛っ!!! ひいいいいいっ! ひいいいいっ!! やっ、やめっ――やめやがったらぶっ殺すわよぢぎじょおおおおおおっ。殺してやるっ。ブッ殺してやるっ!! ぶちごろじでやる腐れ人間があああ゛あ゛あ゛!!! ひぎゃあああああ、ごわれるうううううもうだめだめだめだめあああああああああ死んじゃうううううあああああああ死ぬ゛死ぬ゛ぅぅ――ッ!!!!!
某幼な妻が普段の怜悧な気品あふれるたたずまいをかなぐり捨てて、全裸でベッドの上に四つん這いとなり、涙とよだれと汗と鼻水で顔面をぐちゃぐちゃに汚しながら、髪を振り乱し狂ったケダモノのように罵詈雑言を並べ立てて吠えまくる異様な痴態がそこにあった。
「ひぃひぃ言わせてやってるわ!」
むなしく響くクラティアの高笑い。
レナーテの視線も、どこか哀れみを含んでいるようにも見えた。
それはともかくとして、「遊んでないでさっさとすませるぞ」と扉に手をかけるユーリ。
「ババアは消えとけよ。俺とレナーテで十分だ」
「いいわ」
扉の向こうに人の気配がないことは確認している。
ドアノブを回すと、開いた扉の隙間に素早く体を潜り込ませた。
どうやらここは裏口にあたるらしい。
入ってすぐ見えたのはキッチンだった。
ユーリは姿勢を低くすると、猫科の肉食獣を連想させるしなやかな動作で音もなく歩いた。
静かに扉を閉めたレナーテが後ろから続く。
内部はまともに掃除されていないようで、いたるところにゴミが散乱しており、内装に埃が積もっている。
リビングから、複数の人間の話し声が聞こえてきた。
指先でレナーテに合図を送ってから、扉に張り付き、じっと聞き耳を立てる。
「今日の儲けはどうだ?」
「順調ですよ、ラグファルさん。このままいけばノルマなんてすぐでさ」
偉そうに構えた声と、小動物のように甲高い声。
名前を呼ばれていることもあり、前者がラグファルだろう。
「ふん、ノルマか。――おまえら、あの男のことをどう思ってる?」
「どう、っていいますと」
「確かにおいしい思いをさせたもらったが、奴はこっちのやることに口を出しすぎだ。……邪魔になってきた、と思わないか?」
「するってぇと」
「ああ。そろそろ、奴に別れを告げなきゃならんだろう」
そこから先は声をひそめたので、うまく聞き取ることができなかった。
ユーリは、室内に踏み込むことを決意する。
なにやらよからぬことを企てているようでもあったが、ユーリには関係ない。
フェアラートが生きたまま連れてこいと指示したならそれに従うだけであって、ターゲットの背景には興味がない。
もう一度、指先でレナーテに指示を出す。
こくり、と、うなずく少女。
次の瞬間、ユーリは一気に扉を蹴破った。
蝶番の破壊された扉が室内に向かって吹き飛び、男を巻き添えに壁へ激突する。
リビングには、五人の男たちが集まっていた。
テーブルを挟んで置かれたふたつのソファに向かい合って座っている男がふたり。壁際に立っているのがふたり。そしていま、扉ごと吹き飛んだのが最後の一人。
いずれも闇市場にふさわしいごろつきの風貌だったが、誰がラグファルなのかといえば、ソファにどっかりと座っているのがそうだろう。この場のリーダーとしての振るまいがそう感じさせる。
ユーリは疾風のごとく動くと、まず近くに立っていた男の横っ腹に拳をめり込ませた。
胃液をぶちまけるよりも先に首筋へ肘鉄を叩き込む。骨を粉砕した手応え。
男たちはこの時点でもまだ、なにが起こったのか反応すらできずに棒立ちだった。
やっと異変に気付いた男が驚愕の表情を浮かべるが、その肉体がアクションを起こす前に、喉仏へ手刀を突き刺す。
気管をグシャグシャに潰された男は、奇妙な声を上げ、喉をかきむしりながら白目をむいて絶命した。
瞬く間に命を奪われたふたりが、床の上に倒れ伏す。
ラグファルの対面に座っていた小男の首が、きりもみ回転しながら宙に舞った。剣より鋭いレナーテの手刀だ。
最初に扉と共に吹っ飛んだ男は、打ち所が悪かったのか、起きあがる気配がない。
男たちはあっという間に、リーダーを残して全滅した。
「おまえがラグファルか?」
「だったらどうした?」
落ち着き払った声で応える男。
ラグファルは上半身に何も身につけておらず、その引き締まった肉体のいたるところに薔薇の入れ墨を彫った、金髪の若い男だった。
美形だが、他人を蹴落としてのしあがることに躊躇しない卑劣な性格が浮き彫りとなっている。
ユーリは剣の柄に手をかけつつ、上からラグファルを見下ろした。
「御託を並べるのは好きじゃない。いっしょに来てもらおうか」
「丁重にお断りする」
にやにやと嘲笑を浮かべたラグファルは、そう言い放つと俊敏な身のこなしでソファを飛び越え、距離をとった。
当然、ユーリはそれを追う。
だが突如として生じた危機感に、それを中断し、後ろへの退避を選択せざるを得なかった。
床板を破壊し、足下から伸びる、幾筋もの銀光。
ユーリの頭部や胴体を狙って空中を走るそれらの切っ先は鋭い。
反射的に剣で切り裂くと、一瞬の堅い手応えの後にあっさり切断することができた。
しかし、周囲の風景を映し出す銀色の液体のようなそれは、裂かれても痛痒を感じないのか、空中で切断面が溶け合うようにくっつき、何事もなかったかのように再びひとつとなる。
「なんだこりゃ」
飛び退いたユーリが驚いている眼前で、床下からのそのそと這い出てきた銀色の液体の塊は、ふるふると微妙に震えながらこちらに近づいてくる。
部屋の壁際まで後退したラグファルが得意げに言った。
「おまえ、案内人のユーリだろ? 俺なんかが有名人の相手をしては失礼ってもんだ。せいぜいその水たまり君と仲良く遊んでくれよ。そいつは俺の大切な守護神。無敵の兵器なんだ」
分厚い水たまりは、表面をぷるぷると震えさせながら、這うように間合いを詰めてくる。
その動きだけを見れば鈍重だが、予備動作なしで部分的に伸ばしてくる槍のような一撃は弾丸のように俊敏だ。その威力は、人間を穴あきチーズのように変えるだろう。
一度に十本以上の槍を伸ばし、ユーリとレナーテを同時に襲う。
ユーリはそのすべてをことごとく剣で弾き飛ばし、レナーテは素手で迎え撃った。
しかし、どれだけ切り飛ばし、殴って砕こうとも、すぐに元通りの形に復元してしまう。
舌打ちするユーリに対してクラティアが言った。
「ユーリ。それは液体金属によって創り出された魔法生物の一種よ。生命が存在するわけではないから、単純な物理攻撃は意味をなさないわ」
「だったら、どうすりゃいい!」
「簡単よ。所有者の魔力を帯びて指示に従っているだけなのだから、元を絶てばいいだけだわ」
「なるほど」
「とはいえ、自動防衛プログラムぐらいは組んであるでしょうから容易ではないけれど」
「いや、造作もないな」
ユーリは、いきなりソファを蹴り上げた。
卓越した脚力によって重たいソファは軽々と浮かび上がり、ラグファルめがけた軌道で水たまりの上空を飛び越える。
液体金属製の守護神は、当然この事態に素早く対応した。
無数の槍を伸ばし、主人に危害を加えようとする曲者を串刺しの刑に処す。
無惨にも蜂の巣にされたソファ。
その瞬間を狙って、レナーテは床を蹴った。
弾丸の速度。
獲物をしとめた直後、剣山と化して硬直した魔法生物の隙を突いて、回し蹴りを放つ。
鋼鉄並みの硬度を誇る剣山を、草を刈るようにまとめてへし折る、大鎌のごとき一撃。
支えを失ったソファが重力に従い落下する寸前、銀の水滴が飛沫となって散らばる空中を、ユーリは二発目の弾丸と化して突き破り、ラグファルに肉薄する。魔法生物が復元するまでのわずかなタイムラグを突いたのだ。
追いつめられた男の、ひきつった表情。
その鳩尾へ剣の柄を叩き込む。
体をくの字に折ったラグファルの背中へ、肘鉄を落とす。
床に叩きつけられたラグファルは、血の混じった胃液をぶちまけて悶絶した。
「悪いな。遊んでるほど暇じゃないんだよ」
「くそったれ……!」
ラグファルはせき込みながら、ユーリを睨みつけてくる。
その背中を踏みつけて動きを封じ、レナーテになにか縛る物を見つけてくるよう命じた。
先ほどまでユーリたちを苦しめていた魔法生物は、今ではただの無力な水たまりとなって床に広がっている。
使用者であるラグファルが、それを操るどころの状態ではなくなったためだろう。
「しかしおまえ、本当に三階層案内人か? あんなものに頼りきりで本人はこのざまかよ。よくそれで仕事がつとまるな」
「黙りな。俺を侮辱すると、後悔するぜ」
「ほお。どんなふうに?」
「いまに分かるさ。俺の後ろには、おまえの想像もつかない大物が――」
そのときだった。
建物の外がにわかに騒がしくなるのが分かった。
闇市場の喧噪に、混乱と怒号が色濃く加わる。
「なんだ……」
ユーリがそう口に出すと、裏口の扉を蹴破る音が聞こえた。
何人もの人間の足音が響く。
とっさに、手振りでレナーテに逃げるよう指示する。
うなずくこともなく身をひるがえすと、レナーテは俊敏な動きで窓を割って建物の外へ消えた。
それと同時に室内へ押し入ってきたのは、白き鎧を身にまとった一団であった。
「全員、その場から動くな! 我らはリメイン治安維持局が巡察執行士、《白龍騎士団》である!」
先頭に立つ女が高らかに叫ぶ。
年齢は二十歳になったばかりといったところか。
美と勇を兼ね備えた、覇気あふれる女騎士だ。腰には剣。金色の布と純白の鎧は、手足と胸腰だけを守護しており、豊かな乳房の上部や肩、くびれた腹や肉付きのいい太股などは、滑らかな白磁の肌がむきだしとなっている。
頭部の左右で纏めた二房の髪は、燃えるように赤い。
視線は凛々しく、何者も寄せ付けぬ気高さにあふれており、鼻梁はすっきりと整っていて、絶世の美女と呼ぶにふさわしい。
女の名はファラーシャ。このリメインでもっとも気高く、そして悪名高い、巡察執行士の中でも選りすぐりの過激派を集めた《白龍騎士団》を率いる若き女傑。
その苛烈きわまる性格と行動から、《白龍の咆哮》とも渾名される。
睨まれた者は二度と安らかに眠れないと噂されるその瞳で、室内をぐるりと見渡す。
「窓から外にでた者がいるぞ! 絶対に逃がすな!」
おそらくは建物の外を囲んでいるである部下に声を飛ばす。
ただし、レナーテが捕まることはありえないだろう。その点だけは安心できた。
むしろ彼女より自分の身を心配したほうがいい。
ファラーシャは冷酷な光を宿す瞳でユーリを睨みつけた。
「貴様は案内人のユーリか。なぜここにいる?」
「なぜ、と言われてもな」
ユーリは足下で踏み台となっているラグファルに視線を落とした。
「こいつが抜け荷をやってるらしいと聞いたもんでね。同業者として見逃せないと思って、捕まえに来たんだ」
「ふん。どうだろうな? 案外、貴様もその男の仲間ではないのか?」
ファラーシャがラグファルの違法行為を摘発するためにここにやってきたというなら、ユーリは、偶然この場に居合わせただけということで通すのは難しいかもしれない。
いかなる犯罪も許さないといわんばかりの眼光。
それがひときわ強く輝いた。
「貴様っ。動くなと言ったはずだ!」
「た、助け――」
顔を上げたラグファル。呻きのような声を上げる。
それに対してファラーシャは、右手の甲をさっと突きつけるような動きで対応した。その細い中指には、金と白銀を複雑な螺旋状に組み合わせたデザインの指輪が輝いている。
指輪が強烈な光を放つ。
その光線がラグファルの顔面に命中すると、水風船の弾けるような音と共に、真っ赤な血と脳漿の華が咲いた。
足の下で人間が痙攣して動かなくなる感触。
なんともいえぬ猛烈な臓物の異臭が漂う。
「リメインの秩序を乱す輩には、死あるのみ」
厳かに呟いたファラーシャは、その指輪をユーリにも向けた。
「案内人ユーリ。貴様もその男の後を追いたくなければ、同行してもらおうか。詳しく事情を聞く必要がある。五階層案内人だからといって拒否権があると思うなよ。私の言葉は、リメインの言葉。絶対正義の法そのものだ。逆らうことは許されぬ」
ユーリは舌打ちして、両手を掲げた。
こうなっては、レナーテに期待するしかないだろう。
彼女がフェアラートに事態を報告して助けに来てくれるのが先か、それとも、頭蓋骨の中身を床に晒し湯気を立てている男の仲間入りを果たすのが先か。
侯爵家令嬢の案内を果たす前に、とんだ賭けを強いられる羽目になったようだった。