《レナーテと朝稽古》
その日、リメインの中央を走る大通りに現れたのは、見る者の眼を釘付けにするほど立派な馬車だった。
妖しく輝く漆黒の軍馬に引かれる、全長は六メートル、高さは三メートルを超えるであろう六頭立ての馬車。
木製の車体は黄金の彫刻で覆い尽くされ、窓枠にはルビーやサファイアなどの宝石が埋め込まれており、屋根の上には、巨大な王冠が取り付けられている。
普段なら、リメインの市民は、どんな貴族の来訪にもさほど大きな驚きを示さない。
迷宮都市リメインの富と栄光を目的に、どこぞの国の王だとか英雄だとかが世界各地から頻繁に足を運んでくるのだ。そのすべてにいちいち驚いていたらきりがない。
だが、この日ばかりは、大通りを歩く者たちすべてが足を止めて、馬車に注目せざるを得なかった。
あれに乗っているのは、いったいどこの国の王族だ?
さぞかし有名な大国の王か、それに次ぐ地位の持ち主に違いない。
豪壮なる馬車のあまりの美しさに、思わずため息をもらしてしまう。
そして件の馬車に乗る人物は、というと。
外の民衆とは別の理由で、小さなため息を吐き出していた。
「まるで見せ物小屋の猿にでもなった気分だな」
客室内のソファに腰掛けているのは、齢七十を半ばも過ぎようかという老人である。
渋面をつくっている顔には、年相応の深々としたしわが刻まれており、古木を思わせる。口髭と顎髭は白く、丁寧に整えている。
帽子と着衣は軍の正装だ。
年齢を考えれば退役間際の軍人なのだろうが、その眼光は異様に鋭く、言葉ははっきりとした重々しい響きを保っている。
枯れ木のような肉体でありながら、その全身から放つ覇気は冷気を帯びており、相対する者の肺を凍り付かせる。
大魔導師レンヴィクセン。
それが老人の名である。
西の大陸に覇を唱える帝国において、絶大な権力を握る魔法使い。
実際の齢は五百を数えるとも噂される。
その魔力、知力において並ぶ者は皆無と称され、百年前に軍師として帝国に招かれてからは常勝無敗、帝国の覇権を揺るぎないものとした。
近年では帝国軍の大部分を掌握しており、発言ひとつで小国が吹き飛ぶほどの影響力を誇ることから、実質的な裏の皇帝とも言われる。
だが、栄華を窮め尽くした男にしては、その表情は曇っていた。
「まあ、お爺さまったら、ため息などついて。幸せが逃げてしまいますわよ?」
おほほほほ、と暢気に笑う、豪奢な金髪の令嬢。
エストレアはレンヴィクセンの対面側に座っていた。
そしてその隣には、案内人ユーリ。
レンヴィクセンはただでさえ深いしわの刻まれた眉間に、さらなる渓谷を作る。じろり、と令嬢を睨みつけた。
「だれのおかげでこのような道楽に付き合う羽目になったのやら」
「おほほほほ。だってお爺さまったら、いつもお城で暇そうにしていらっしゃるのですもの。ですので、わたくしの華麗なる大冒険にご同行を願ったまでですわよ」
侯爵家令嬢ともあろうものが、たいした護衛も付けずに遠出することができたのは、レンヴィクセンという教育係が護衛もかねて随伴しているためだ。
老いたとはいえその魔法は、へたな騎士団よりも頼りになる。
「エストレア殿。これっきりですぞ。この卑しき町の喧噪は私には耐え難い。ましてや地下迷宮など。そのようなものは世界中にある。すでに見飽きておりますのでな」
レンヴィクセンは、次にユーリを睨みつけた。
敵意があるというわけではなく、値踏みするように。
「侯爵が手回しして雇ったようだな。だが果たして貴様のような若造が必要になるのか?」
「死にたくないなら案内人を雇うべきだろうな」
「ふん。じゃじゃ馬のお守りなど私だけで充分だ。迷宮など、いくつ踏破したかも覚えておらん」
「自信満々だな、爺さん。だがリメイン大迷宮はよそとは違う。覚悟しておいたほうがいい」
「不要だ。エストレア殿の気が済むまで付き合い、それが終われば立ち去る。それだけの話だからな」
レンヴィクセンは窓の外に目を向けた。
「ところで、どこまで向かうつもりだ?」
この馬車はユーリの指示に従って進んでいた。
その目的地をレンヴィクセンは聞かされていない。というより興味が薄かったので尋ねなかった。
「案内人さんの知人の方にお会いするのでしたわよね?」
「第一階層に潜るなら、《暗視》と《乾き》の加護が必須だ。知り合いに腕利きの魔術師がいるから、彼女に頼んであんたらに加護をつけてもらう」
「なんだと? 貴様、この私を誰だと思っている。その程度の加護など他人に頼るまでもない」
この世でもっとも優れた魔法使いは誰か、と議論するにあたって、まず名前の挙がるひとりとされるレンヴィクセンだ。《暗視》と《乾き》など彼にとっては修得している無数の魔法のひとつでしかない。
ユーリは、ああ、とうなずいた。
「だろうな。だがあいにく、俺はあんたを信用していない」
「なに?」
「悪く思わないでくれ。あんたの腕を軽く見ているわけじゃない。俺は、俺の信用の置けるものだけを頼りにして迷宮に潜る。これから会うのは、昔から世話になってる姐御だ。対してあんたは、さっき知り合ったばかりの人間。万全を期すならどっちに頼るかは明らかだろ」
「生意気な口を叩く小僧だ」
レンヴィクセンはユーリ目も合わせようとせず忌々しげに、「好きにするがいい。どうせくだらぬ暇つぶしにすぎん」と吐き捨てると、そのまま押し黙った。
重苦しい沈黙など認識していないのか、エストレアが晴れ晴れとした笑みを浮かべながら言った。
「小さなことを気にしても仕方がありませんわよ、お爺さま。案内人さん、はやく用事を済ませてしまいましょう。そして大迷宮の攻略へ……ああ、楽しみですわ! わたくしの大冒険が今日から始まるのです!」
◆
「なっ、なんですのぉおおお!」
フェアラートの雑貨屋に足を踏み入れるなり寄生を上げたのは、エストレアだった。
令嬢は大きな瞳を宝石のようにキラキラと輝かせ、雑然と積み上げられたゴミ山に熱視線を送っている。鼻息荒く、両手をバタバタと動かす様子を見るに、そうとう興奮しているようだ。
「すっ、すごいですわ。宝の山ですわっ。わたくしお勉強して参りましたから分かりますのよ。これっ、ものすごいアーティファクトばかりではございませんの!」
猪のごとくゴミ山に突っ込んでいくエストレア。
勝手にがさごそ漁っては書物や置物を引っ張り出して、いちいち感動の雄叫びを上げている。
「ねぇ、ユーリ。あれなーに?」
天上からぶら下がっているブランコに寝そべったままフェアラートが言った。このうえなく気だるげでどうでもよさそうな声。
「俺の新しい依頼人だ。さる大国の貴族さまだそうだ」
「ふーん。いつもみたく加護くっつければいいの?」
「たのむ。あのお嬢様と、こっちの爺さんにも」
「私には必要ない」
仏頂面で素っ気なく言うレンヴィクセン。
店内に転がっている商品を眺めてから、ぶら下がっているフェアラートを見上げた。
「女。貴様は何者だ?」
「にゃーに、おじーちゃん」
「とるに足らぬガラクタも多いが……これだけのアーティファクト。どうやって集めた」
鋭き眼光にもひるまず、フェアラートはにへら、と、しまりのない笑顔で答えた。
「でへへ。わかんにゃーい。ひみちゅー」
「……まあいい。さっさとやるべきことをやれ。エストレア殿、遊んでいる場合ではありませんぞ。はやく加護を受けなされ」
「ちょっ、ちょっとお待ちくださいな、お爺さま。この書物、たいへん貴重なものですの。これを読み終えてからにしてくださいな」
「何を言っているのです。迷宮に潜るのではなかったのですか」
「だって、こんなすばらしい宝と出会えたのですもの! こんなチャンスは二度とないのかもしれませんわ、じっくり読ませていただかないと!」
「ねー、それいちおー売り物なんだけどぉ。おねえさん、立ち読みはよくないと思うなぁ」
「買わせていただきますわ! 言い値で!」
燃え上がる瞳。エストレアは大事そうに本を抱えたまま即答した。
ため息をつくレンヴィクセン。もはや知らぬとばかり背を向ける。
結局、この日、エストレアは迷宮に潜らなかった。
鼻血が出るほど興奮して宝の山を漁り続け、雑貨屋の風呂と寝室を借りて泊まり込んだのだった。
◆
翌日、ユーリは朝早くからエストレアを迎えにきた。
どうやっても聞く耳を持たないエストレアを説得することはあきらめて家に帰り、次の日に改めて雑貨屋に足を運ぶ羽目になったのだ。
「まったく、とんでもないお嬢様だ」
「ぶつくさ言わないの。お仕事でしょう」
「わかってるよ」
クラティアと小声で言葉を交わしながら雑貨屋にたどり着く。
早朝の冷えた空気。
靄のかかった庭に、レナーテの姿があった。
いつものゴスロリ衣装ではなく、スポーツブラとスパッツという軽装。 とらえどころのない人形めいた鉄面皮から想像もつかないほど、その肉体は鍛え上げられていた。無駄な贅肉を削ぎ落とし、皮膚に最低限の脂肪を残したすぐ下には強靱な筋肉。腹筋は割れ、大腿部は発達した筋を浮かべ、臀部は小さく引き締まっている。
きらびやかな衣装よりも人の目を奪う黄金の肉体美は、古代の彫像のようでもあり、野生の獣じみた魅力でもあった。
トレーニングによる成果ではなく、飽くことなく繰り返された戦いによって完成した肉体。
つまりレナーテは、ユーリと同類なのだ。
肌の大部分をさらす格好で庭に出て何をやっているのかというと、ユーリから見ればゆるい踊りを踊っている。
クラティアが以前に披露してみせた拳法の型を、形こそ違うが、同種の所作で行っていた。
無言、無表情のまま、握った拳で突きの動作を行い、決まった足運びを繰り返すたび、銀髪のポニーテールが揺れている。
今まで長い時間繰り返していたのか、白い肌にしっとりと汗が浮かび、紅潮していた。
「よう」
ユーリは片手を挙げて挨拶した。
三白眼がユーリの姿をとらえる。
そのまま通り過ぎようとすると、横滑りに動いたレナーテが行く手を阻んだ。
「ん?」
怪訝な表情を見せる、ユーリ。
レナーテは、軽く脚を開いて右半身を後ろに引き、前に出した左手で、くいくいと手招きしてみせた。
心なしか、鉄面皮に挑発的な笑みが浮かんでいるようにも思える。
通ってみろ、ということらしい。
ユーリはやれやれと鼻を鳴らした。
「仕方ないな。朝稽古に付き合ってやるか」
ベルトから外した剣を、鞘ごと地面に突き立てる。
「ちょっと。乱暴に扱わないでちょうだい」
クラティアが抗議の声を上げた。
それが聞こえていないかのごとく、ふたりの周囲が闘気を帯びていく。
ユーリはリラックスした様子で首を回し、両手の指の骨を鳴らす。
特に構えるわけでもなく、「じゃあ、始めるか」と言った。
同時に、レナーテは一発の弾丸と化している。
銀の髪をなびかせて疾走する影を、ユーリは感覚にまかせて迎え撃った。
低く沈み込みながら向こう臑を狙った蹴りは、しかし空振りに終わり、跳躍したレナーテは身体を折り畳んだ体勢で低空を滑ると、ユーリの背後に着地した。
起き上がりながら拳を振り上げる。
レナーテは振り向きながら、目にもとまらぬ速度で螺旋を描くように運動した。
白く滑らかな煌めきに腕をからめ取られると共に、ユーリの身体が浮遊する。視界が逆転し、次の瞬間には背中から固い地面に叩きつけられた。 激しい衝撃が、肺の中の空気を外に押し出す。
空中でくるりと回転するレナーテが見えた。
眼前に迫るかかと落としをすんでのところで身をよじってかわし、背中を支点として旋回しつつ、凄まじい勢いの回し蹴りを繰り出す。
重い一撃は少女の体躯をくの字にへし折り、吹き飛ばした。
二転三転と後方回転で距離をとるレナーテに、今度はユーリから地を蹴って肉薄する。
怒濤のような拳の応酬。
互いの拳、肘を、受け止め、あるいはかわし、受け流す。
肉と肉のぶつかり合う乾いた音が途切れることなく連続した。
それは極限の肉弾戦であると同時に、高度な心理戦、頭脳戦でもあった。
相手の繰り出す攻撃を三手、四手先まで瞬きする間に読んで計算に入れる。
ときにはフェイントも織り交ぜ、虚と実を駆使して相手の計算を崩す。
達人同士が超高速で組み上げる勝利への方程式。
その完成度の低いほうが敗北する。
果たして、最後にユーリが放った一撃は、レナーテの側頭部を捉え、直撃する寸前でぴたりと停止していた。
反対に、レナーテの拳は、次の瞬間にユーリの顎を撃ち抜くところで止まっている。
「引き分けだな」
にやり、と笑い、ユーリは言った。
そして拳を引く。
レナーテも同じく拳をおろした。
だが、その鉄面皮に、どこかしら不満げな心中が浮かんでいるようでもあった。唇をとがらせているかのような。
ユーリは苦笑を浮かべた。
「拗ねるなよ。本気でやり合えば、おまえが強い。……素手なら、な」
突き立ててあった剣を引き抜き、腰のベルトに戻す。
そこに、レナーテがタオルを差しだしてきた。汗を拭けということらしい。少し離れたところにタオルや水筒の入った籠が置かれていた。
「おう。サンキュ」
激しい運動の後なので、ユーリの褐色の肌にも汗が浮いていた。ありがたく使わせてもらう。
なぜか、タオルに熱い視線を送られているのが不思議であったが。
「レナーテはほんとにユーリが好きっていうか、匂いフェチだよねぇ」
上から、間延びした声が聞こえた。
目を向けてみると、雑貨屋の二階の窓から身を乗り出したフェアラートが、にやにや笑いながらこちらを見下ろしている。
「そのタオル回収して、まーたくんかくんかして使うつもりなんでしょ。おませさんめっ」
レナーテは籠の中の水筒を掴むと、その顔面めがけてもの凄い勢いで投擲した。
まともに食らって前歯が吹き飛ぶかと思われたが、フェアラートは意外にも難なくそれを受け止めて、にへらー、と笑った。
「おはよー、ユーリ」
「おう。姐御、うちの客を迎えにきたぞ」
「あのふたり? まだ寝てるわよぉ。さっきまで大騒ぎしてたんだから。うちの商品、さんざん荒らし回ってくれちゃってさ。おかげであたしも寝不足よぅ」
大きく口を開いてあくびを漏らす。それでも下品にならないほどに、彼女は美しかった。
ユーリは眉をしかめる。
「本当かよ。今にも迷宮に潜りたいとか言ってたくせに……これだからお嬢様は」
「ま、ま。おかげであたしは大もうけよん。で、昼過ぎまでは起きてこないだろうから、そのあいだは暇よね?」
「残念ながらな」
「じゃ、お使い、頼まれてくれる?」
ずれた眼鏡を直しながら、フェアラートは言った。
「レナーテといっしょに人探し。朝稽古の続きの軽い運動だと思えばいいわ」
いつの間にか漆黒のゴスロリ衣装に袖を通したレナーテが、傍らに立っている。
その茫洋たる瞳は感情を見せない。
事情を知らなければ、可憐なる人形めいた少女の正体が、この都市でも指折りの《掃除人》であると気付く者はいないだろう。
「オーケイ。で、どこのどいつだ? 運の尽きた哀れな獲物は?」
「名前はラグファル。三階層案内人。こいつを、生かしたまま捕まえてきて」
眼鏡の奥の瞳が、計算高い光を帯びていた。