《白豚ツァールの豚ラップ》
オーク。
豚に酷似した頭部を持ち、体力と繁殖力に優れるこの種族は、地上でもっとも多く生息する代表的な魔物のひとつとして知られ、極めて獰猛、邪悪な気質、人殺しと暴食と強姦を最大の快楽とする、人類にとって不倶戴天の敵である。
だがその体格は、人間の成人男性とほぼ変わらないはず。
四メートルもの巨躯を誇るツァールは、明らかに図抜けた異常な個体だ。
そのためか、ツァールから発せられる存在感は、通常のオークとは比べものにもならない。
ただのオークならば、バルナウルや彼の部下である騎士たちだけでも簡単に殲滅できる。
ツァールの実力がその程度の次元などではないということは、対峙しただけでも肌で感じられた。
「よくもそんなにブクブク肥え太ったもんだな、ヨルムガルドの豚野郎」
「なに食ってるのか知りたいかい? おいでよ、教えてやるから」
ユーリの挑発に、ツァールは指をクイクイッとさせて応えた。
弾けるかのごとく疾走する、ユーリ。
残像すら生じる凄まじいスピード。
あっというまにゼロとなった両者の間合い。
ツァールは、鼻を鳴らし、右腕を大きく振りかぶった。
空を薙ぐ、巨腕。
ユーリはそれをかわすと、さらに勢いを増してツァールのふところに飛び込む。
横殴りの弧を描いた剣の切っ先が、ツァールの腹に深く食い込む。
肉を切り裂き、血の花が咲いた。
だが、浅い。
分厚い脂肪と筋肉の鎧によって守られているツァールは、ただの裂傷では致命傷とならない。
しかもツァールは、ユーリの斬撃の威力を利用し、斬られた方向へと自ら回転した。
鈍重そうな外見からは想像もつかない身軽さで旋回した後ろ回し蹴りが、ユーリを直撃する。
まるで大砲の一撃。
ユーリはなすすべもなく吹き飛ばされ、砲弾と化して、樹木の幹に背中から叩きつけられた。
幹に亀裂が走り、音を立てて倒壊する。
たまらず、ユーリは呻きを漏らし、その場に膝を突くと、血反吐をぶちまけた。
「ユーリ!」
クラティアの悲痛な声が上がる。
「心配ない。黙ってろ」
いまの衝撃で、肋骨が何本かあっけなくへし折れている。
剣を手放さなかったのは奇跡的だ。
呼吸することすら激痛を伴うダメージだったが、ユーリは屈さずに立ち上がった。
そこを、上空に飛び上がったツァールが狙う。
「殺らねぇ豚は、ただの豚だぁ~~~~~♪」
落下の速度を利用して、逆しまに拳を振り下ろす。
なんの変哲もない、ただのパンチ。
ただしその破壊力はまさしく桁違いだ。
轟音と共に地を揺るがし、根本から半分だけ残っていた樹木を粉微塵に爆砕する、圧倒的なパワー。
陥没した地面を確認するまでもなく、この拳を受けられる人間などこの世にはいまい。
「んっ?」
人間を挽き肉にした手応えはない。
ツァールの顔が怪訝そうに歪む。
ユーリはすでに、その背後だ。
獣の五感でそれを察したツァールが、振り向きざまに裏拳を水平に放つ。
ユーリはそれをかいくぐり、裂帛の気合いをこめた前蹴りで、ツァールの左足の膝を狙った。
巨体を支える骨が砕け、さすがのツァールも体勢を崩す。
いかに常識離れした巨体とパワーであろうとも、二本の脚で立っている以上は、そのどちらかを破壊されればバランスを崩すのは当然の理屈だ。
倒れ込みながらもユーリに向けて拳を繰り出したものの、狙いが定まっていない攻撃など当たるはずもない。
ユーリはそれを難なくかわすと、すばやく後ろに下がった。
上空から、飛来音。
凄まじい勢いでツァールの頭部へ落下したのは、ラスヴェートだった。
ツァールの顔面を大地にめり込ませて、その衝撃で地響きが起こるフットスタンプ。
頭蓋骨を粉砕し、脳味噌を破裂させる感触が靴裏から伝わった。
悲鳴を漏らす暇もなく地に沈んだツァールは、さすがにもう起き上がる気配を見せない。
不死身の傭兵といえど、頭部を破壊されれば死に至るのか。
ツァールの頭を踏み砕いたまま、ラスヴェートが問う。
「大丈夫かね、ユーリ」
「ああ。なんとかな」
「すまないな。任せきりになってしまったようだ」
「これも仕事だ、あんたが気にすることはーー」
ない、と言おうとしたユーリの目に、信じられぬ光景が映る。
獲物に食らいつく蛇のごとく俊敏な動きで、ツァールの腕がラスヴェートの胴体を掴んだのだ。
「いてぇじゃん」
邪悪な憎悪に染まった声。
右側頭部が完全にへこみ、耳の穴や眼窩から血と脳漿を垂れ流すツァールは、驚くべきことにそれでもなお生きており、立ち上がった。
膝はすでに再生しており、頭部のダメージもみるみるうちに修復しつつある。
だが元に戻ることがなかったのは、その鬼気だ。
無邪気な遊びの雰囲気を完全に打ち消し、殺意をみなぎらせた声は、この森の闇に低く轟いた。
「俺は、ぶっ殺したり痛めつけたりするのは好きだけど、殺されたり痛めつけられたりするのは大嫌いなんだよ」
ラスヴェートを掴む腕が、瞬間的に血管を浮かび上がらせて膨れ上がる。
その握力は、人間ひとりを熟れたトマトのごとく握り潰す。
苦鳴をしぼりだし、悶絶するラスヴェート。
彼の身体から何本もの骨が一斉にへし折れる音が聞こえた。
「旦那様!」
悲鳴を上げる、セラフィーナ。
ツァールは、玩具に飽きた子供のように腕を振りかぶると、ラスヴェートを投擲した。
地面に叩きつけられ、何度もバウンドしながらゴミのように転がる。
ユーリは顔に怒りを浮かべて、猛然とツァールに襲いかかった。
だが、今までの比ではない速度で跳ね上がった脚に蹴り飛ばされ、ラスヴェート同様、地面に転がる。
「おまえら、皆殺し決定だけどよ。おもしろいこと思いついたから、それ、試してみるわ」
巨体が、大きく跳躍する。
ツァールは、はるか彼方の森の向こうへ着地した。
「すり潰されちまえ。運良く生き残ってたら、もういっぺん遊んでやるよ」
姿は見えず、声だけが聞こえる。
「なんなんだ、いったい」
バルナウルが戦慄と共に言った。
その答えは、すぐに判明した。
木々の向こうから飛来したのは、この森にいくらでも生えている、なんの変哲もない樹木だった。無理やり引っこ抜かれたことを示すように幹には五指の痕が深く刻まれ、根には泥がこびり付いている。
ただの樹木とはいえ、人外の腕力で投げ飛ばせば、その威力はまるで城攻めに用いられる破城槌。
それが、立て続けに飛んできたのだから、たまらない。
ユーリは、全身を襲う激痛を無視して立ち上がり、こめかみに脂汗を浮かべながら、瞬時に動いた。
倒れ込んでいるラスヴェートと、彼を抱き起こそうとしているセラフィーナに駆け寄り、同時に抱えると、スピードを増して跳躍。
直前まで三人のいた場所に、樹木が先端から激突した。
卓越した敏捷性を誇るユーリだからこそ、かわすことができた。
だが、バルナウルや、騎士たちは、そうはいかない。鍛え上げているとはいえ、しょせん、普通の人間の領域を脱していない。
彼らは、瞬く間に、絨毯爆撃の餌食となった。
ある者は、地面を転がる樹木に押しつぶされて。
またある者は、頭上から飛来した木の根に全身を刺し貫かれて。
数十本の木々があたり一面を無差別に破壊する攻撃にまきこまれ、逃げることも、抵抗することもできず、ただ恐怖しながら殺戮されていく。
皇子バルナウルもまた、樹木の直撃こそ免れたものの、その衝撃によって地表と共に舞い上がり、粉塵の向こうに消えた。
ツァールは、この森の木々すべてを弾丸として使い果たすまで連射をやめないつもりなのか。
ユーリの顔に焦燥が見え始める。
自分だけならともかく、まともに動けない人間ふたりを抱えていては、避け続けるにも限界がある。いずれ、かわしきれなくなったとき、そのときが最期だ。
「ユーリ。私の力を使いなさい」
クラティアが言った。
ユーリは渋面をつくる。
「すっこんでろ」
「聞きなさい。ヨルムガルドの傭兵を殺す方法はこの世にはないわ。奴らは邪神カムイの信徒。すなわち、神の力を得ているのよ」
「だからどうした! 死ぬまでいくらでも切り刻んでやる!」
苛立ったように叫ぶ、ユーリ。
クラティアの声は、優しかった。
「私の力を使いなさい。相棒でしょう」
ユーリの眉根に皺が寄る。
彼は、なにか深く苦悩するような様子を見せ、それから、おのれの抱えているふたりに視線を落としてから、
「わかった」
と、言った。
そのとき、爆撃がやんだ。
「お~~~い。死んでるかぁ? 生きてるかぁ?」
だが、殺意はやまない。
この場のすべての命を殺し尽くすまで。
「生きてるよなぁ。そこの黒いの。おまえはこの程度で死ぬようなタマじゃねぇ。おまえ、色とか雰囲気とか、俺の兄貴に似てるよ。だから殺したくなるのかもなぁ」
《乳白色の森》に響きわたる哄笑。
それがぴたりと止まったとき、
「じゃっ、殺しに行くぜ」
すごみのある声で告げると共に、ツァールは大きく地を蹴った。
ユーリは、抱えていたふたりを地面に降ろすと、剣を水平に構えた。
深く静かに呼吸を繰り返す。
刀身が輝いた。
炎のように赤く、鮮烈な輝きだ。
熱を持たない光は、暗闇に、ユーリの横顔を照らし出す。
静謐な視線は、極限の集中力で、殺気の迫る方向へ向けられている。
地響きを起こしながら、ツァールが姿をあらわした。
人間のふりを捨て去った、四足歩行、獣の姿勢で、トップスピードに乗った巨躯は、木々をマッチ棒のごとくへし折り、四方八方に吹き飛ばす。
殺意に染まった眼光でユーリを見つけると、よだれを垂らし舌を伸ばして笑いながら、豪腕を高みから振り下ろした。
音すら超える速度。
大砲すら凌駕する威力。
微動だにしなかったユーリは、静から動へスイッチを切り替えると、その腕をかいくぐり、ツァールの腹の下へと潜り込んだ。
転がりながら、腹に一閃。
脂肪と筋肉の鎧を切り裂いたユーリは、そのままツァールの背後へと駆け抜ける。
「だから、無駄だって」
呆れたように言いながら、地面にめり込んだ拳を引き抜き、ゆっくりと振り返る、ツァール。
その表情が、驚愕に染まる。
横一文字に血の帯を垂れ流す傷口が、再生しない。
「神の力を殺すことができるのは、神の力だけ」
ユーリのかたわらに、クラティアが姿を現した。
腕を組み、婉然と微笑む。
死刑の執行を告げるように、平然と、確固とした威厳に満ちていた。
「カムイの操り人形ごときが、調子に乗りすぎたわね」
度肝を抜かれたように、ツァールの顔が大きく歪む。
「ク、クラティア様……。どうしてこんなところに!?」
驚愕に彩られていた双眸に、すぐになにかを悟ったような光が宿る。
その視線はユーリに向けられていた。
「そうか……。聞いたことがあるぞ。かつて魔界帝国に足を踏み入れて、唯一、生きて帰った人間。そいつが魔王陛下の剣、《支配の魔剣》を盗み出したと……ばっ、馬鹿なっ、人間ごときがその剣を支配できるわけがねぇっ」
「支配ではないわ」
「協力だよ。……相棒だからな」
ユーリは再び剣を構える。
目を瞑ったクラティアが小さく何事か呟きながら手の平を剣にかざすと、赤光はさらに強く、激しく輝いた。
ツァールの腹から流れる血は止まらない。
ぎり、と大きく歯ぎしり。
はじめて、その顔から余裕が消え失せ、代わりに脂汗が浮かぶ。
巨体が、前に飛び出した。
その姿が一瞬で視界から消える。
本気のスピード。
本気のパワー。
「ちくしょおおおおおおっ。死にたくねええええええっ!!!」
怒号を放ちながら、抗する者などありえない拳を繰り出す。
斜め下方向へまっすぐに打ち下ろす拳。
深く抉られ、激震する大地。
会心の笑みを浮かべるツァールだったが、それはすぐに凍り付いた。
自分の腕に飛び乗り、足場として、こちらへまっすぐ疾走するユーリの姿。
最期の瞬間、ツァールは大きく叫ぼうとした。
あるいはそれは、誰かの名前だったのかもしれない。
だが、それが明確な言葉となる前に、輝きを帯びた刀身が、頭蓋骨を易々と切り裂いて侵入し、やわらかい前頭葉を蹂躙すると、そのまま後頭部から抜けた。
ツァールと背中合わせで着地する、ユーリ。
断末魔の悲鳴は、なかった。
無音の爆発がツァールの頭部を吹き飛ばすと、意志を失った巨躯がゆっくりと傾ぎ、首から夥しい血をあふれさせながら倒れた。
地が震え、やがて静まり、それでもツァールが起き上がる気配を見せないことを確認すると、ユーリはやっと剣を鞘におさめて大きく息をついた。
「おつかれさま」
刀身の輝きと共に消え去っていたクラティアが言った。
ユーリは軽く鞘を叩き、
「おう。……ありがとよ」
と、言った。