《ザラーム帝国の最期③》
帝都の中心にそびえ立つ皇城は、言うまでもなく帝都の、ひいては帝国そのものの象徴であり、その優美さ、荘厳さ、そしてなにより堅牢さにかけて、大陸に比肩する物はないとされる。
その日、皇城では帝国全土から貴族や豪商など名士を集めて盛大な夜会が行われていた。
巨大ホールには純白のテーブルクロスをかけた机、贅の極みを尽くした料理が並ぶ。ボトル一本で家が建つという超高級品の名酒が惜しげもなく配られて、来賓の喉を潤す。
洗練された燕尾服を着こなす紳士、華美なドレスで着飾った婦人たちが、それぞれ談笑をかわしたり、料理を食べたり、踊ったり、または愛の言葉を囁き合い、思い思いの時間を過ごしていく。
幸福だけの空間。
ここには、一点の汚れもない幸福が満ちていた。
なぜなら彼らは全員、なんの不幸も感じていない。
彼らは、生まれながらにして高貴な勝利者だ。
固くてまずい黒パンなど見たこともない。
手に泥がついたこともない。
走ったことはない。
汗をかくこともほとんどない。
飢えたことがない。
不満がない。
もしも不満があるとすれば、もっともっと幸福になりたい、といったところか。
彼らは負けを嫌う。
醜いものを嫌う。
汚いもの、下等なもの、不幸なものを嫌う。
なぜなら彼らは高貴な勝利者なのだから。
その反対に位置する存在など想像したくもないし、近寄りたくもないのだ。
「諸君、楽しんでいるかね」
上階へ続いている階段からゆっくりと下りてきた人物が言うと、ホール内のすべての人間がそちらを仰ぎ見て歓声を上げた。
金獅子の刺繍を刻んだ真っ赤なマントを羽織り、着衣は漆黒の軍服、そして腰には建国者ザラームが愛用していたとされる黄金のサーベル。
黒髪を丁寧に後ろへと撫でつけ、立派なカイゼル髭をたくわえた、壮年の美丈夫。
誰あろう、帝国第十三代皇帝にして《炎帝》の異名をとる、セヴェルスク三世である。
「おお、皇帝陛下!」
「陛下のお見えだ!」
「偉大な《炎帝》!」
「我らの指導者! 皇帝陛下!」
熱狂的な歓迎に、セヴェルスクは手をふって応える。
「諸君、ありがとう。こうして集まってくれたことに感謝する。今宵は特別な夜……偉大なザラーム帝がこの国を興してちょうど五百年が経つ、記念すべき日だ」
感慨深げに言うと、手に持っているグラスを高く掲げ、
「諸君! 知っての通り、東のアールド共和国、南のバレル王国は、小癪にも我が帝国の領地を奪わんと欲し、浅はかな侵略行為を繰り返しておる。だが心配は無用だ。われらが誇る最強の軍は近く必ずや下劣な者どもを叩き潰し、帝国の威光のもとにひざまづかせるであろう。卑劣にも命乞いをする下等民族どもを屈服させたのちには、帝国は領地をさらに広げ、ゆくゆくは大陸全土に先進高等民たる我らの支配という恩恵をもたらすのだ! これはすでに確定した未来である! さあ、ともに祝おうではないか、帝国の栄光を! さらなる躍進を!」
乾杯!
全員が叫び、上気した表情で美酒をあおった。
「帝国万歳! 皇帝陛下万歳!」
「われらの未来に、栄光あれ!」
「偉大なる帝国に! 偉大なる皇帝陛下に! 乾杯!」
万雷のごとき歓迎ムード。帝国の躍進を信じて疑わない高貴な勝利者たち。
セヴェルスク皇帝は満足げにうなずき、酒を飲み干す。
「うまそうな酒ですね、父上」
水を差したのは、皮肉げな響きを含んだ息子の言葉だった。
セヴェルスクは眉をしかめて後ろへと振り返る。
階段の手すりにもたれかかるのは、色あせたマントを羽織り、頭にはターバンを巻いた、薄汚い旅装束の男。
精悍で整った面構えは父親譲りだが、無精髭を生やし、垢まみれで薄黒い顔はとても見栄えがいいとは言えない。
今年で三十歳になる、皇帝の実の息子、皇位第一継承者のバルナウルだ。
「バルナウルよ。貴公を招待した覚えはないぞ」
「ひどいお言葉だ。俺だって皇位第一継承者なんだ、ちょっとつまみ食いするぐらいかまわないでしょう」
「なにが第一継承者だ……貴様は我が蒼き血統の大きな汚点、ただの恥だ。だれもが貴様を腫れ物のように扱っておることに気付いていないのか」
場所が場所でなければ唾でも吐き捨てていただろう。
セヴェルスクが息子を見る瞳には憎悪すら宿っていた。
バルナウルは、それをいまさら悲しいとは思わなかった。
二十歳で帝都から旅立ち、単身で大陸各地を放浪して見聞を広めると決めたときから、親子らしい関係などあきらめていた。
「あなたこそ気付いていないのですか、父上。その酒にどれだけの民の血と涙が混ざっているのか」
「なに? なんの話だ」
「帝国の実状の話ですよ。この帝都の市街地で暮らす民は豊かだ。しかしいったん辺境に目を向ければ、そこには見るも無惨な地獄が広がっている。賄賂で商人とつながった領主、過剰な重税に苦しむ農民、貧富の差は大きくなるばかりで二等民以下の不満は膨れ上がっている。この葡萄酒はね……夜明け前から日が暮れてでも働き続け、寒さに震え、死ぬほど汗を流し、過労で倒れようとも貴族にむち打たれて酷使される、あわれな奴隷たちの血なんですよ」
それが帝国の闇、いや、真実だった。
いくら領土を広げ、帝都が繁栄を見せたとしても、その威光が輝かしいものであればあるほど、その裏にある闇は色濃くなる。
「アールドとバレルに対する侵攻も無謀としか言いようがありません。無計画に伸びた戦線は補給に莫大な費用を生み、国庫を圧迫し、長期間にわたって戦い続けた前線の兵たちの疲弊は頂点に達しようとしてます。さらに、帝国の侵略に危機感を覚えた各国は連合軍を結成しようと動き始めている。アールドとバレルだけじゃない、その他の小国家群、さらには南のノモスまで加わる稀にみる規模の大軍団です。勝ち目はありませんよ。蹂躙されます」
大陸全土を実際にその目で見て回ったからこそ言える意見だった。
帝国内部にいたのでは、正確な情報はわからない。
勝利は間近だの、いずれ大陸を支配するだの、すべて根拠のない世迷い言なのだ。
たしかに帝国の国力は高いが、周囲すべてを敵に回して生き残れるはずがない。
出過ぎた杭は打たれる。
放置しておけば害を振りまく厄介者だと周知されれば、袋叩きにされるだけ。
セヴェルスクは、鼻で笑った。
「馬鹿なことを。貴様などになにが分かる? わが帝国の栄光は揺るぎない」
「……現実を見てください、父上。決断のときです。兵を引き上げ、停戦交渉のテーブルを作るのです。たとえ領地を失ってでも、いまは外への無謀な野心を押さえ込み、民の声に耳を傾け、内地の腐敗を是正することに注力すべきかと」
「貴様などにはなにもわからんと言っておる。連合軍の件などすでに耳に入っている。なんの心配もいらん……ヨルムガルドのベーゼ殿が助力を約束してくださった。百万の大軍が相手だろうと粉砕してくれるわ」
「……ヨルムガルド? ベーゼ? あの傭兵の? 傭兵などに国家の存亡を預けると?」
皇帝は、はっきりと侮蔑の色を浮かべて笑った。
「見聞を広めたつもりだろうが、しょせんは出来損ないだな。……神だよ。この世界の調和を保つ守護神の一人だ。彼と彼のヨルムガルドと共に歩む限り、帝国には永遠の勝利が約束される」
うっとりと陶酔したように言う。
セヴェルスク皇帝は夜会の会場に目を向けた。
きらびやかな衣装に身を包み、優雅に踊る貴族たち。
「見よ、帝国の現実とは目の前のこのことよ。この美しい夜会、贅の極み、栄華の頂点……これが帝国よ。バルナウル、貴様は貧民街のクズどもと変わらん。あの、なんの役にも立たん貧乏人どもめ。文字も読めぬ知恵遅れどもがしたり顔で貴族を批判し、好き勝手に政治について口を出そうとしおる。国を動かす資格を持つのは、ごく少数の尊い血筋を引く者だけでよい! 無知蒙昧な民草の言葉をすべて政治に反映させれば、国家の運営は成り立たぬ。奴らには知識も教養もないのだぞ。衆愚政治というものを知っておるか?」
「あなたの政策が彼らを生んだのですよ、父上」
「強き者が弱き者の上に立つのは当然であろう。貧乏人が飢えて死ぬならそれでもいい。帝国に弱者は必要ない。われらの覇道についてこられぬなら、かってに野垂れ死ぬがいい。強者のみが生き残り、千年、いや、永遠の栄華を極めるのだ!」
皇帝は従者を招き寄せると、酒をなみなみと満たした新しいグラスを手にした。
「ふはははは。帝国の未来に乾杯!」
うまそうに酒を飲む、皇帝。
バルナウルは絶望したような表情をしたが、すぐにあきらめたように父親に背を向け、上階へと戻っていった。
入れ替わるようにホールへと運び込まれたのは、巨大な檻だった。
「ん? なんだ?」
「あれは?」
「いったいなにかしら」
ざわめく、来賓。
何人もの屈強な男たちが縄を引く台車に乗せられやってきた、檻の中には、うずくまる大きな生き物が閉じこめられていた。
「ドラゴン!?」
だれかが悲鳴を上げた。
そう、檻の中に入れられているのは、真っ赤な鱗で全身を覆われた怪物、ドラゴンだった。
大きさは馬ほどだ。まだ子供なのだろう。何百年もかけて成長したドラゴンは岩山のごとき巨躯を誇る。
とはいえ、子供といえどもドラゴンだ。このぐらいまで成長していると空を飛べるし火も吐ける。爪も牙もある。人間など相手にもならない。
ただし、このドラゴンは、その頭部に生えている二本の角は片方が根本からへし折れており、背中の翼は両方とも切断されている。
四本脚のドラゴンは、ここにつれてこられる前にかなり痛めつけられたのだろう、全身が傷だらけで、いたるところから血を流している。呼吸は弱々しく、今にも息絶えてしまいそうだ。
ブレスを吐けないようにするためなのか、喉を潰され、四肢は鉄線で雁字搦めにされている。
力が残っているのは、瞳だけ。
その双眸だけは、周囲の人間たちを睨みつけている。残り少ない生命力をすべて憎悪に変えるかのように。
「おいおい、なんだ、このドラゴンは?」
「いったいなにが始まるんですの?」
最初こそ悲鳴を上げて驚いていた貴族たちだったが、どうやらドラゴンが完全に無力化されているようだと理解すると、無遠慮に檻まで近づいてまじまじと観察し始めた。
「お集まりの高貴な紳士淑女のみなさん! これより始まるは世紀の余興でございます!」
でっぷりと太った小男が、高らかに声を上げた。
帝都でも屈指の大富豪だ。
有力貴族や皇帝一族とのつながりも深く、その発言力は並の貴族など足元にも及ばない。
「余興?」
「ほう、なにをするつもりだね?」
興味津々といった様子の貴族たち。
商人はにやりと笑い、たっぷりと間を置いてから、
「世にも珍しい、ドラゴンの踊り食い! 帝国が誇る一騎当千の勇者たる皆様のお力をお借りしまして、この邪悪なるドラゴンの息の根を止め、聖なる炎で調理いたしましょう!」
商人が芝居がかった動作で指を鳴らすと、古代の女神に扮した美しい女たちがあらわれ、その手に持っている槍を、貴族の男たちにうやうやしく差し出した。
「おお、これは」
「はっはっは、なかなかおもしろい余興じゃないか!」
「よし、私もドラゴン退治としゃれ込もう」
「なんの、私とて負けてはいられんぞ!」
もちろん皇帝暗殺を防ぐために刃引きしてある槍だが、貴族たちは乗り気になったようだ。
おもしろがって、ドラゴンをつつき始める。
「ははは、どうだ、邪悪なるドラゴンめ」
「わが聖なる槍を受けてみよ!」
「その生意気な目を潰してやる!」
腰の入っていない、構えもまるでデタラメの、素人丸出しの槍使いも多く見られたが、身動きのとれない弱ったドラゴン相手なら好き放題にできる。
目をも潰され、血を吐いて死にかけているドラゴンの前に、最後に進み出たのは、皇帝だった。
「心躍る余興であった。わが帝国の勇者はドラゴンをも屈服させる、というわけだな」
「左様でございます、陛下」
へこへこと頭を下げつつ、もみ手で胡麻をする、商人。
うむ、と、うなずき、皇帝は腰のサーベルを抜き放つ。
「おお、雷帝剣を!」
「ザラーム帝が天を割り地を切り裂いたという伝説のサーベル!」
「なんと美しいのだ」
それは黄金に輝く、芸術品と呼ぶにふさわしい剣だった。
「余が、その醜いドラゴンの首を一太刀にて切り落とし、炎の中へ投げ込んでやろう! 檻を開けよ!」
猛々しく叫ぶ、皇帝。
熱狂する貴族たち。
が、焦ったのは、商人だった。
思わず「えっ」と言ってしまい、先ほどまでのしたり顔もどこへやら、青ざめて脂汗を流している。
斬れるはずがない、ということを知っているからだ。
いくら弱っていてもそこはドラゴン、鱗の硬さは尋常ではない。実際、刃引きされているとはいえ槍で突かれまくったというのに、柔らかい眼球以外の場所は貴族のへっぴり腰ごときではまったく傷ついていない。
達人級とされる熟練の冒険者が、魔力を宿した特別な武器を用いて、ようやく断ち切れるほどの強度。
皇帝が腕に覚えのある剣士だという話はまったく聞かない。それどころか前線で戦ったことがあるという記録もない。ましてやドラゴンと戦いを繰り広げたことなどあるはずがない。
しかも、あの黄金のサーベル。たしかに見栄えはいい、黄金の刀身に大粒の宝石をいくつもはめ込み、柄や鍔、鞘にいたるまでにも凝った装飾がこれでもかというほどに施されている。まさしく国家の至宝。
完全な儀礼用の剣である。
とても、実戦で使い物になるような代物ではない。
あんなもので斬ることができるのは大根くらいだ。
ゆえに、皇帝がドラゴンの首を落とすことは、絶対に不可能だ。
だが、だからといって「そんなの無理ですよ」と言うことなどできない。
そんなことを言ったが最後、自分の首が飛ぶ。
皇帝は絶対、皇帝に不可能はない、そういう建前になっているのだから。
それに異議を唱えるということはすなわち、帝国への背信である。背信罪は死刑だ。
が、しかし、このまま皇帝に首を斬らせようとすれば確実に失敗する。失敗することなどありえない皇帝が、だ。
ならばどうなるかというと、わざと失敗するよう仕向け、皇帝に恥をかかせようとした逆臣がいるという話になってくる。
やはり、商人の首が飛ぶ。
「どうした。はやく檻を開けよ!」
商人が必死になってこの状況をどう乗り越えるか考えているうちに、辛抱できなくなった皇帝が再び叫んだ。
もう駄目だ。おしまいだ。
「お、お待ちください、皇帝陛下。首を落とすのは、専門の腕利きを雇っていますので、陛下ご自身のお手を煩わせるまでも……」
「ええい、うるさい! もういい!」
待ちきれなくなった皇帝は、商人を押しのけてサーベルを振り上げた。ごぼり、と背中が、続いて肩から腕にかけての筋肉が盛り上がる。
異常な膨張。
一閃。
ギャキッ、という金属と金属がこすれ合う不愉快な音、そして断末魔の悲鳴と共に、黄金のサーベルは檻ごとドラゴンの首を落としていた。
「なっ……」
「す、すごい」
唖然とする商人や観客たちの目の前で、斜めに切断された鉄格子の上半分が、ずるりと滑り落ちていく。同時に、ドラゴンの首も同じ角度で、胴体から落ちる。
ありえないことだった。
まともに剣を振った経験もないはずの皇帝が、ドラゴンの首を、鉄格子ごと切断した。あの儀礼用の貧弱なサーベルで。
それは、ありえないことだった。
まるで、神の奇跡。
神の加護でもなければありえないほどの奇跡なのだ。
「す、凄まじい! なんと凄まじい!」
「人間業ではない……神業だ……」
「こ、これが伝説のサーベルの切れ味……いや、陛下の実力!」
貴族たちは歓声を上げた。
奇跡を目の当たりにしたのだ、無理もない。
ドラゴンの首を一太刀にして断ち切るは、まさしく物語に登場する勇者の所業。
帝国の皇帝は、一騎当千の勇者!
勇者の戦いに敗北などありえない!
ゆえに帝国に敗北はない!
帝国の永遠に続く栄華は、現実のものとなるのだ!
「おおおお! 帝国万歳! 皇帝陛下、万歳!」
今宵、何度めになるか分からない万歳の大合唱を浴びながら、皇帝は皆の前でドラゴンの首を高く掲げてみせた。
その瞳に邪悪などす黒いエネルギーが満ちていることを見抜けた者はいない。
「これがカムイの加護……すばらしい……余は無敵だ、なんでもできる……ふはははは……」
低く呟く皇帝の声を聞くことができた者も、いなかった。
――だが、絶頂の極みにある皇帝の表情がこわばる。
不意に、背筋を寒気が襲ったのだ。
「な、なんだ?」
いまの悪寒は?
凄まじい殺気で射抜かれたかのような……。
皇帝は殺気の出所を探し、すぐに見つけた。
爛々と輝く黄金の双眸が、バルコニーの向こうからこちらを睨みつけていた。
巨大な眼だ。
人間ではない。
よく目を凝らすと、殺気の主のシルエットが闇夜にはっきりと浮かび上がった。
燃えるように赤い鱗に覆われた、岩山のような巨躯。
雄々しく羽ばたく一対の翼。
牙が並ぶ口腔と、頭に生えた二本の角。
ドラゴンだ。それも、何百年とかけて成長を遂げた雄の個体。
それがバルコニーのすぐ外の空中でホバリングしながらこちらを睨みつけているのだった。
羽ばたきが起こす風が、ホールの中へと吹き込んでくる。
そのときになってようやく、貴族のうちの何人かがドラゴンの存在に気付いた。
悲鳴が上がる。
「ド、ドラゴン!?」
「ばかな、なんて大きいんだ!?」
「お、おい、これも余興なのか!?」
当然、余興などであるはずがない。
問いつめられている商人も困惑した表情なのだ。
「い、いえ、私はなにも……」
「まさか、あのドラゴンの親か? 子供をさらわれたことに怒って、追ってきたんじゃないのか」
「まさか! そんなはずはありません。親の始末は大陸最強の冒険者パーティー、《宵闇の死天使》に依頼したのです。万が一にも仕損じるはずが」
商人がそこまで言ったとき、ドラゴンの見える方向とは反対側の窓ガラスが粉々に砕け散り、なにかが勢いよく室内へ転がり込んできた。
石のように投げ込まれたのは、五つの黒こげの物体だった。
戦争に参加した経験のある貴族などは、それの正体が焼け焦げた人間の死体であることを悟った。
そして、投げ込んだのは、新たに現れたもう一頭のドラゴンだった。
誰もが沈黙する。
動けば殺される、言葉を口にすれば殺される、と直感したかのように。
だが正解は、黙っていても殺される、だ。
四つの瞳は、どす黒い復讐心に染まっていた。
「うろたえるな」
気絶しそうな貴族たちとは反対に、落ち着いた声で言ったのは、皇帝だった。
ふるえる婦人たちをかばうように進み出ると、サーベルの切っ先を雄のドラゴンへ向ける。
「余が憎いか、邪悪なドラゴンよ。片腹痛い……貴様ごときの貧弱な力で余を倒せるとでも思ったのか! 愚か者め! 余こそは皇帝セヴェルスク! 大陸最強の帝国の父にして神! 帝国は余、余こそは帝国! 絶対正義の化身である!」
皇帝の目は血走り、その両肩の筋肉は異様なまでに膨張していた。
「さあ、かかってくるがよい! この正義の剣にて斬り伏せ、薄汚い臓物を大地にぶちまけてくれるわ!」
皇帝のあまりにも雄々しく勇気に満ちあふれた宣言は、貴族たちの精神をいくらか安定させた。
その勇姿に感動し、涙を流してひざまづく者さえいた。
ドラゴンは、なにを思ったのか、ゆっくりと大きく羽ばたくと、急加速して上空へと飛翔していった。
「おお! ドラゴンが怖じ気付いて逃げていったぞ!」
「皇帝陛下のご威光におそれをなしたのであろう!」
「さすがは皇帝陛下だわ!」
帝国万歳! 皇帝陛下万歳! と歓声を上げる貴族たち。
だが、命拾いしたと嬉しがる彼らの耳に届いたのは、地を揺るがす轟音であった。
「えっ?」
「あれっ?」
帝都でもっとも高い位置にあるこの城からは、この都のすべてが見渡せる。
だから、一般市民たちが暮らしている都市街が炎の海に飲み込まれていることも、すぐに眼で確認することができた。
今までに聞いたこともないほど大きく、おそろしげな声が、上空から帝都全体に響きわたる。
それはドラゴンの叫び。
それは悲しみ。
それは怒り。
それは憎しみ。
それは命令。
――同胞よ。
――同胞よ、聞け。
――人間どもを、けっして許すな。
――なぶられ、辱められ、殺された我らの子の無念を晴らせ。
――殺せ。
――ひとりのこらず殺せ。
――この薄汚い欲望の都に暮らす虫けらどもを、一匹残らず焼き尽くせ。
――ただし、すぐには殺すな。
――楽には殺すな。終わらせるな。
――すべてをへし折れ。すべてを奪え。
――生かさず殺さず追いかけ回し、恐怖と絶望の暗闇にたたき落とせ。
――ひとり残らず殺し尽くせ。
――偉大なる《冥王竜》の息子にして《火と岩の氏族》の長、フォティアナールが命じる。
――愚か者どもに、焼かれ続ける永遠の夜を与えてやれ。
何度も何度も轟いた叫び声がようやく終わった。
そして、応えるように、多くの叫び声が重なる。
いつの間にか帝都上空を二十頭以上のドラゴンが飛行していた。
真っ赤な体色が特徴の、ファイアドラゴンの群れだ。
それぞれが都を睥睨しつつゆっくりと旋回し、大きな円を描くように飛びながらフルパワーのブレスを吐くために呼吸を整えている。
この腐りきった帝都を、灰燼の山とするために。
すべてが終わった。
灰と瓦礫の山と化した帝都。
そこから密かに逃げ出した夫婦は、船に乗って海の向こうを目指す。
地下迷宮に安住の地を求める彼らの手には、黄金に輝く刀が握られていた。