《ザラーム帝国の最期②》
今すぐに金が欲しいなら、まずは酒場へ。荒事の世界で生きる者の常識だ。
とはいえ、まともな仕事などない。
斡旋してもらえるのは危険な魔物退治や商人の護衛、洞窟の奥の宝物探しなど、命をかけた依頼ばかり。
怪我や死亡事故が起きても自己責任、壊れたらあっさり使い捨てられるだけの道具扱い。だれも助けてはくれない。
そのうえ、せっかくの成功報酬でさえ、酒場の店主に仲介料という名目でかなり持っていかれる。
だが、しかし。
それでも金が欲しい、金が欲しいが他では仕事をもらえない、だからここで使ってもらうしか道がない。
そういった、人生の行き詰まった者たちが、ここに集まる。
彼らは仕事が終わると酒を飲む。仕事がなくても酒を飲む。修羅場をくぐり抜けて手に入れた命の銭を、昼間から飲めや歌えやの馬鹿騒ぎで浪費する。なぜなのか、それは、そうやって我を忘れてしまうくらいに酔っていないと、ふと考えてしまうからだ。これからの人生を。老後の不安、家族を養っていけるのか、こんな底辺で幕を閉じる運命なのか、もしかして自分は本当にたいしたことのない人間なんじゃないのかと。
だから彼らは酔いが醒めるのをことさら嫌う。
酔いを醒ますような、醜い風体の、臭い男を嫌うのだ。
「なんの用だい……」
店主はカウンター越しに、あからさまに気分を害したように言った。
「仕事をもらいたい」
ラスヴェートが言うと、聞き耳を立てていた酒場の客たちがいっせいに大声を上げて笑った。
「こいつは驚いた! 仕事が欲しい、とよ!」
「自分にまともなことができると思ってるのか? ルンペン野郎!」
「いったいどんな仕事がお望みだぁ? 草むしりか便所掃除か、それとも変態貴族にケツでも掘らせるか!?」
「そいつはいい! ボーネット伯爵はかなりの趣味人って噂だぜ。醜いルンペンの尻穴がお気に召すかもな!」
彼らの嘲笑は、理不尽なほど激しかった。
が、ラスヴェートはそちらをちらりとも意に介する様子はない。
ただ静かな声で、
「金が必要になった。なんでもいいので、仕事が欲しい。できるだけ、多く稼げる仕事がいい」
「悪いが、よそを当たってくれ」
髭面の店主はうっとうしそうに言った。
「うちも遊びで斡旋してやってるわけじゃない。信用を大事にしてる商売なんだよ。うちを頼りにして仕事を依頼した客のところへ、おまえのような得体のしれん奴をよこすわけにはいかん」
もっともな言葉だった。
ラスヴェートは、「それは承知しているが」と言い、なんとか雇ってもらおうとその先を続けようとしたが、
「いい加減にしておけよ、小汚い乞食野郎」
野太い罵声が飛ぶ、と同時に、いきなり頭を酒のボトルで殴打された。 まだ中身の入っていたボトルは粉々に砕け散り、強烈なアルコール臭を放つ液体を盛大にぶちまける。
やったのは、見上げるほどの巨漢だった。ざんばら髪と無精髭、頬を斜めに走る古傷。筋骨隆々としていて、それを見せつけるかのように上半身は裸だ。
「《熊殺し》のブラストだ」
「灰色熊十頭をたったひとりで殴り殺したっていう、あの……」
「この国に帰ってきてたのかよ」
客たちは巨漢を見ると息をのみ、ひそひそと言葉を交わす。
ブラストは、にやっ、と笑った。
「ひさしぶりだな、親父さん。ここはいつから乞食を世話してやるようになったんだ?」
「ふん、世話なんざしてねぇよ。それより俺の仕事を増やすんじゃねぇ。この飛び散ったボトルの破片、ぶちまけた酒、だれが掃除するんだ? それにこの乞食も……」
外に運び出さないと。
店主はそう言おうとした。
なにせ、ブラストのやったことは、明らかにやりすぎだった。
いくら馴染みの店に胡散臭いのが居座っていて目障りだったからとはいえ、いきなり殴りつけるなど非常識もいいところだ。
中身の入ったボトルでおもいきり殴りつけると、普通、人間は倒れる。悪くすれば死ぬし、そうでなくとも頭から出血して意識を失い、危険な状態になる。
しかし、目の前の男は。
「大丈夫だ。怪我はない」
頭から浴びた酒を、ぽた、ぽた、と床に滴らせながら、腕や肩についた破片を払い落とす。
そして、何事もなかったかのように言う。
「気に障ったなら謝る。仕事をもらえたら、すぐに出て行く。すこしだけ見逃してほしい」
落ち着いた様子に、小馬鹿にされたとでも思ったのか、ブラストのこめかみに血管が浮かび上がる。
「私と妻が暮らしていくために、どうしても金が必要なんだ」
「妻ぁ? てめぇ、所帯持ちかよ! ルンペンが一丁前に気取りやがって!」
唾を吐き捨てながらブラストは言った。
客のひとりが調子に乗って笑う。
「カタワだよカタワ! そいつ、貧民街で、手も足もない気の狂ったカタワ女を世話してるんだとさ!」
「はっ、なんだそりゃ! 役に立たねぇキチガイなんぞ女房にして何の得がある?」
ブラストは髭を撫でながら下品な笑みを浮かべた。
「いや、穴が残ってるなら使えるか? 俺にも貸してくれよ! 一晩で銅貨一枚だ、どうだ? お望み通りの金だぜぇ?」
ぎゃはははは! と、店中が大きな笑いの渦に包まれる。
店主だけが、顔を青ざめさせ、震えていた。
大きな間違いを犯してしまったことに、ただ一人だけ気付いたのは、
「……私の……」
フードの奥の、影に覆われた口元が……不気味に歪むのを眼にしたゆえ、か。
「あ? なんだって?」
「私のことはいくら馬鹿にされてもかまわない。だが妻のことを悪く言われるのはゆるせない。これでもう、君たちには死んでもらうしかなくなった」
「ああ!? なに言ってんだって、」
その続きを聞こうとせず、ラスヴェートは振り返ると、ブラストの腹に、黒手袋をはめた手の平を当てた。
なんの攻撃にも見えない動作。
だが、そこに発生した威力は、大砲にも匹敵する。
大きく響く轟音、周囲の椅子や机が人間ごと吹き飛ぶ衝撃波の直撃を受けて、体重百五十キログラムあるブラストは後方にある店の出入り口へと背中からつっこみ、そのまま扉を破壊して何十メートルも先の民家の壁にめり込んだ。
静寂。
天井から、ぱら、ぱら、と木片や埃が落ちてくる。
酒瓶や食事の乗った皿がテーブルから落ちたり、液体が床に広がったりしていた。
人間は、静寂。
あれほど馬鹿騒ぎを繰り返し、ラスヴェートに嘲笑をあびせていた客たちが、一瞬で沈黙し、呆然としている。
ラスヴェートは、こつ、こつ、と足音を立てて歩く。
たまたま近くで腰を抜かしていた剣士の前で止まる。
「剣を貸してくれ」
震え上がった剣士は、自分の腰に差してあった鞘を、言われた通りに差し出した。
「ありがとう」
礼を言ったラスヴェートは、剣を抜いて鞘を捨てると、その切っ先で剣士の首を撫で斬った。
なぜ、という疑問の表情を浮かべ、剣士は自分の血溜まりに倒れる。
理由は、ただ、切れ味を試したかったから。
是も非もない、温度がない。
虫を潰すように、なんの感慨もない殺人。
人間の生命に、ゴミほどの価値も見いだしていない。
ラスヴェートは店を出て、大通りに出た。
いきなり店から吹っ飛んできた人間大砲のせいで、野次馬が続々と集まりつつある。
ラスヴェートは剣の柄を石畳の隙間に差し込むようにして立てかけた。さらにその上から鍔を靴裏で踏みつけ、ぐいっと体重をかける。石畳がひび割れ、剣は切っ先を天に向けたまま半ばまでめり込んだ。完全に固定されていて、もうどうやっても抜けそうにはないし、揺るぎはしないだろう。
そのとき、雄叫びが上がった。
壁に埋まったままだったブラストがようやく脱出に成功して、ラスヴェートを見つけたのだ。
ざんばら髪を振り乱し、目を血走らせ、顔を真っ赤にしながら殺気を放つ姿は、まさに鬼。
いまのブラストの頭には、もはや自分をこのような目にあわせた男への復讐心しか存在していないのだろう。
背中に突き刺さった壁の破片を意に介さず、口や鼻から泡混じりの血を吐きながら、凄まじい勢いで突進してくる。
地響きすら上がっているタックルをまともに受けるつもりなのか、ラスヴェートは、その場から動こうともせず、構えようとするわけでもなかった。
その光景を遠巻きに見ていた民衆は、巨大な戦車が非力な鼠をひき殺す瞬間を幻視した。
が、実際に起こった出来事は、彼らの想像力をはるかに超えていた。
激突の瞬間、いきなり、ブラストの姿が消えたのだ。
それを見ていたすべての視線が困惑するほど唐突に、ブラストは消失した。
答えは、上から降ってきた。
小さな点となって見えるほどの上空に、ブラストはいた。
悲鳴を上げながら落ちてくる当の本人でさえ、自分の身になにが起こったのか正確に把握していなかった。
無理もない。
想像を超えている……重さ百五十キロの人間を、片手であの高さまで放り投げられる腕力が、この世に存在するなど。
そしてブラストは、すべてが悪魔じみた頭脳で計算し尽くされていたかのように、天を向いて固定されている剣の切っ先へと、導かれるように墜落した。
轟音。
あの高さから受け身もとれずに背中から落下して、さらに腹部を剣で刺し貫かれてもなお、ブラストは生きていた。
自分の腹から飛び出た、血塗れの切っ先をぼんやりと眺めながら、ブラストは言った。
「おれ、どうなって……」
「死ぬよ」
ラスヴェートは冷酷に言った。そして淡々と続けた。
「私の妻を侮辱したんだ。君は死ななくてはならない。当然の報いだ」
「死にたく……な……」
「駄目だ。死になさい。その残り数十秒の命を、妻への懺悔に使うんだ。いいね?」
それきり興味を完全に失ったように、ラスヴェートはきびすをかえして店内へと戻っていった。
ブラストは、生来のおのれの図抜けた身体能力を心から恨んだ。
普通の人間なら、もっと楽に一瞬で死ねただろうに。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめ……なさ……」
ぶつぶつと呟く。
酒場から絶叫、連続する大きな物音などが聞こえたが、もはや彼にとってはどうでもいいことだった。
彼を取り巻く悲鳴、怒声、好奇の視線がやがて遠くなり、見えなくなり、聞こえなくなっていった。