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彼は迷宮の案内人  作者: あすてか
第一章《乳白色の森》
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《ザラーム帝国の最期①》



 その男が扉を開けて現れたとたん、賑わっていた酒場が静まりかえった。

 フードを目深にかぶった、黒く粗末なローブをまとった男だ。

 履き古したブーツでゆっくりと歩くと、カウンターの奥で客と談笑しながらグラスを磨いていた店主に話しかけた。


「いつもの物を買いたいんだが」


 くぐもったような、奇妙な声だった。

 店主はローブの男に冷ややかな視線を向けた。


「言っておいたはずだがな。商売の邪魔だから裏口から入ってくれ」

「すまない。だが鍵がかかっていて」


 店主は忌々しげに舌打ちすると、いったん店の奥に引っ込み、しばらくして、大きな木箱を重そうに抱えて戻ってきた。

 どすん、と大きな音を響かせて、カウンターの上に木箱が落ちる。


「ほらよ。さっさと代金をよこしな」

「ああ」


 ローブの男は懐から袋を取り出し、中身の硬貨をほとんどすべて取り出してカウンターに置いた。

 店主は金額が足りているか、偽金でないか、念入りに確かめると、「いいだろう。じゃあ、用が済んだらさっさと出て行ってくれ」と言った。

 ローブの男は頭を下げて「ありがとう」と言うと、木箱をひょいっと持ち上げてきびすをかえした。


「おお、くせえ、くせえ」

「ルンペン野郎が……」

「飯がまずくなる。とっとと消え失せろ」


 がらの悪い酒場の客たちからは、悪意のこもった侮蔑の言葉を吐き捨てられる。

 ローブの男はそれでも気にしたり反論しようとしたりする様子は見せず、ゆっくり歩いて店を出て行った。

 客たちはそっちを睨みつけていたが、鼻を鳴らしたり唾を吐いたりするとようやく落ち着いたのか、飲んだり騒いだりする続きに戻った。


「なあ、親父さん。あいつは何者だい? やけに嫌われてるようだが」


 頭にターバンを巻き、薄汚いマントを羽織った、このあたりでは新参者となる若い傭兵が、興味深そうに店主に尋ねた。


 店主はグラスを磨く作業に戻りながら答える。


「貧民街に住んでるクズさ。醜い男だ……」

「ふぅん。さっき買っていったのは?」

「牛乳やらパンやら、食い物の詰め合わせだよ。あの風体だ、普通の店じゃ客として扱ってもらえねぇからな。いつもうちで買いやがる」

「あいつ一人であんなに食うのか?」

「それがな、どうやらあの野郎、気の狂ったカタワの女を世話してるらしいんだ。ふん、とっととカタワ抱えて野垂れ死ねばいいものを」


 店主があの男に向けている侮蔑の濃さは、若い傭兵が戸惑いを覚えるほどだった。


「……それで……名前は?」

「あ? なんつったかな……ああ、そうだ思い出した……」


 磨き終えたグラスを棚に戻し、店主は言った。


「ラスヴェート。たしか、そんな名前だったな」


 若い傭兵は、その名前を記憶の端っこへ留めておこうと思った。

 わずかに、獣の臭いを嗅いだような気がした。





 ザラーム帝国は大陸北西部を大きく支配する、総人口五十万人超の大国である。

 帝都ザラームは俯瞰してみると五芒星のような形状の城壁にぐるりと囲われており、中心部の丘には皇城、行政区、上流階級街が集まり、さらにその丘部分から壁で区切られて、一般市民の暮らす都市街が広がる。

 都市街においては全体的に活気にあふれ、治安もそこそこ保たれているが、中心部から離れるごとに町並みや人種の猥雑さが目立つようになっていき、城壁の裏側に到着すると、そこは帝国のアンダーグラウンドといってよい面を見せる。

 高い壁の裏側は風通しや日当たりが悪く、虫や雑菌が繁殖しやすいうえ、区画整理が行き届いていないために乱立した建物の隙間には浮浪者や犯罪者が勝手に居着く。

 こんなところに住んでいるのは金のない者、病気を患った者、手や足が不自由な者、罪を犯して周囲から孤立した者……大多数から爪弾きにされた弱者ばかり。

 住みたくてこんな場所に住んでいる者など一人もいない。

 だが他に行く場所がないから、このゴミ箱に押し込められる運命にも甘んじて耐えている。それだけだ。ここは不衛生だし治安も悪いが、運が良ければ今日を生きることはできる。


 また帝国にしてみても貧民街は必要悪として容認していた。

 輝かしい栄光を目指す帝国にとっては弱者など即座に切り捨てるべき恥部にすぎないが、しかし、だからといって貧民街を焼き払ってしまうと、そこで暮らす犯罪者が各所に散らばってしまう。

 悪の種には住居を与えておき、監視しやすいようにしておくことが望ましい。

 それに、老いた病人や孤児など、扱いの難しい厄介者を押し込めるための隔離所というのはどうしても必要だ。

 そんな思惑もあって今まで放置されてきた結果、貧民街は膨れ上がった。

 なかでも城壁五芒星の右下に位置する通称《第三貧民街》はことさらに大きく、色濃い闇が覆い尽くしている。

 たとえ、その闇の中でどんな獣が蠢いていようとも、誰も気づかぬほどに。

 



 

 月明かりが照らす貧民街の道をラスヴェートは歩いていた。

 かなりの重量があるはずなのだが、食物の入った大きな木箱を片手で抱えていても、足取りは揺るぎない。

 周囲は、粗末な木材によってとりあえず雨風をしのげる程度に間に合わせたゴミ屋敷が建ち並び、そこかしこから怒声や悲鳴、すすり泣くような呻き声が聞こえてくる。死体が道ばたに転がっていたとしても、ここではそれほど驚くようなことではないのだ。

 建物と建物の隙間にできた闇から、いくつもの瞳が彼を見ている。


 普通ならばこれはかなり危険な状態だ。

 品定めされているのだから、もうすぐ何人かの男たちが飛び出してきて哀れな獲物を路地裏に引きずり込み、ナイフで刺し殺して身ぐるみをはぐ。ここの日常風景だ。

 が、ラスヴェートを見張る眼にあるのは、怯え、畏敬……恐怖。

 襲おうとしているのではなく、襲われないために監視しているのだとでもいうかのように。

 結局、トラブルに巻き込まれることもなく、ラスヴェートは目的地に到着した。


 そこは彼の住処。

 木造二階建ての古ぼけた小屋だった。

 けっして見栄えのいいわけではないが、それでも他の住人と比べればずっとまともな家だ。

 懐から取り出した鍵を玄関の鍵穴に差し込む前に、ラスヴェートはちょっと躊躇した。


(怒っていなければいいが)


 ため息をついてから、深呼吸して意を決した。


「戻ったぞ」


 ドアを開けて中に入ると、すぐ居間になっている。


「遅かったわね」


 耳に心地いいソプラノの声は、やや不機嫌そうな響きを含んでいた。

 ラスヴェートの予感は見事に的中してしまったようだ。

 なるべく音を立てないよう慎重に歩き、木箱をテーブルの上に置くと、窓際の少女に歩み寄る。

 少女は美しかった。

 窓から差し込む月光を浴びて輝くような銀髪は、ゆるやかにウェーブしながら腰のあたりまで伸びている。

 鼻筋の通った、まるで精巧な人形のように整った顔立ち。吸い込まれそうな深い蒼の瞳。一点の染みもない、透き通るように白く瑞々しい肌。柔らかそうな薄い紅の唇。

 見慣れているはずのラスヴェートでさえ、息をのむほどの美貌。

 天使が実在するなら、まさに彼女のごときものなのだろう。

 まだ十八歳でありながら、その美はすでに芸術の域に達している。


「すまない。できるだけ急いで帰ってきたんだが」

「あら、言い訳するの? こんな身体の私を何時間も放置しておいて」


 車椅子に乗せられた少女は、皮肉げに言った。

 少女は、小さかった。

 両腕の肘から先がなかった。

 両脚の膝から先がなかった。

 セラフィーナは、四肢を欠損した天使だった。

 付け加えると、片目もない。医療用の眼帯が、右目のあるはずの部分を覆っている。

 ラスヴェートは後ろから回り込み、なんとかなだめようと試みる。


「セラフィーナ。心細い思いをさせてしまったことは謝るよ。だが……」

「は? 心細い? なにを勘違いしているの?」


 セラフィーナは鼻で笑うように言った。


「たとえあなたが何日いなくなろうと、そんなことはありえないでしょうね」

「え……では、なぜ」


 怒っているんだい、と訪ねようとしたラスヴェートを、セラフィーナは首をぐるりとめぐらせて、凄まじい殺気をこめた視線で射抜いた。


「漏れそうだからに決まっているでしょう、大きいのから小さいのまで、ぜんぶ。まさかこのままここでぶちまけろとでも? いいわよ、その後始末をぜひやりたいと仰せなら、お望み通りにしてあげても」


 フードの奥でラスヴェートの顔が青ざめた。

 すぐにセラフィーナの身体を抱え上げて、しかるべき場所へ向かおうとする。


「それが終わったら」


 慌てふためくラスヴェートと対照的に、いつの間にか怒りを静めて落ち着いた様子のセラフィーナが、すまして言った。


「食事にしましょう、旦那様。……あなたの口移しで食べさせてちょうだい」


 甘く囁く妻の言葉に、夫の混迷は深まるばかりであった。





 パンをちぎって口元に運び、よく噛む。

 やわらかくなったところでセラフィーナと唇を重ね、パンのなれの果てをそそぎ込む。

 ちゅ、ずちゅ、ぐちゅ、と湿った音が響く。

 セラフィーナは舌を絡めたがるので、それに応える。

 他にも果物や牛乳など、食事はすべてラスヴェートがいったん口に含んで咀嚼してから口移しで食べさせなければいけない。

 これが、セラフィーナのたいへん気に入っている食事方法なのだ。

 もちろん、妻が喜ぶならば手間暇を惜しむラスヴェートではない。

 異常に淫靡な、お互いの口周りをはしたなく汚しながらの食事は、一日に三度、なにがあろうとも必ず行われる。

 夫婦が愛情を確かめ合う儀式だ。

 ただし、消化器官が弱っているセラフィーナはかなり小食なので、あまり多く食べさせるわけにはいかない。


「セラフ。このあたりにしておこうか」

「あん、もっと……」

「食べ過ぎるとよくない。我慢してくれ」


 銀髪を優しく撫でて、慰めてやる。

 セラフィーナは不満げに唇を尖らせていたが、愛する者に髪を触られる心地よさに負けて表情をやわらげた。

 それからラスヴェートは自分とセラフィーナの口周りや胸元にこぼれた食べかすをナプキンでよく拭いて、すっかり綺麗に整えた。

 食事の後片づけをしながらラスヴェートは言った。


「セラフ、すこし話があるんだ」

「なに?」

「じつは、そろそろ生活費が苦しくなってきた」

「どうして」


 セラフィーナの目つきがいきなり鋭くなった。


「前の街で、かなり稼いだはずでしょう。無駄遣いしていなければ、まだまだ働かなくても残っているはずよ」


 ふたりはこれまで、街から街、国から国へ転々として過ごしてきた。

 同じところにあまり長居したことはない。

 貯蓄が尽きると大きな仕事に手をつけて荒稼ぎを成功させ、それを元手に次の街へと移って新居を見つける。財布が空っぽになるまで二人は密着した蜜月を過ごす。そういった生活を繰り返してきた。

 貧民街に住んでいるのは、ゴミためのごときここなら無駄な税金や家賃が必要ないからだ。

 華美な装飾や広い敷地など必要ない。

 ラスヴェートとセラフィーナはお互いに寄り添っていれば他にはなにもいらない、二人だけの世界があればいいと考えているので、この貧民街はとても都合のいい場所だった。

 余計な世話を焼こうとしてくる隣人や、好奇の視線、同情の手など邪魔なだけ。無関心と不可侵が暗黙の了解としてはびこり、家は寝食に支障なく、適度に狭苦しいスペースが愛おしい。


「この街が気に入っていたのに」


 また流浪の旅に出なければいけないのか。

 ふたりが以前に住んでいた街で、それなりに実入りのいい仕事にありつけたので、ここに移り住んだ当初はまだ蓄えがたっぷりとあった。

 それがたった数ヶ月で底をつくとはどういうことなのか。


「……女に手を出してはいないでしょうね」

「セラフ。それだけは絶対にないよ」

「どうだか。すけべいな狼さんは、私なんかよりも発育のいい、手も足もある女のほうが……」

「ありえないよ。私には君だけだ。私にとって好意の対象となる女は君だけだ。安心してほしい」


 ラスヴェートは片づけの手を取め、まっすぐに言った。

 セラフィーナはちょっと頬を赤くして、そっぽを向いた。


「そんなことを言って、私を喜ばせて……ご、ごまかされないわよ。じゃあどうしてお金がなくなったのか説明してちょうだい」

「食費がかさむんだ。この街は私のように怪しげな男に物を売ってはくれない。だから酒場を利用して調達しているんだが、かなり値を吊り上げられている」

「……どのくらい?」

「まあ、相場の五倍から六倍は」


 セラフィーナの目つきが険しくなる。


「バカにしているわね」

「だが他にどうしようもない……この国で暮らそうと思うなら我慢しないといけない」


 諭すように言うと、セラフィーナはさんざん苦汁を舐めるような表情で悩んだ様子だったが、結局は降参してため息をついた。


「わかったわ。明日、三時間で戻ってこられるお仕事を探してきて」

「二時間で帰るとも、セラフ」

「うん。ありがとう」


 はにかむようにほほえむ、セラフィーナ。


「それから……離ればなれになるのだから……今夜はいつもより多めに愛してちょうだい、旦那様」


 もちろん、とラスヴェートはうなずき、妻と唇を重ねた。



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