《エルフのアリシア》
大迷宮では地図など役に立たない。
ならば、案内人は、どのようにしてその使命を果たすのか。
なにを目標にして歩みを重ね、どんな根拠があって、依頼人を導くというのか。
これについては、案内人によってそれぞれ答えが異なる。
ある者はデータと冷徹な理論を信じるという。木の種類や川の流れる方向など目に見えるものを確かめ、これまで培ってきた経験に裏打ちされた情報を基礎として進み、目標にたどり着くのだという。
またある者は、直感こそすべてだと言う。本能とでもいうのか、魔境で生きるうちに身につけた感覚を最大限に鍛え上げ、理屈では説明できない鋭い嗅覚で獲物を見つける。
どちらが正解だということはできない。彼らは、長きにわたって試行錯誤を繰り返した結果、おのおの自分にもっとも適したスタイルを確立させて、職務をまっとうしているのだ。
そしてユーリは、どちらかといえば、本能を信じているタイプの案内人だ。
頭の中で理屈を並べるよりは、ただ感じるがままに動くほうが性分に合っている。
けっして投げやりになっているとか、運任せにしているわけではない。 肌に触れる空気の温度、風向き、そして霧の濃さ。
森の木々の種類、草木が揺れてこすれあいざわめく音。
地面の硬軟、湿度、土の種類。
生息している魔物の種類。その糞から分かる生態系。
注意深く感じ取っていけば、周囲のすべてが手に取るように分かる。
才能に恵まれたユーリが大迷宮で死線をくぐり抜けていくうちに手に入れた、一種の超感覚。
この特殊な能力をもってすれば、お目当ての獲物にたどり着くための道筋が、自然と浮かび上がってくる。
ユーリは、この日の目的を、魔晶石の入手と決めていた。
地竜を探し出して倒すことができれば得られるものは莫大だが、いかんせん、ひ弱なジャンを傍らに置いたままでは戦いにくい。竜の巨躯が激しく暴れ回れば、おのずとジャンを守りながら戦うことになり、不利となる。
その点、魔晶石ならば、ちょっと岩を砕いて取り出すだけでこと足りる。樹液を狙う昆虫のごとく集まっている魔物どもの存在は厄介だが、ユーリの相手ではない。
霧がより色濃く広がる方向へ。
よりたっぷり水気を含む霧は、それだけ魔力も濃い。
魔晶石の周囲は、ずしりと重みさえ感じるほどの濃霧に覆われている。 ユーリは肌に感じる霧の濃さを頼りに、迷いなく歩みを進めていった。
そのとき、前方から、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。
年若い女の声だ。
ユーリはまず、ジャンの口元を手で素早く覆うと、近くの木の影に身を隠した。
「黙ってろ」
低い声で囁くように言う。
ジャンが小さくうなずくのを確認した。
「この森では、悲鳴とか、助けてとか聞こえても返事をするな。うかつに行動すれば、《叫喚者》の罠にひっかかる」
「《叫喚者》って?」
「クソ忌々しい魔物だよ。人間の声を使って、こっちを油断させようと仕向けるんだ」
「でも、本当に人間だったら?」
「知らんな。俺には関係のない話だ」
声の主が魔物だとしても、人間だとしても、ユーリが助ける義理はない。
人間だと仮定すると、おそらく、女は魔物に襲われたのだろう。
だがこちらは依頼人を案内している仕事の最中。目を離すわけにはいかない。
たとえ目の前で、女が生きたまま魔物にむさぼり食われようとも。
優先すべきは、おのれの果たすべきつとめ。
二十数年間、死線をくぐり抜けてきた人生が、冷徹なリアリストを作り上げた。
だが、選択の余地を生まない状況というのも、発生しうる。
「こっちに来るのか」
ユーリは舌打ちを我慢して眉根を寄せた。
悲鳴はどんどんこちらへ近づいてくる。
騒々しい足音。
《叫喚者》ではない、と確信する。
果たして、霧と森の向こうから息を切らせて現れたのは、蜂蜜を溶かしたような色合いの髪を三つ編みにした、二十歳ほどの女であった。
ほっそりとした体つきと、それに不釣り合いなほどたわわに実った乳房。整った目鼻立ち。すこし目尻の下がった瞳。右目の下にある泣き黒子が色っぽい。
大胆に胸元が開き、白い太股が強調された衣服。
女の耳は、長く尖っていた。
「だれか! だれか助けてください!」
気付かずに走り去ってくれればいいものを。
ユーリはそう願ったが、女はめざとくこちらの姿を発見した。
「あ、ああっ! おねがいです、助けてください! 追われているんです!」
希望に輝く女の顔。
ユーリは忌々しそうに言った。
「なんだよ」
仕方なく木の影から出ていく。
おびえた様子の女のそばに寄って、周囲を確認してみるも、追っ手が姿を現す気配はない。
「なにもいないみたいだが」
「そんなはずありません。おそろしい魔物に追いかけられたんです。わたし、森の薬草を摘もうとしていたんですけど、獣のうなり声が聞こえて、大きな影が落ちてきて。信じられないくらいおぞましい魔物でした。集めた薬草も投げ出して、無我夢中で逃げたんです」
そして、気がついたらここにたどり着いていたらしい。
ユーリは感動したように「うんうん」とうなずいてみせた。
「無事に逃げられてよかったじゃないか。それじゃあな」
「まってください!」
なにごともなかったかのように歩きだそうとするユーリのシャツを、女の手が掴む。
女は目に涙を浮かべて、すがりつくように言った。
「お、おねがいです。わたしの住んでいる村まで、いっしょに来ていただけませんか? またあの魔物に襲われたらと思うと、怖くて」
「断る。悪いが、仕事中だ」
ユーリは愛想もなく言った。
「エルフなら森の道で迷ったりしないだろ。せいぜい魔物と出くわさないように気をつけて、さっさと帰るんだな」
「そんな!」
女の顔はすっかり青ざめてしまっている。
ジャンが助け船を出した。
「送ってあげればいいじゃん」
「おい。いま、俺はおまえを案内してる最中なんだぞ」
「いいよ、べつに。急いでないし。ほら、なんだったら、おいらの依頼で、そのお姉さんの村まで案内するってことにしてもいいよ。日当はちゃんと払うしさ」
ユーリは困ったように眉根を寄せた。
思案するように手で顔を覆ってから、観念したように言う。
「……依頼人がそう言うなら、俺はかまわないけどな」
「じゃ、決まりね。おいらはジャン、こっちはユーリ。お姉さん、名前は?」
「わたしはアリシアといいます。お二人とも、ありがとう。村に着いたら、きっとお礼をさせていただきます」
アリシアは胸の前で両手を組みながら微笑を浮かべ、そう言った。
◆
アリシアに導かれて歩く道すがら、すぐに打ち解けたジャンとアリシアはずいぶんと楽しげに会話していた。
ジャンは、生きたエルフと出会うのは初めてだということで、彼女らの実態について興味津々といった様子だ。
エルフという種族は、書物や伝承などで広くその名前を知られているものの、地上ではすでに絶滅しているとされている。このリメイン地下の大迷宮は、生きたエルフの存在を確認できる、希少な場所だ。
ジャンは行商人という立場ゆえ、物珍しい情報は、なんでも仕入れておきたいのだろう。商売相手との話の種にできるし、同業者と交換する情報のカードにもなりうる。
しかしそれを横に置いても、アリシアは美しい女だ。年上の美女との会話が少年の心を躍らせるのは当然だ。ジャンは、エレベーターを目の当たりにしたときと同じように興奮していた。
対照的に、ユーリはつまらなそうに先頭を歩いている。
「さびしそうね。なぐさめてあげましょうか?」
「うっせぇよ、クソババア。黙ってろ」
「ユーリさん、なにかいいました?」
「なんでもない、ひとりごとだ。気にするな」
剣の鞘をぴしゃりと叩く。
アリシアの住む村は、しばらく歩くと見えてきた。
聴力が発達し、森の中で感性を研ぎ澄ませていったエルフたちは、人間には真似できない確かな足取りで、自分の村に帰ることができる。そうでなければ、ちょっと出かけたり狩りに行ったりしただけで、未来永劫、さまよい続ける羽目になる。
すべてが変化し続ける迷宮内において、村を作るというのは、容易なことではない。
どんなに堅牢な家を建てたとしても、自然そのものに牙を剥かれたときは無力だ。
明日にも湖底に沈むかもしれない、平地が断崖絶壁になっているかもしれないという恐怖は、必ずついて回る。
魔物に襲撃されるかもしれないという問題点も、もちろんある。
それでもこの迷宮で生きていかざるをえないエルフたちは、すこしでも生存率を上げるために、知恵を絞ったという。
石壁や木材の家を捨てて、動物の皮や植物から作った布を利用し、テントを張った。これなら、大地の変動に合わせて身軽に移動することができる。
魔物除け、霧除けの結界の研究、なるべく火を使わずにすむ料理など、エルフたちには、人間にはない独特の文化がある。
地上の先進国家リメインとはまったく違う、テントの並ぶ風景は異国じみていて、ジャンを驚かせた。
そこだけぽっかりと霧が晴れた、大きな平地の空間。
近寄っていくと、村を囲う柵の一部分が開いて、屈強なエルフの男がふたり、槍を手にして歩いてきた。
「アリシア。戻ったのか。心配したぞ」
「なかなか帰ってこないから、村のみんなで探しに行こうかと相談していたところだ。……そっちは? 人間のようだが?」
警戒したように言う。手にした槍を、向けるようなことはしなかったが。
「ただの通りすがりだ」
「ユーリさんと、ジャンくんよ。魔物に追われていたところを助けてくださって、ここまで送っていただいたの。恩人よ」
ユーリがそっけなく言ったのを横から遮るように、アリシアが言った。
男ふたりは顔をほころばせた。
「そうでしたか」
「アリシアの恩人となれば、このままお返しするわけにもいきますまい。ぜひ、お礼をさせていただきたい。さ、中へどうぞ。長老にも紹介せねば」
村の奥を示す、男たち。
ジャンはユーリを見上げて言った。
「お礼だって。よかったね、ユーリ。やっぱり人助けはしておくものだよ」
「だといいがな」
アリシアと男たちに誘われるがまま歩く、ふたり。
不意に、ユーリは腰から提げていた剣を、鞘ごとジャンに押しつけた。
「わ。なに?」
「貸してやるから、持っとけ。誰かに取られたりするなよ」
「おいら、剣なんて使えないよ」
「いいから、持っておけ。お守りだ」
断固とした口調で言うユーリ。
いぶかしげにしていたジャンだったが、しぶしぶ、剣を抱えた。
「爺さんがなんか言ってたっけな」
ユーリのひとりごとは誰にも聞こえなかった。
村いちばんの美女アリシアを救った恩人として、ふたりは、盛大に歓迎された。
この村の長である、白髭をたっぷり伸ばした老エルフは、村に住むすべてのエルフを大きなテントに集めると、貴重な備蓄食糧をありったけ使って料理を作らせ、ユーリとジャンをもてなしたのだ。
ジャンは、今まで見たことも聞いたこともないようなエルフの料理に舌鼓を打ち、美しいエルフの女たちに囲まれながら上機嫌で過ごした。
ユーリは、ちびちびと酒を飲み、食欲がないと言って、料理には口をつけようとしなかった。
しばらくが経ち、宴はお開きということになった。
「どうか今晩だけでも」
長老とアリシアたちは、帰ろうとするふたりを引き留め、特別なテントで身体を休ませていってほしいと言う。
ますます気をよくしたジャンは大喜びでこの誘いに乗った。
雇い主がそのつもりなら、ユーリだけ帰るわけにはいかない。
ため息をつきながら、「わかった」と言った。
テントは個別に用意されており、わざわざ急いで作らせたということで、なかなか豪勢な内装が整えられていた。
マジックランタンの淡い光が、それらを幻想的に照らし出す。
地面に布を敷いただけ、あるいはハンモックではなく、ふかふかのベッドで寝られることは、迷宮内では、最大の贅沢のひとつだ。
柔らかい羽毛に背中を沈め、ユーリは、眠気など覚えていないのか、ただじっと、両手を頭の後ろで組み、なにかを待つように、天井を見つめていた。
数時間が経っただろうか。
ジャンのテントから聞こえていた馬鹿騒ぎもようやく静まり、村全体から音が消えた。
もともと暗闇に包まれている《乳白色の森》に、いうなれば、夜が訪れたのだ。
テントの入り口が、そっと開いた。
ユーリは上半身を起こした。
「ユーリさん」
そこに立っていたのはアリシアだった。ひとりのようだ。
水で身を清めたのか、髪は輝くような光沢を放っており、肌は妖しいまでに艶やかだ。
「なんの用だ?」
ユーリが尋ねる。
アリシアは言った。
「助けていただいたお礼を、まだ差し上げていませんから」
「もう充分にもらったと思うがな。とくにジャンは」
皮肉げに言う。
アリシアはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。あんなもので済ませるつもりはありません」
そして、ためらうことなく上着に手をかけ、脱いでいく。
さらに、下着をも。
ランタンの光に照らされ、浮かび上がる、アリシアの裸身。染みひとつない、滑らかな白い肌。
豊かな乳房が、呼吸に合わせて規則正しく上下している。その先端は、興奮のためか、痛々しいほど尖っていた。
「受け取ってください。わたしの、すべてを」
アリシアは淫らにほほ笑みながら、ゆっくりと歩を運んだ。
隠しようもないほど濡れている、黄金の茂みへ、男を導くため。