家族のカタチ
2012.4.15修正
子供が笑っている。
母親と手を繋いで、もう片方の手のひらを川面のマガモに振っていた。カメラを構えた父親に名前を呼ばれると、ピースサインをして応えた。
三人の家族は、芝生にピクニックシートを広げて、おにぎりを頬張り始めた。
目の毒だ。
シーカはそっとその場を離れた。
何度も振り返りながら。
「今日も屍肉か」
シーカは肉が乗った皿をテーブルに置いた。
給料日までまだ何日かある。財布の中身は心許ない。月も半ばになると、いつも金欠になる。今月はさらにひどかった。普段なら三本の鶏のもも肉が今日はひとつなのだ。
生肉にかじりついた。滲み出たドリップに顔をしかめる。水っぽくて、臭みがあった。生きたまま食べるのと違い、少し喉に引っかかる。
「食べられるだけマシでしょ」
窓辺に立っていた女がたしなめた。彼女は新調したピンクのコートを羽織り、鏡で服装をチェックしていた。
「ネブラがコートなんて買わなければ、今頃、やわらかい仔牛の肉を食っていたかもしれないんだけどな」
「何か言った?」
「肉が歯に挟まっちまった」
シーカは首をすくめて、指の爪を伸ばした。歯の間をこすり、引っかかっていた肉をこそげ取った。
「なら、いいわ」
彼女は耳が良い。囁き声も聞き取るほどである。聞き返してきたのは、間違いなく脅しだ。口答えをすると、首筋に歯形がつく。
「出掛けてくるわね」
身だしなみを整えた彼女は、唇にルージュをつけた。
「まだ早いんじゃないか。この時間は人間が多いだろ。用心しないと、騒ぎになるぜ」
シーカは鏡を指差した。ネブラはヒールを鳴らして睨んだ。
姿見には、すらりと伸びた脚にフィットしたストッキングと、丈の短いスプリングコート、細いヒールだけが浮かんでいた。彼女の顔や腕があるべきところは、反対側の壁が映っていた。
「わざわざ、そんなことを言うのには、理由があるのでしょうね。私が、ヘマをするとでも、思っているのかしら?」
シーカの肩に細い手が乗った。彼は咄嗟に力を込めた。
「いてえ!」
骨が軋んだ。厚い筋肉をものともせず、彼女は握力だけでシーカの肩関節を外していた。
「思っているの?」
シーカは必死に首を振った。
「じゃ、行ってくるわ」
涙をにじませながら関節を戻した時には、ヒールの音が遠ざかっていた。窓辺のカーテンが揺れて、外気が流れ込んでくる。彼女は窓から出て行ったようだ。
「馬鹿力の吸血鬼め!」
シーカは肩をさすり、痛みに耐えた。動かさないよう注意して数分後、彼の回復力は伸びた筋を元の状態に戻した。拳を握り、開き、痛みが消えたことを確認する。
「くそ、タダで腹が一杯になるヤツはいいよな」
今夜もどこかで血を飲んでいるはずだ。シーカは負け惜しみを言い、残っていた肉にかじりついた。
今日の食事は一回こっきりだ。たっぷり時間をかけて咀嚼する。水道水で胃液を薄めて、腹の足しにした。
「腹減ったあ」
腹の虫を強引に黙らせても、空腹感まではどうにもならない。痛みと違って、なかなか我慢できるものでもなかった。
「おっと」
夜の仕事が始まる時間が近づいていた。あわててシャツを着た。
服はいまだに慣れなかった。しかし、外に出るには服を着ないといけない。
「ああ、めんどくせえ」
不器用な指使いでボタンをしめる。時間ぎりぎりで準備が整った。
シーカは戸締まりをして部屋を出た。
「ネブラ、ちゃんと鍵持ったかな」
玄関の鍵を閉めるにしても、二階の窓は開けておこうと思った。
日中は穏やかな陽気でも、夜はそこそこ冷える。桜も散り始めていた。
「おい、そろそろ休憩にするぞ」
みんなが集まると、熱いお茶が入ったコップを手渡された。シーカは礼を言って口を付けた。
「兄ちゃん、あいかわらずいい身体してるよな」
工事現場の仕事は、肉体が資本だ。がっしりとした体型の男たちの中にあっても、シーカの筋肉は見事だった。
「そうですかね」
腕に軽く力を込めると、凹凸がくっきりできる。年配の男が二の腕を叩いた。
「お前、これで何人の女を泣かせたんだ」
にやにや笑いが、他の男たちにも広がった。
シーカは困った顔で愛想笑いをした。頭に浮かんだ女はネブラだ。
「泣かしてなんていないなあ。俺のほうが泣かされてる」
「兄ちゃんを泣かすなんて、たいした女だな」
「ものすごい恐い女なんだ」
シーカは神妙に頷いた。怒らせたら腕の一本や二本をもぎ取られる。そうでなくとも、血を見るのは確実だ。滴る血液を見たネブラがどうなるのか、想像すると身体が震えた。
「女はな、子供ができたら、もっとひどくなるぞ」
「まったくだ」
「母親は強い」
男たちは、自分たちの経験を口々に語った。シーカは腕っ節のことかと思っていたが、聞いていると、男女の肉体関係のことだと気づく。
「女ねえ」
ネブラを一人の女と見る。
ぞっとした。
子供の頃からそばにいる彼女と、男女の関係になるなんて考えたこともなかった。そもそも、吸血鬼と彼とでは、根本的に肉体の組成が違う。生命の形も異なる。
「嫁さんはともかく、子供はかわいいよなあ」
「うちの子は母ちゃん似で、美人だぜ」
男たちは携帯の画面を見せ合い始めていた。みんな、デレデレと、幸せそうな顔をしていた。
彼らは朝まで働き、学校に行く子供と入れ替わりに家に帰る。家族全員が揃うのは一週間に一度くらいだ。仕事が忙しくなると、そんな幸運な一日もなくなる。
シーカは河原で見た親子の姿を思い出した。あの家族も楽しそうにしていた。
彼らは、おにぎりを食べることが楽しかったわけではなく、家族が一緒にいられることに、幸せを感じていたのだ。シーカが山盛りの肉を前にするのとは違って。
「なあ、お前さんは、どっちがかわいいと思う?」
携帯の画面を並べられて、シーカは戸惑った。どちらも、色つやの良いほっぺたと、やわらかそうな手足が健やかさそうだった。
本能が疼いた。
「どっちも、いいと思う」
腹の虫が鳴った。
「おかえり」
「あれ? 今日は早いんだな」
いつも明け方近くまで帰ってこないネブラが、珍しく家にいた。コートは脱いで、夜着に着替えている。
「おい、見えてるぞ!」
はだけた胸の谷間と、透けて見える乳房の膨らみに、シーカは目を覆った。
「ん」
彼女は棺の上に座り、組んだ脚を投げ出して読書していた。シーカの指摘にも上の空で活字を追っている。
「聞いちゃいねえ」
シーカは仕事仲間との雑談を思い出した。白い肌の奥に視線が吸い付いた。吸血鬼といえども、見た目は人間の女と変わりがない。やわらかそうな太ももに、敏感に反応する。
待て。
シーカは高まりつつあった情動を抑え込んだ。思いの外たやすく、自制心が発揮された。性欲よりも、本能に近い部分で自分を律した。
恐怖だった。
彼女に覆い被さろうものなら、手ひどい仕打ちを受けるのが目に見えた。吸血鬼の実力は、生半可なものではない。女の身体を開かせる前に、彼の肉が引き裂かれるのが想像できる。
もしも彼女が人間だったならと考えた。大人しくて、弱々しい人の子であったなら、あたたかい血の通った存在なら、自分は本気で彼女をどうにかしようとするだろうか。
「何が見えるって?」
ネブラは本にしおりを挟んだ。青い目が静かに上を向いた。
「何でもねえよ」
シーカは束の間の妄想を打ち消し、そっぽを向いた。
「そう」
彼が目を逸らした瞬間、ネブラは脚を少し開いて組み替えた。挑発しているとも取れる動作だった。
「シーカ」
「なんだよ」
不自然な咳払いが出た。
「あれを覚えている?」
本を置いたネブラは、棺の上であぐらをかいた。シーカは意識しないように天井を凝視した。
「何をだ」
「あんた、観察力ないわね。そっちの壁を見なさいよ」
少し腹が立った。あられもない格好から目を逸らしている気遣いが、ネブラにはわからないらしい。
窓辺にある鏡と反対側の壁を見ると、出かける前はなかった額縁がかかっていた。
「おい、これは」
シーカは驚いて顔を寄せた。そこには、幼い頃の自分がいた。隣りにはドレスを着たネブラがいた。
「この絵って、前からあったか?」
「なかったから、思い出して描いたんじゃない」
「描いた? ネブラが?」
彼女の意外な才能に驚いた。絵を描いている彼女は、今まで見たことがなかった。
「吸血鬼は、鏡にも写真に写らない。だから絵を覚える。ねえ、ちょっとしたものだと思わない」
「すごい。うまいな」
うまいだけではなかった。二人の背丈や、昔あった調度品なども、記憶にあるものと同じように、絵のなかに存在していた。
「私の記憶だけど、間違っていないと思うわ」
ネブラはそっけなく言った。
「これって、ネブラの誕生日の時じゃねえか。覚えているよ。ケーキ、全部くれたよな」
「人間の真似をしてみたのよね。ケーキは身体に合わないから、あんたにあげて。そうしたら、すごい勢いで食いついたんだっけ。おかしかったわ」
シーカは顔中をクリームまみれにして、はしゃいでいた当時を思い出した。
「あれは、うまかった。でもよ、ネブラのご両親が描かれてないのはどうしてなんだ」
あの時、屋敷にはネブラの両親を含めて四人が居住していた。
「この私と、二人じゃ不満ってこと?」
「そういうわけじゃなくて」
「コートを買ってくれたお礼なんだから、素直にありがたがりなさい」
「買ってくれた?」
シーカは鼻白んだ。プレゼントした覚えはない。彼のバイト代、つまり生活費でコートは買わされたが、あとで返してくれるはずだった。
「今月の家計、やばいんだって」
食費は切り詰めるだけ切り詰めている。もう限界だった。
「ありがとう、シーカ」
笑顔が向けられた。彼女の目は笑っていなかった。感謝の気持ちは欠けらも見えない。本気で、威圧していた。金を返すことなど、まったく考えていないのだ。
彼は肩を落とした。バイトを増やす算段をしなければならなくなった。
「俺、シャワー、浴びてくるよ」
まず頭を冷やして落ち着くことにした。怒っては駄目だと言い聞かせた。
「水浴びの間違いじゃないの? ワンちゃん」
「ワンちゃんじゃねえ、狼だ!」
シーカの怒りに火がついた。顔から肩にかけて、ぞわぞわと体毛が伸びる。逆立った毛並みのなかから、尖った耳がぐるりとまわった。筋肉が膨らみ、上半身が狼に変化した。
半人半狼の姿を見て、ネブラの目元がほころんだ。手を伸ばして頭を撫でようとする。
「そのほうが可愛いわよ」
「なんだよ、もう」
シーカは怒っているのが馬鹿らしくなった。彼女のなかで、シーカはからかいがいのある弟なのだ。彼から見るとネブラは油断のならない姉である。
シーカの心になんとも言えないものが湧き上がる。理不尽なことにも従うのが当然という気持ちと、かまってくれるのが嬉しいという感情だ。
「ワン?」
ネブラが四つん這いになって吠えた。
「ワン!」
シーカはやけくそで吠え返した。
二人は、絵のなかの少女と仔狼のように楽しげだった。
*
シャワーを浴びて部屋に戻ると、ネブラはもう寝ていた。カーテンの隙間から朝日が漏れている。吸血鬼には眠りの時間だ。
「なんだ、これ」
ネブラの寝床の下にキャンバスがあった。引っ張り出してみると、小さなネブラと、彼女の両親の肖像画だった。少女の背丈から考えて、シーカが屋敷に来るより前の絵だ。
「そうか」
シーカは、ネブラが両親を描かなかった理由に思い至った。捨て子だったシーカが、父母の存在を気にすると考えたのだろう。
「気遣いも、やればできるじゃねえか」
シーカは感慨深げに頷いた。
「この絵を参考にしたんだな」
吸血鬼は鏡に映らない。つまり、直接、自分の姿を見ることができない。ネブラの少女姿はこの絵をもとにして描いたのだと想像できた。
「ありがとよ」
感謝の言葉を囁いた。寝ているネブラには聞こえなくてもいい。聞かれたら図に乗るからだ。
シーカはシャツとズボンを脱いで、人の形を解いた。青年狼は、棺の足下で身体を丸める。
そこが彼の居場所だ。




