第二十話 イケメンな鈴木
鈴木は啞然として、自分が掲げるそれを見つめていた。まっすぐに天上の月を指し示す姿は、まるでかぐや姫を恋しく想っているかのよう。
月の光を浴びて神々しく輝く三十センチの竹定規。
それが、なぜ我が手に……!? 鈴木は声を出すこともできずに口をあんぐりと開けた。神の天啓か、その脳裏に走馬灯のように今朝の出来事がかけめぐる。
朝っぱらから不良に絡まれ、困っているところを曽良と砺波が乗った自転車に轢かれ、なぜかランドセルを背負ってる曽良につっこみを入れ……それから、変装がどうのと言い合いをした挙げ句、曽良がリコーダーのケースに入れた定規を取り出して——。
——凶器、持ち歩いてどうするんですか!?
そうだった、と鈴木は目を見開いた。あのとき、曽良から定規を奪い取り、それを自分の鞄に入れたのだ。
すっかり忘れていた。しかし、何をどう間違ったら、ケータイと定規の感触を間違えるのだ? よほど、テンパっていたのか。やはり、慣れないことはするものではない。
鈴木は途方に暮れた表情で定規を見上げた。たとえ離れていようと、『がっかりイケメン』の呪縛からは逃れられないようだ。涙目になりつつも、いまさら定規を下ろすわけにもいかず、そのシルエットだけは『伝説の勇者』よろしく定規を高々と掲げて佇んでいた。
やがて、ぽかんとしていたブレザー姿の二人組は我に返ったように目を瞬かせ、顔を見合わせた。
「定規って……」
なにやってんの、こいつ!? バカじゃねぇの!? そんな罵声と嘲笑が響き渡るに決まっている。鈴木は口を固く閉じ、その判決のときを待っていた。
ところが……。
「あの制服ってよ」と、茶髪のほうの少年が鈴木を訝しそうに見つめてきた。「小賀葛……だよな?」
「ああ」と、もう一人の面長の少年が長い黒髪を揺らして頷く。「間違いない。小賀葛の学ランだよ」
「小賀葛の学ランに……定規……」
「まさか……!」二人は揃って目をむき、鈴木を指差した。「お前、『定規王子』か!」
「は?」
何かの劇団だろうか。そう思ってしまうほどにぴたりと重なった二人の声に、鈴木は呆けてしまった。
『定規王子』……そう言っただろうか?
「間違いねぇ! お前、『定規王子』なんだな!?」
「あの小賀葛を入学初日でシメたっつう一年坊主だろ!?」
「え!? いや、待ってください!」
「小賀葛番長の手下一人一人、ケツに定規を突っ込んでいったっつう鬼畜野郎!」
「……」
とんでもない脚色がされているよ、藤本くん。鈴木は頬を引きつらせた。
いや、そんな場合じゃない。鈴木は気を取り直して顔を引き締める。間違いなく、彼らは自分を『定規王子』——藤本曽良と勘違いしている。早く誤解を解かないと、厄介なことになるのではないか。
「あの」と注意を引くように、鈴木は手を挙げた。「俺は『定規王子』じゃなく……」
「ちょっと待てよ!」と茶髪の少年が思い出したように、鈴木の声を遮った。「『定規王子』って、確か超絶イケメンって話じゃなかったか?」
「ああ、そうだった。つちのこ並みの格好よさだって話だな」
その比喩はおかしくないか。
「だろ!? ほら、よく見てみろよ。 こいつ……イケメンか!?」
「……」
じっと食い入るように鈴木を見つめる二人組。定規を片手に気まずそうな表情で佇む鈴木。
居心地の悪い沈黙の中、歩道橋に寒々とした風が吹き抜けた。
なぜ、こんなところで惨めな気分にならなきゃいけないのか。居たたまれない気持ちに襲われながらも、とりあえず誤解は解けそうだ、と鈴木は安堵していた。
そう。『定規王子』の条件は『小賀葛の一年生で、定規を持ち、イケメンであること』だ。その一つでも当てはまらなければ『定規王子』ではない。つまり、イケメンでない鈴木が『定規王子』であるはずはないのだ。
「確かに」やがて、面長の少年がおもむろに口を開いた。「イケメンには見えねぇな」
「だろ。こいつ、『定規王子』じゃ無いんじゃ……」
よかった、と鈴木は肩を撫で下ろす。とりあえず、『定規王子』の件はこれで……。
「いや、待て!」
急に、興奮したような大声が響き渡った。ぎくりとして目をやると、面長の少年が眉間に皺を寄せてこちらを睨みつけていた。
「こう……こう、だ」と、彼はただでさえ細い目をさらに薄めて、険しい表情で鈴木を凝視する。「寄り目に……寄り目にしたら、イケメンに見えなくもない!」
寄り目!?
「いや、なんで寄り目——」とつっこむ間もなく、さっそく試した茶髪の少年が「本当だ!」と驚きの声を上げた。
「寄り目にしたら、イケメンに見えなくもない!」
「イケメンだ、確かにイケメンだ!」
「イケメン並みのつちのこに見えなくもないぜ!」
いや、イケメン並みのつちのこは、結局つちのこだろう。
必死に鈴木をイケメンにしようと寄り目になる二人組。鈴木は反論する気も失って、憮然たる面持ちで突っ立っていた。
寄り目にしたらイケメンに見える……なんだ、それは。自分はステレオグラムの一種か。
「冗談じゃねぇ!」鈴木をイケメンと誤認するなり、二人は取り乱した様子で後退り始めた。「『定規王子』とやり合えるか!」
「ケツが何個あっても足りねぇよ」
よっぽど定規を警戒しているのか、仲良く後ろ走りで去って行く。なんとも滑稽な光景だ。鈴木は呆然とそれを眺めながら、風の噂の恐ろしさを実感していた。どうやらこの辺りでは、曽良はとんでもないイケメンに仕立て上げられているようだ。
「とりあえず……」
ぽつりとつぶやき、鈴木は定規を見つめた。ワケの分からない展開ではあったが、この定規に救われた、ということか。呆れつつも、感謝の気持ちを抱いて鈴木は苦笑していた。なんだかんだで助けてくれる……どっかのイケメンみたいじゃないか。
「あの……ありがとう」
「!」
ふいに、透き通るような声が耳に流れて来て、鈴木はぎょっとした。そうだった、と本来の目的を思い出して鈴木は顔を上げる。歩道橋にいたのは鈴木とさっきの二人組だけではない。もう一人いたではないか。彼らに絡まれていた少女が……。
「だいじょう……」
訊ねかけた鈴木だったが、思わぬものを目にして硬直した。
歩道橋の上、暗がりの中から姿を現したのは、茶色のブレザーに身を包んだ少女だった。流した前髪を水色のピンで止め、艶やかな黒髪は肩の辺りで切り揃えられている。おっとりと垂れた目は優しげで、しかし、その瞳は理知的な光を放っている。素朴ながらも聡明そうで、ダイヤの原石のような秘められた魅力を持っている。
そんな彼女は、鈴木の前で立ち止まるとにこりと屈託の無い笑みを浮かべた。
「久しぶり、鈴木くん!」
「さ……佐藤さん」
その声に聞き覚えがあったはずだ。
歩道橋の上で『定規王子』が救ったのは、中学時代、鈴木と三年間同じクラスだった佐藤春香だった。