第一話 鈴木という少年
そこは、まさにこの世の楽園。眩い白いセーラー服を纏った精練可憐なお嬢様たちが集う聖地。姫桜女学院。
その校舎は春色に染まる花畑に囲まれ、そこに響き渡るチャイムは天使たちが鳴らすラッパのごとく耳に心地よい。
普段は男子禁制のこの聖地も、学園祭にはその堅い門を開け放つ。おかげで、学園祭の時期には男たちの長蛇の列ができるのだった。
──そんな楽園の向かい。道路を挟んで反対側に、『不良の巣窟』と呼ばれている私立男子校がある。品のない落書きで埋め尽くされた校舎の壁。もはや枠しかない窓。なんとなくどんよりとした雰囲気漂うそこは──小賀葛高校。
入試は「名前を書けば受かる」とされ、内申書もここではただの紙っぺら。中学時代、悪の限りを尽くして行き場の無くなった不良たちが最後にたどり着く場所である。
そんな『不良の巣窟』で、ただ一人、見た目も中身も、成績も身体能力も、何から何まで平均的な少年がいた。鈴木という名の彼は、神様が『個性』という着色を忘れたんじゃないか、と疑ってしまうほど、ただただ平凡だった。
中学時代はろくに名前を覚えてもらうこともできず、なぜか『田中』と呼ばれる日々。誰の目にも留まらず、いつだって「そういえばいたっけ」的な存在だった。そんな彼が、生まれ持ったとしか考えられない勝負運の無さで──なぜか、どの試験日にも腹痛に襲われるという悲劇に見舞われた――入学したのがこの高校。
当然、彼は浮いていた。
入学式当日、ぞろぞろと校門をくぐっていくガラの悪い連中の中で、彼は見事に浮いていた。それでも、持ち前の『存在感の無さ』を発揮して、彼はこれから三年間を平穏地味にやりすごそうと心に決めていた。
目立たなければいい。不良たちの注目を引かなければ、トラブルに巻き込まれることはないはずだ。鈴木はそう高をくくっていた。
しかし、彼は甘かったのだ。
入学式の朝、予想外の人物の出現に、鈴木は悟った。──二度と、彼の『平均的な日常』など戻ってこないことを。
その人物は、小賀葛高校の校庭に颯爽と現れた。
女も男も、誰しも一目で虜になってしまうだろう容姿の少年だった。彼も『不良には見えない』という点だけでは、鈴木と同じだろう。
しかし、それ以外は全くの別物。次元が違うと言ってもいい。
なんとなく外国の血を感じさせる、白い肌に彫りの深い顔立ち。長い睫毛の陰で輝くその瞳は、全てを見透かすかの如く澄んだ明るめの茶色。細い眉にかかった短い黒髪は春風とともに揺らいでいる。まさに、絵に描いたような『王子さま』。
そして、最も目を引くその特徴的なアヒル口には余裕の笑みが浮かんでいた。──入学式の朝から、先輩たち(もちろん、筋金入りの不良である)六人に囲まれたこの状況で、だ。
彼の足下には、すでに地面に沈む巨体があった。一瞬にしてこの美少年に背負い投げされてしまった金髪の大男である。
一見華奢な少年が自分の二倍はあるかという大男を投げ飛ばしたのだ。校庭で見ていた不良たちは唖然として彼を見つめていた。
そんな注目が集まる中、彼はおもむろに鞄から三十センチ定規を取り出した。それを剣でも掲げるように高々と天に向けると、やる気の無い声で言い放つ。
「藤本曽良だ、このやろー」
そして、彼──藤本曽良はにこりと微笑んだ。
「夜露死苦」
その笑みは、爽やかで愛嬌に満ちあふれていた。この世の全ての女性を昇天させるだろうイケメンスマイル。
しかし、それも不良には逆効果。
「ふ……ふざけやがって! イケメンだからって、調子に乗るなよ!」
校庭でことの成り行きを見守っていた不良たちが一斉に怒りの声をあげた。
暴動が起こりそうな勢いだ。
しかし、校庭に教師の姿はない。校舎から出てくる様子もない。「いつものことだ」といったところだろうか。
鈴木はそっとイケメンから顔を背けた。
巻き込まれるわけにはいかない。
そう。たとえ、彼──藤本曽良と知り合いだとしても……。