わたしが愛を失うとき
とあるサロンの一角にて。
「どうしたら、バイオレッタ夫人みたいにいつまでも夫に愛されるような妻になれるのでしょうか?」
一人の伯爵夫人のひと言で、その場にいた全員の視線がとある侯爵夫人に注がれた。
バイオレッタ夫人とその夫であるオーケルマン侯爵は社交界きってのおしどり夫婦として有名である。
特に侯爵から夫人への溺愛が第三者の目から見ても明らかなものだった。
夜会などの公の場でも夫人の側から離れることなく、常に肩や腰を抱き、身体を引き寄せるなど、見ているほうが目を覆いたくなるぐらいの溺愛ぶりだ。
人目のないところで愛娘を抱き上げた侯爵が、その隣にいた夫人にも変わらぬ愛を囁いていた、なんて目撃談まである。
侯爵の溺愛が人前だけのものではないことも、社交界では広く知れ渡っていた。
周囲から向けられる期待の眼差しを気に留めることなく紅茶を飲み続けていたバイオレッタが、静かにティーカップをソーサーへと置いた。
「簡単なことです」
バイオレッタはにっこりと微笑む。
「夫を愛することをやめればいいのです」
・・
少女時代のバイオレッタは、結婚に対してまだ夢を見ていた。
少なからず、両親の仲の良さに影響されていたのだろう。
母が若い頃に婚約者である父に一目で恋をして、長年惜しみない愛を父に注ぎ続けている。
そして、父もそんな母の一途な愛に絆され、それに応える形で母を愛していた。
バイオレッタは幼い頃からそんな仲睦まじい両親を間近で見ていたおかげで、夫婦とは生涯愛し合うものだと信じて疑わなかった。
伯爵令嬢であるバイオレッタの婚約者が決まったのは彼女が12歳の時。
相手は王家とも縁の深い由緒ある侯爵家の嫡男でバイオレッタよりも三つ年の離れた、リシャール・オーケルマン。
絵画から抜け出してきたような美しい出で立ちをしたリシャールが目の前に現れた瞬間、バイオレッタの心は一瞬にして奪われる。
一目惚れだった。
その日から、バイオレッタはリシャールに相応しい淑女になるため、惜しみなく努力を重ねた。
習い事も増やし、礼儀作法も同年代の令嬢たちの誰よりも早く習得した。
美しいリシャールの隣に並んでも恥ずかしくないよう、身なりも人一倍に気を遣った。
幼く見える自分が嫌で、痛いのを我慢して踵の高い靴を選んで履いた。
全ては大好きなリシャールのため。
バイオレッタも母と同じように自分の全てをリシャールに注ぐつもりだった。
しかし、リシャールから向けられる眼差しは決してバイオレッタと同じものではなかった。
顔を合わせると、リシャールの態度はいつも素っ気ないものだった。
バイオレッタに目を向けることはほとんどなく、たまにほんの一瞬だけ目が合っても、すぐに逸らされてしまう。
会話を始めても、はなからバイオレッタと話すつもりがないのか、返ってくるのは曖昧な返事ばかりで、すぐに会話が途切れてしまう。
二人の間には、沈黙の時間ばかりが流れていた。
一緒にいられるなら、どんな時間だってバイオレッタにとってはかけがえのないものだった。
けれども、リシャールは終始どこか落ち着かない様子で、一刻も早くこの場を離れたがっているように見えた。
まだ幼かったバイオレッタは、きっと自分の努力が足りないのだと己を責め、一人ひっそりと涙を流し、枕を濡らしていたものだ。
・
少しだけ時が流れ、バイオレッタが16になったとき。
リシャールにエスコートされ、初めて社交界の場に参加した。
目の前に広がる煌びやかな世界に圧倒されていたというのもあるが、普段見慣れない礼服姿のリシャールが素敵すぎて、ずっと胸が高鳴っていたのを覚えている。
初参加のバイオレッタが物珍しいのか、その日は大勢の人に話しかけられた。
挨拶に応じるたびにリシャールの機嫌がどんどん悪くなっていったため、バイオレッタは自分の立ち振舞に何か問題があるのか不安になっていく。
そんな時、自分の前では決して笑顔を見せないリシャールが、他の令嬢に笑いかける姿を目の当たりにしてしまう。
ショックだった。
バイオレッタがどんなに努力をしても、見ることができなかったリシャールの笑顔を、いとも簡単に向けてもらえる令嬢が心の底から羨ましかった。
どうしたら、自分にもあの笑顔を向けてもらえるのだろうか。
バイオレッタはその日から、より一層己に磨きをかけることにした。
努力の甲斐あって、バイオレッタはリシャールの美しい婚約者として社交界でも徐々に名が知られるようになっていた。
しかし、それでもリシャールのバイオレッタに対する態度が変わることはなかった。
むしろバイオレッタの評判が上がれば上がるほど、彼の反応は冷ややかなものになっていく。
どうすればリシャールに見てもらえるようになるかわからず、母に泣きついたこともあった。
バイオレッタの頭を撫でながら母は言った。
「あなたが彼を愛することをやめなければ、きっと応えてくれるはずよ」
その言葉を信じ、バイオレッタはリシャールを愛し続けた。
いつか、ほんの少しでもいいからリシャールから、愛が返ってくれることを願って。
・
年に一度、バイオレッタが毎年心待ちにしている日があった。
それはバイオレッタの誕生日であり、リシャールに気に掛けてもらえる唯一の日でもあった。
リシャールと婚約してから毎年、彼は手渡しでプレゼントと小さな花束を贈ってくれる。
それも、毎年違うものを、だ。
もしリシャールが事務的に婚約者であるバイオレッタに贈り物をするだけだったら、わざわざ直接渡しに来ることはしないだろう。
ぶっきらぼうで、ぎこちないのは変わらないが、この日に限って、リシャールはバイオレッタの目を見て、「おめでとう」と祝ってくれる。
たったそれだけのことがバイオレッタにとっては、何よりも特別だった。
18の誕生日のとき、赤い薔薇の花束と一緒に、リシャールから指輪を贈られる。
リシャールの瞳と同じ、碧色のサファイアが埋め込まれた指輪だった。
「特に意味はない」と吐き捨てるように言われたが、バイオレッタは泣きたくなるぐらい嬉しかった。
指輪に特別な意味はないのかもしれない。
それでも、もしかしたらリシャールもバイオレッタとの婚姻を心待ちにしているかもしれない。
自分の愛がようやくリシャールに届いたのかもしれないと淡い期待を持ち始めてしまった。
しかし、それは間違いだったとすぐに思い知らされる。
その日、バイオレッタは毎月あるリシャールと会う日に、彼の好きなお茶菓子を用意しようと、街に出た。
お目当てのお茶菓子が買えて、それを食べたときにリシャールがほんの少し頬を緩めたのを思い出し、バイオレッタは気分よく帰路につこうとした。
すると、目の前の扉が開かれ、腕を組んでいる男女が店から出てきた。
その男女の姿を確認した瞬間、バイオレッタは持っていた紙袋を落としてしまう。
今まで見たことのないほど楽しそうな笑顔のリシャールだった。
そして、そんなリシャールに腕を絡めているのは夜会で彼とよく会話している伯爵令嬢だった。
腕を組みながら、仲睦まじく会話するリシャールとその女性は、バイオレッタの存在には気付かないまま、背を向けて歩いていってしまう。
一緒に来ていた付き人が何か慰めの言葉を掛けてくれていたが、バイオレッタの耳には何一つ入ってこなかった。
・
後日、リシャールと会う日。
あの日、街中で見た笑顔が幻かのようにリシャールの顔は険しく、バイオレッタには見向きもしてくれない。
いつもなら、会えるだけで嬉しいバイオレッタだがその日はどうしても胸のざわめきが収まらない。
「......あの方は、どなたですか?」
つい抑えきれなくなり、バイオレッタはリシャールに聞いてしまった。
「......誰のことを言っている?」
リシャールの声は冷たかった。
心臓を鷲掴みされたような感覚に陥ったバイオレッタは膝の上で震える拳を小さく握った。
「夜会で、いつもリシャール様に声を掛けてきてくださる女性です」
「......あぁ、タチアナのことか」
リシャールの口から出てきた女性の名前に、バイオレッタは唇をぎゅっと引き結ぶ。
バイオレッタの名前なんて数えるほどしか呼んでくれないのに、彼女の名前はすんなりと出てくる。
言いようもない悔しさが体の奥底から湧き上がってきた。
「......随分と仲がよろしいのですね」
「別に、ただの腐れ縁だ」
リシャールは面倒くさそうに答える。
「腐れ縁の女性とは、腕を組んでくださるのですね」
自分が思ったよりも強い口調だった。
リシャールが驚いたように目を見開き、バイオレッタを見る。
こんな醜い自分をリシャールに見られたくない。それでも、バイオレッタは止まることができなかった。
「わたしとは、手さえも繋いでくださらないのに......」
涙が零れ落ちそうになるのを必死に堪えて、バイオレッタはリシャールにほんの小さな不満を訴えてしまった。
リシャールはバツが悪そうに目を伏せる。
その表情を見て、バイオレッタはとんでもないことを口走ってしまったと慌てて訂正しようとする。
しかし。
「そんな辛気臭い顔をするな」
「えっ...」
「タチアナはそんな顔、一度だって見せたことがなかったぞ」
まるでバイオレッタを責めるような口振りだった。
その瞬間、バイオレッタの中で何かがぷつりと切れた。
・
その日から、バイオレッタはリシャールに対して何も感じなくなってしまった。
目の前にリシャールがいても、ただそこにいるなとしか思わなくなってしまった。
あんなに楽しみにしていたリシャールと会う日も、日々の日常の一部として過ごすようになった。
笑いかけることもなく、熱い視線を送ることもなく、無理に自分から会話を切り出すこともなくなった。
ただ淡々と時間が過ぎ去るのを待っていた。
そんなバイオレッタに、最初は気にする素振りを見せなかったリシャールだったが、段々とバイオレッタがいつもと違うと気づき始めたのか、チラチラと視線を送るようになってきた。
バイオレッタがそれに反応することはなかった。
あんなにも見てほしかったのに。
公の場でも、バイオレッタは同じだった。
一応、婚約者なのでリシャールにエスコートはされるが、ただそれだけ。
リシャールが至近距離にいてもドキドキしなくなったし、腕に手を添えるときも緊張で手が震えることもなくなった。
元々、会話が多い間柄ではなかったため、周囲から二人の間に流れるものが微妙に違うと気付く者はいない。
リシャールの腐れ縁の伯爵令嬢、タチアナが彼に話しかけてきたとしても、バイオレッタの心が荒れることはなかった。
自分でも驚くぐらい、凪いでいた。
目の前で二人が楽しそうに会話していても、ただの景色の一部として眺められるようになっていた。
時折、リシャールがバイオレッタをちらりと見てくるが、もうどうでもよかった。
バイオレッタの指に、リシャールから贈られた指輪は嵌められていなかった。
・
「それでは、失礼いたします」
淡々と別れの挨拶をしたバイオレッタはソファから立ち上がる。
ここ最近、リシャールと会うことも事務的になってきており、今日も特に何も話さずお開きになった。
その、予定だった。
「ーーー待て」
バイオレッタが部屋の出口に向かおうとすると、リシャールから声が上がる。
その声で立ち止まったバイオレッタはゆっくりと振り向いた。
「どうされましたか」
何の感情も込められていない瞳をリシャールに向ける。
一瞬、リシャールがたじろんだように見えたが、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
「最近、何か変わったことはあったか」
「いえ、特には」
「......体調が優れないとか」
「いたって健康です」
バイオレッタが抑揚なく返すと、リシャールは目を伏せ、黙ってしまった。
「もうよろしいでしょうか。それではーー」
「男でも、できたのか」
「は?」
思わず、声が漏れ出てしまった。
苛立ったように眉間を寄せたリシャールが、バイオレッタを睨む。
「だから......、男ができたのかと聞いている」
「......いえ」
リシャールが舌を打つ。
「それでは、最近の態度はなんだ!!」
随分と荒々しい口調だった。
しかし、バイオレッタが臆することはなかった。
「何か、ご不満でも」
「そういうことではない。ただーー」
その先は言いたくないのかリシャールが唇を引き結ぶ。
バイオレッタが静かに見つめる中、躊躇いがちに再び口を開く。
「お前は、俺を好いているはずだろう」
リシャールの深い碧眼が真っ直ぐバイオレッタを見つめる。
その瞳から逸らすことなく、バイオレッタは答えた。
「そうですね、嫌いではありません」
もう、愛してもいないけど。
好きでもない、嫌いでもない。
ただ、夫になるだけの男にバイオレッタは微笑んだ。
リシャールが目を見開かせ、固まっている。
返事がなかったため、バイオレッタは再びリシャールに背中を向け、部屋から立ち去ろうとする。
しかし。
「待て」
またリシャールに呼び止められる。
少しの煩わしさを感じたバイオレッタが渋々振り返る。
すると、そこには何かを堪えるように強く唇を引き結び、縋るような眼差しをバイオレッタに向けるリシャールの姿があった。
どこか既視感のある眼差しだった。
まだリシャールに恋焦がれていたバイオレッタの姿が頭によぎる。
無意識のうちに、バイオレッタの口が開いた。
「......リシャール様は、わたしのことが好きなのですか?」
突然のバイオレッタの言葉に、リシャールはあからさまに狼狽える。
「そ、そんなことない!!!」
眉を吊り上げ、まるで怒っているように叫んだリシャールをバイオレッタはただ静かに見つめ返した。
「そうですか」
そして、そのまま踵を返す。
バイオレッタがドアノブに手を添える。
すると。
「..................す、好きだ」
喉の奥から絞り出すような、細い声が耳に届いた。
バイオレッタはピタリと動きを止め、リシャールに振り返った。
「今、なんて?」
バイオレッタが聞き返す。リシャールの顔が見る見るうちに赤く染まっていく。
初めて見る表情だった。
「す、好きだ。愛している」
今度ははっきりと愛を告げた。
少女の頃、欲しくてたまらなかったリシャールの愛の告白がこんなに簡単に聞けるとは思わなかった。
しかし、バイオレッタにはもう何も響かないーーー
はずだった。
リシャールの見たことのない表情と、自分に向けられた愛の告白に、バイオレッタは指先が微かに震えていることに気付いた。
バイオレッタが観察するようにじっとリシャールを見つめると、彼はその視線から逃げるように顔を逸らす。
バイオレッタの中で何かが小さく疼く。
「......リシャール様は、わたしに愛してほしいのですか」
「そ、それは......」
右往左往と視線を彷徨わせたリシャールは、言葉を詰まらせる。
そして、観念したかのように
「あ、愛してほしい......」
そう小さく呟いた。
その言葉にバイオレッタは目を細める。
かつて、あんなにも欲しかったリシャールの愛が、彼を愛することをやめたことによって、ようやくバイオレッタに向けられた。
なんとも、皮肉なものだ。
「そうですか......、それではわたしに愛を乞うてください」
「は?」
「ですから、わたしに愛してほしいのでしたら、毎日わたしに愛してほしいと言ってください」
バイオレッタは薄く笑う。
「そしたら、わたしもリシャール様を愛して差し上げましょう」
しかし、バイオレッタはもう幼い少女ではない。
自らの愛を簡単に差し出すことなどしない。
「な、何をふざけたことを......!!!!」
屈辱的な言葉だったのか、顔を真っ赤にさせたリシャールが怒りで肩を震わせる。
「そうですか、なら仕方ないですね」
バイオレッタはくるりとリシャールに背を向ける。
リシャールが慌てたように声を上げた。
「わ、わかった!!わかった!!!愛してほしい!!愛してほしいというから...」
悲鳴にも似た懇願に、バイオレッタは肩越しにリシャールを見る。
「だから......、愛していると言ってくれ...」
頬を染め、声を震わせ、情けないぐらいに自分に愛を求めてくる男に、バイオレッタはにっこりと微笑む。
「えぇ、愛してますよ。リシャール様」
まるで恋をする少女かのように。
・・
「ふふっ」
当時のことを思い出していたバイオレッタは、つい声を出して笑ってしまった。
普段、声を上げて笑うことがないバイオレッタに周囲の婦人たちが驚き、お互い目配せし合う。
「バイオレッタ」
そこに、噂のオーケルマン侯爵、リシャールがバイオレッタを迎えに姿を現す。
部屋に入ってくるなり、まっすぐバイオレッタの元へと向かってくる。
「会いたかった、バイオレッタ」
そして、人目を憚らずリシャールはバイオレッタの額に口付けを落とす。
その瞳にはバイオレッタしか映っていないのか、彼女だけを見ていた。
噂通りの溺愛ぶりを目の前で繰り広げられ、バイオレッタを取り囲んでいた婦人たちは小さく息を呑んだ。
リシャールが手を差し伸べると、バイオレッタは躊躇うことなく、夫に手を重ねる。
「それでは、皆様。わたしはここで御暇させていただきます。また後日、お会いいたしましょう」
流れるような所作でカーテシーをしたバイオレッタは、リシャールの腕にそっと手を添え、夫と共にサロンを後にする。
その後ろ姿はやはり、おしどり夫婦そのもので、誰もバイオレッタの先ほどの言葉を信じる者はいなかった。
・
サロンから出て、バイオレッタはリシャールにエスコートされ、馬車までの道を歩く。
「随分と機嫌がいいじゃないか」
リシャールの言葉で、バイオレッタは自身の頬が自然と緩んでいたことに気付く。
「いったい、何の話をしていたんだ」
碧い瞳がバイオレッタを覗き込む。
「どうしたら、そこまで旦那様に愛されることが出来るのかと聞かれたのです」
バイオレッタが隠すことなく、正直に答えると、リシャールの表情が一瞬だけ固まる。
そして、苦々しい表情で「そうか......」とだけ呟いた。
「あら、どうされましたか?」
少しだけ意地悪に微笑んだバイオレッタがリシャールの顔を覗き込むように首を傾げる。
「......いや、なんでもない」
そう言って、リシャールはバイオレッタの腰に手を添えて、彼女の細い身体を自分の方へと引き寄せた。
「愛している、バイオレッタ」
あの頃と比べて、淀みのない愛の告白だった。
「えぇ、存じておりますよ」
あの日から、バイオレッタは毎日のようにリシャールから愛を捧げられている。
「君も、俺を愛してくれているか」
「ふふ、どうでしょう」
バイオレッタの意地の悪い反応に、リシャールは少しだけ面白くなさそうな顔をする。
「......愛してほしい」
バイオレッタは目を細め、穏やかに微笑んだ。
「えぇ、もちろん、愛していますよ」
あなたが、愛を求め続けてくれる限り。




